22.決意とともに

 じりじりと、蝋燭の炎が揺らぐ。その下で、細い指が迷いなく紙をなぞり、鉄筆が別の紙に黒い文字を躍らせた。炎と、紙と、金属と。その音だけが支配する時間。深い闇に沈んでいた世界は、薄青色を帯びてゆく。わずかずつ、それでも確かに迫る夜明け。その中で、彼はただ、流れる音を聞き続けた。

 やがてその音はぴたりとやむ。紙の上を滑っていた指も、文字を書きだしていた鉄筆も、動きを止める。灯る炎が一瞬、ぶれた。細い吐息。そのあとに、紙と向きあっていた少女が、上体を起こした。

「終わった」

 はじめて落ちた人の声が、作業の終わりを告げる。薄明の中、琥珀の瞳がきらりと光った。

 かたわらで、壁に背を預けて少女を見守っていた彼は、ゆっくりと体を起こす。組んでいた腕をほどき、口を開いた。

「いけそうか?」

「うむ、頭に入った。あとは、《神官》の方々と竜たちを呼び集めて、陣を描けば、儀式を始められる」

「よかった、いよいよだな」

「――いよいよだ」

 彼が微笑むと、少女、ゼフィアー・ウェンデルも晴れやかに言う。今の彼女はどことなく、神々しい雰囲気さえ、まとっているように見える。そのことに、不思議な安心感と一抹の寂しさをおぼえ、彼はまた少女の頭をそっとなでた。

 ふと、窓の方を振り返れば、白い山々の隙間から、朝の光が細くさしこんできていた。


 カルトノーアにたどり着いてから、数日を宿での解読に費やした。その結果、いよいよゼフィアーは陣の大部分を理解することができたようだ。大きな古紙をたたみ、「後は、これに従ってやるだけだな」と神妙な面持ちで、手順書をめくっていた。ほかの仲間たちが起きだすまで、ディランとマリエットは彼女のそんな姿を見守っていた。


 夜が明け、全員が起床して朝食を終えたあと。ゼフィアーは陣の解読が終わったことを彼らに告げた。

「おっ。じゃあいよいよ、儀式をするわけだな」

 トランスが弾んだ声で言う。ゼフィアーはうなずいた。

「うむ。ただ……故郷にいたころ聞いた話によれば、儀式をやる場所にも向き不向きがあるようなのだ」

「どういうことですか?」とレビが首をひねる。ディランが答えた。

「儀式の効果がよく表れる場所と、そうじゃない場所があるんだよ。《魂還しの儀式》の場合、竜の魂がまんべんなく自然に溶けないといけないから、よく高所で行われていたらしい」

 彼が淡々と言うと、部屋に沈黙が落ちた。誰もが、それぞれ、考えこむ。

「高所ってえと、たとえば……」

「丘とか、山?」

 髭をなでて呟くトランスの言葉のあとを、チトセが引きとる。ディランはそれらにうなずいた。

「そのあたりについては、竜やほかの『伝の一族』にあたってみるといいかもしれない。《魂還しの儀式》をやる場所をきちんと決めてから動いた方がいい」

「そうだな。その方が、俺らも動きやすいし」

――突然、第三者の声が割り込んだ。六人はぎょっとして、声のした方、宿屋の窓の方を振り返る。いつの間にか、古い窓枠に、傭兵の男が腰かけていた。胸のところで、赤銅色の首飾りが揺れている。見知った顔に驚いて、ディランは身を乗り出した。

「びっくりした! なんだよ、突然!」

 ディランが裏返った声で言うと、『暁の傭兵団』の男は、楽しげに手を振った。

「首尾はどうかと思ってさ。ダメもとでカルトノーアに来たんだよ。まだ滞在してくれててよかった」

 儀式の準備も順調みたいだな、と言って、彼は大きく伸びをする。それに「うむ」と答えたゼフィアーは、とてとてと窓際に歩み寄ると、手にしていた手順書を傭兵の方へ突き出した。突然、紙の束を差し出された男は、目を丸くする。

「《儀式》の手順が書かれたものだ。あった方がいいだろう?」

「ん? おう、その方が『説得』にもいい味付けができそうだな」

「では、今から現代語で書きうつすから待ってくれ」

 ゼフィアーはそう言うなり、再び紙と向きあいはじめた。手早く白紙に書写する少女を、レビとチトセが感心のこもった目で見つめている。彼らの様子を脇見しつつ、ディランは壁にもたれかかり、傭兵に話しかけた。

「場所はこれから決めるところだ。わかったら知らせたいから、今後も定期的にのぞいてくれると助かるんだけど」

 男は、室内に足をのばしてぶらぶらさせる。

「おー、わかった。ほかの団員にも言っとくぜ」

「ありがとう。そっちは、どうだ?」

「ん? まあまあ、かな」

 説得の状況を聞くと、傭兵は曖昧に言ってまた伸びをした。ただ、表情を見る限りは、それほど悪い状況でもなさそうだ。話の内容がどうこうというよりも、傭兵団の存在そのもの、あるいはジエッタの言葉じたいになびく人も多いだろう。『烈火』の弟子はその光景を想像して、微笑んだ。

「もう少し、頼む」

 ディランが、心からの思いを口にすれば、傭兵はいつものように、にっと笑った。

「任せとけって」

 彼はそして、ディランの方に手を差し出す。ディランも口をほころばせ、それにこたえた。ひらいた両手を打ちあう音が、朝の空気に弾けた。

 ほどなくして、ゼフィアーの書きうつしが終わった。特に大事なところを書きとめたというその紙束を、彼女は改めて傭兵に手渡した。男は明るく礼を述べると、そのまま窓から飛び降りて去って行った。レビが街を見下ろしながら「ここ、二階……」と呟いていたのだが、ディランはあえて何も言わないことにする。傭兵が見えなくなるまで見送ったあと、荷を整えて――六人は、改まった表情で向きあう。

「いよいよ、出発ですか?」

 レビが軽く首をかしげた。

「まずは竜を探さねば。それと、《儀式》の手順は歩きながら説明する」

「おう、頼むぜ、ゼフィー」

 ちょうどゼフィアーの隣にいたトランスは、少女の頭を軽くなでた。ふふ、と吐息のような笑声をこぼした彼女は、晴れやかな表情でみんなを見た。

「もう少しだ。どうか、力を貸してほしい」

 ゼフィアーはそう言うと、その場で頭を下げる。ほとんどの人が強くうなずいたが、チトセだけはうなずきはせず呟いた。

「あたしは本気で参加する気はないからね。やばくなったら手伝うだけ」

 そっけない少女は、憂いのこもった目で五人をちらちらうかがっている。彼らは思わず微笑んだ。結局、『伝の一族』の末裔たる少女の言葉を拒む人は、一人もいなかったのである。

 ただそのとき、ディランはは穏やかな笑みの裏側で、小さく拳を固めていた。頭をもたげたそれを、逡巡しゅんじゅんと呼べばいいのか、躊躇ちゅうちょと名付ければいいのかわからない。優しい沈黙の先で、彼が口を開こうとしたとき――女性の声が、先手を打った。

「そのことなのだけれど」

 マリエットだ。全員の視線が、槍を寝かせて抱えている彼女に集まる。驚きと戸惑いの視線を一身に受けた彼女は、やわらかく微笑んだ。

「もちろん、ゼフィーに力を貸すことには異論はないわ。反対しているなら、そもそも陣の解読にも協力しないもの。ただね……」

 一瞬、言葉を切った彼女が、水竜の少年の方を見る。

「ディラン。あなたは、《儀式》に参加しない方がいい」

 冷たい声が、場を打った。


 すべての音がその一声に吸い込まれてしまったかのように、部屋がしんと静まりかえる。誰もが唖然としてディランとマリエットを見比べた。そして、当事者二人はいつの間にか、どちらも表情を消してそこにいた。感情が抜け落ち、うつろになった心を抱いて、ディランはしばらく言葉を探す。しかしまた、彼が言うべきことを見つける前に、別の声が響いた。

「おいおい、マリエットよ。いくらなんでも、ディラン抜きはきついぜ。ただでさえ、主竜二十頭分の力がいるんだろ?」

 あきれ返っているトランスに便乗して、ゼフィアーやレビも身を乗り出す。

「そ、そうだ! だいたい、なぜ今そのようなことを……」

「《儀式》に思いがあるのは、ディランも一緒なんですよ! ねえ!」

 レビはそう言って、ハシバミ色の瞳をディランに向ける。彼は、どう返していいかわからず、曖昧に微笑んだ。他人の機微に敏感な少年の表情は、たちまち不信感をまとってこわばった。子どもたちを、マリエットはいっそ冷淡ともいえる表情で見渡す。

「もちろん、私も彼の気持ちはわかっているつもり。けれどね、ディランはとても弱っているの。ふだんは巧妙に隠しているようだけれど。『伝の一族』のゼフィアーにすら気づかせなかったんだもの」

「何? ど、どういうことだ?」

 その後も、何かしら言い合う声は続いた。けれど、ディランの耳にはどれも遠い音のように聞こえた。弱っている、そう言われた瞬間、今まで覆い固めていたものが、少しずつ崩れ出したような気がした。一気に、虚脱感が襲ってきて、無意識に体を丸める。いけない、と思い視線を上げたとき――ゼフィアーと目があった。琥珀色とも金色ともとれる、不思議な色の瞳が、激情を宿して見開かれる。

「ディラン……お主……なんだ、それは!?」

 ゼフィアーは突然、金切り声を上げた。驚いて飛びあがる人々を歯牙にもかけず、彼女はディランの方へ顔を突き出した。

「なんなのだ、その有様は! それほどの……どうして今まで隠していた!?」

 まわりの五人が息をのんだ。ディランは静かに少女を見ていた。詰め寄ってきたゼフィアーの両目から、大粒の涙がぽたぽたこぼれ落ちている。先程まで、平然としていたとは思えない変わりようだが、ディランは驚かなかった。彼女は『伝の一族』特有の感覚を持っている。彼が隠すのをやめたことで、魂の傷を――その深さを、痛みか悲しみか、なんらかの形で感じ取ってしまったのだろう。

 どんな顔をしてよいかわからなかった。ひとまず泣きだしたゼフィアーを落ち着かせようと、茶髪をくしゃりとかきまぜる。

「一度、魂に傷を負うと、治るまでに少なくとも十年かかると言われているわ」

 マリエットの声がする。ディランは小さくうなずいた。

「そうだな。その十年っていうのも、浅い傷の場合だ。……あの《破邪の神槍》に喰われた魂が、二十年そこらで治るわけがない。加えて、これまでの旅で何度か竜狩人と衝突して、怪我もしてる」

 少年の手は、無意識に腹のあたりをさする。誰もが重々しく口をつぐむ中で、ディランは唇を歪めた。

「だからさ。ディルネオの魂は、もうぼろぼろなんだよ。いつまでもつかわからない」

 泣きそうなくらい、胸が苦しいのに。涙はにじみもしなかった。


 しばらく、誰も声を発さなかった。壁や床の軋み、外から聞こえる足音、場違いな音だけが、不規則に響く。長くのびてゆきそうな沈黙を断ち切って息を吐いたのは、トランスだった。

「それって、つまり。《魂還しの儀式》やなんかで、これ以上負担をかけたらまずいってことだよな?」

 確認の言葉に、水竜は「ああ」と返した。とたん、呪縛が解かれたかのように、部屋の中がざわついた。それまで言葉を失っていたレビやチトセも前のめりになり、厳しい顔を向けてくる。

「ど、どうして今まで言ってくれなかったんですか!?」

「……下手に話して、ゼフィーやみんなをためらわせたら悪いと思ってな。ちょうど、陣の解読が終わったときに、話そうと思ってたんだよ」

「そんなの――」

 まくし立てようとしたレビを、ディランは手で制す。それから、少し、微笑んだ。うまく笑えた気はしていなかったが。

「それにな。こんな話を途中でしたら、みんな絶対、俺の儀式参加に反対しただろ。さっきのマリエットみたいに」

 ゼフィアーとレビが、それは、と言って声を詰まらせる。ほかの三人は、苦々しげな表情で、押し黙っていた。

「魂がまずい状態だっていうのは、誰より自分がわかってる、つもりだ。でも、それでもやりたいんだよ。せっかく竜の魂を還す方法が見つかって、いろんな人が人間と竜の説得に協力してくれてる。昔から思い描いてきた世界に、ようやく近づいてきてる。だからこそ、《魂還しの儀式》には、なんとしても立ちあいたい」

 たとえその結果、命を落とすことになっても。

 言葉の向こうの微笑に、暗い気負いはない。ディランの中にはごまかしも、ためらいも、ないのだ。

 声が宙を漂って、少しずつ消えたあと。チトセがいきなり、立ちあがった。

「なんでよ」

 とげを含んだ声が、木の床に落ちる。つり目がぎっと、水竜をにらんだ。

「なんでいつもいつも、すぐ自分を犠牲にしようとすんのよ。世のため人のためってやつ? ばっかじゃないの!? どうしたらそんな……何もかもあきらめたみたいな生き方できるわけ!?」

 少女は叫んだ。手槍も刀もそばにはないが、今すぐにでもディランに飛びかかりそうな勢いだ。空気を切り裂くように怒鳴った彼女は、肩で息をしながら少年をねめつける。ディランは少し目を伏せたあと、チトセを見上げ、ぽつりと返した。

「世のためでも、誰かのためでもないよ。自分のためだ」

 思えばいつも、焦りと後悔にさいなまれていた。焼けつくような感情に、急き立てられるようにして、空を飛びまわっていた。

 ふいに浮かんで弾けた記憶の断片をもてあそび、ディランはふっと苦笑する。

「今の世界をどうにかしたいと俺が思ったから。無力感や絶望をまぎらわせたいと思ったから。みんなと一緒に、成功させたいと思ったから――だからやっているだけなんだ。じゃなきゃとても、命まで投げ出そうと思えない」

 裏切られ、責め立てられてなお、生きたいと思ったのだ。ただ他者のために死ぬなんて、昔ならばともかく、今はごめんだと思う。

 矜持も使命感も閉じこめて、人として生きた今だから。自分のためにやってやろうと、思えた。

 チトセは無言のまま深呼吸をしていたが、それが終わるとなぜだかえらそうに、腰に手を当てた。

「決めた。前言撤回よ」

 いきなりそんなことを言う。訝る人々に向けて、彼女は毅然として言い放った。

「あたしも本気で儀式に参加する。こんな死に急ぎ野郎、黙って見てなんていられない。今回に限っては人も竜も関係なしよ」

 それを聞いた人と竜は絶句した。

 チトセがそれでも立ったままでいると、ぱん、と軽い音が響く。レビが、手を打っていた。

「そう、そうですよ。チトセの言う通りです。みんなで、全力で儀式をやればいいんです。ディランが、魂に負担をかけなくていいくらい!」

 ハシバミ色の大きな瞳が、希望を宿してきらきら輝いた。言葉の奥にひそむ意味をくみとって、一行はたちまち明るさを取り戻していった。

「なるほどな、言われてみりゃ、そのとおりだ」

「頑張って、たくさんの竜に声をかけようか! イグニシオやクレティオに手伝ってもらえれば、陣の発動に必要な力をまかなうだけの竜も、きっと集まるぞ!」

「そうね。レビもチトセも、賢いわ」

 トランスとゼフィアーが意気揚々とやり取りし、最初は反対していたマリエットでさえ、ふわりと笑った。はりつめていた空気が一転、輝きだしたことに、ディランはぽかんとする。急に、照れくさくなって、頬をかいた。

「みんな、ありがとう」

 ディランがしみじみと感謝を口にすると、六人は悪戯っぽく目を光らせる。「今さらだ」と音なき声が語っていた。

 チトセがすとんと座りこんだのを見届けて、ディランはおもむろに、宙に拳を突き出した。意図に気づいた何人かが、同じように腕を差し出す。取り残されかけた人も、それにならった。

「――それじゃ、行こうか。竜の魂を還しに」

 答える声はない。うなずく者もいない。

 六人はただ、強く拳を打ちあった。

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