16.弔い
『本当によいのか?』
彼がそう訊くと、目の前で翼を畳んだ若竜は、穏やかにほほ笑んだ。
『ええ。私はもう、決めました。眷族としてあなたに従うと』
『……そうか』
揺らぎのない、言葉。
彼はため息をついた。若竜の意志を聞いたのはこれが初めてだ。けれどきっと、この竜の中ではずいぶん前から決まっていたことなのだろう。であれば、今さらその決意に何か意見をする意味はない。もはや何を言ったところで、心がひるがえることなどありはしないのだから。
『それなら、何か誓いを立ててもらわねばな。堅苦しくてすまないが、契約のための儀式だから、受け入れてくれ』
あえて厳かにそう言うと、若竜は低く喉を鳴らした。『難しく考えなくていい』と言ったが、相手は予想とは違う答えを返してくれる。
『ご心配には及びません。誓うべきことは、もう、私の胸の中にあります』
どこまでも静かな声でそう言うなり――若竜は、彼の前でこうべを垂れた。洗練された眷族の礼に息をのみつつ、彼も今までそうしてきたように彼を見下ろした。これが返礼なのだ。
深い響きを伴った
『我が身のすべてをあなた様に捧げましょう。人と竜が平穏に暮らせる社会を作る――その、気高き志のために』
これが、私の誓いです。
清らかな若き竜はそう言って、彼をまっすぐに見つめた。
※
どこまでも続いていそうな灰色の道を歩いている。六人分の足音に混じって響くのは、不規則な水の音。天井から染みだした水は雫となって降り、ときどき彼らの頭を濡らした。
「ここ、すごく懐かしいです」
金の髪をふわふわ揺らす少年はそう言って、岩の天井を見上げた。隣にいた長槍を携えた女性が、興味深そうに彼を見る。
「来たことがあるの、レビ?」
「はい……たぶん。前に旅をしていたとき、商人のみなさんに混じって通り抜けたんだと思います」
レビはほほ笑んで、慈しむように語る。横でそれを聞いていたディランは、目を細めた。そういえば、レビが昔の旅の話をするのはいつぶりだろうか。そんなことを思う。一方、彼の右斜め後ろを歩いていたチトセが、つまらなそうな顔をした。
「旅の経験がある割に、結構どんくさいわよね、あんた」
「……チトセ。いちいち人が怒るようなこと言わないと、気が済まないの?」
「事実を言っただけよ」
「それでも、言っていいことと悪いことがあるでしょ!」
幼さの残る少年と、年の割に刺々しい少女がにらみあう。かたわらで見守っている四人は苦笑した。このところ角の取れてきたチトセだが、なぜかレビには、未だに突っかかる。幸いレビは怒りっぽい子ではないため、けんかにはならないが、激しい言いあいが繰り広げられることはままあった。
日常茶飯事、ゆえに仲間たちも対応に慣れてきた。「はいはいはい、そこまでだ」と、ゼフィアーが二人の間に割り込んで、なだめる。
「もうすぐ越えるぞ。平原がどうなっているかわからんから、気を引き締めるのだ」
現実的な言葉で諭された二人は、それぞれに引き下がった。レビはもう気にしていない様子だが、チトセは鋭い視線を『
「あれでへこたれないゼフィーも、大物だよなあ」
一部始終を見守っていたトランスが、のんきに呟いた。
彼ら六人がいるのは、西の山岳地帯の抜け道である。かつて、竜狩りの影響で発生した大雨に潰されたため、一時期使えなくなった道だ。あれから少しずつ、道を使う人々によって手が入れられ、また通行できるようになったらしい。崩れ落ちてこないか、というレビの不安に同意しつつも、一行はこの道を使うことを選んだ。
二人の口論がおさまると、また静かな道のりが続いた。山岳地帯をぶち抜くように作られた道のため、当然山登りと同じくらい険しい。次第に六人の口数は減り、最後には全員が押し黙ってしまった。
疲労と緊張が限界までふくれあがった頃、視線の先に白い光が差し込んでくる。
「お、もう少しだな」
ディランは
一歩進むごとに空気の流れが感じられるようになる。風に乗って、優しい土の香りが漂ってきた。トランスが先頭に立ち、一行を手招く。彼らは続いて進み――やがて、起伏の激しい抜け道を通り抜けた。
ゼフィアーが大きく息を吐きだし、額をぬぐった。レビやチトセも「ちょっと休憩」と言って立ち止まっている。
「若いのに情けないねえ、君たち」
そう言ったトランスは、チトセの無言の蹴りを食らった。
子どもたちが体を休めている間、ディランは平原の様子を観察する。あれだけの豪雨にさらされたにもかかわらず、平原は以前と変わらず、どこまでも静かに広がっているようだった。道を逸れ、川の方に行けば氾濫の跡が見られそうではあるが、だだっ広い大地から、災禍の影は感じられない。
ただし。
「やっぱり、重苦しい感じはあるな……」
「何かわかるの?」
ディランがひとりごちたとき、マリエットが隣に歩み寄ってくる。彼は軽くうなずいた。
「砕けた魂の気配が、まだ残ってるんだ」
「なるほどね。竜ならそれを感じてもおかしくはないわね」
そういうこと、とディランは肩をすくめる。
二人とも、すぐ後ろでへたりこんでいたゼフィアーが顔をゆがめたのは、知らなかった。
子どもたちの休憩が終わるのを待って、六人は再び歩き出した。平原に人の気配はない。たまに、野うさぎか何かの影を見かける程度だった。「もともと、それなりに人が通る場所だったと思うけど」とトランスが首をかしげている。
「やっぱり、大雨の影響はあるんじゃない?
「うむ。それに、墜落する竜の姿が目撃されてもいるわけだしな。不吉な場所、という噂が立ったかもしれん」
チトセの意見にゼフィアーがうなずいた。落ち着いているように見えるが、笑んだ口もとや目の奥に、隠しきれない自嘲と後悔がにじんでいる。当時を知る三人は、顔を見合わせて黙りこんだ。
そのとき、後ろの空から羽ばたきの音がした。ディランは振り返り、見えたものに驚く。
一頭の竜が飛んできたのだ。遠目からでもわかる青い鱗をきらめかせる竜は、彼らに気づいたのか速度を上げた。
「ん? どこの竜さんですか?」
不思議そうにするレビをよそに、ディランはほほ笑んだ。覚えのある気配の持ち主に向かって、声を張り上げる。
『リヴィエロ、こっちだ』
『こんなところで、何をしているんだ』
『ここの話をおまえの眷族から聞いてさ。今、どうなってるかなって、様子を見に来たんだ』
水竜はいつもの調子で答えた。しかし、言葉の意味を悟ったディランは息をのむ。身をかたくしたのは彼だけではなかった。
『ここの話って……竜狩りの、ことか?』
ゼフィアーが苦しげに尋ねた。水竜は驚いた顔をした後、気遣わしげに少女を見やって一度喉を鳴らす。
――思い出すときこみあげるのは、ひどいやりきれなさと無力感だ。
人として生きていたディランが、初めて竜を知ることとなった出来事。豪雨の先で、血だまりに沈む青い竜の姿は、今でも鮮明に思い出せる。
そして現在は、また違う感情を抱いてもいた。
目に
「少し、寄り道してもいいか?」
唐突な申し出に、異を唱える者はいなかった。
平原をまっすぐ西へ突き進めばマーテラ
「あ、あの木」
先を見て、レビが声を弾ませる。ハシバミ色の瞳は、川むこうに佇む低木を見ていた。
「あのあたりで、トランスさんが襲ってきたんでしたっけ」
「おいこらレビ坊。人聞きの悪いことを言うんじゃない。あのときの俺は、竜を守ってあげようって考えてただけの善良な一般人よ」
ころころ笑いながら言うレビを、トランスが止める。だが、さらにそのトランスをチトセがにらみつけた。「善良な一般人が人に向かって矢を射るの?」という鋭い指摘に、男は沈黙する。彼らのやり取りを笑いながら見ていたディランは、しかし、視線を落とすと呟いた。
「……そうだな。ちょうど、このあたりだった」
懐古というには暗い呟きが、土に落ちて跳ねる。
ちょうど、青い竜の死骸はここにあった。だが今は、何もない。『同胞たちが回収したらしい』と、そばにいた水竜が親切に教えてくれた。竜狩人に鱗を剥ぎ取られた、などという、凄惨な結末ではなかったことに、安堵する。
ディランはほかの五人を振り返り、「待っててくれ」と言い残すと、踏み出した。
かつて竜がいた場所で膝をつくと、目を閉じる。
彼のことは――不確かな記憶の中にある。自分とかつての記憶をつなぐ、
『彼』はディルネオよりもずっと、年若い竜だった。真面目で、堅くて、心配性で。態度が少し冷たく見えるものだから、仲間には優しさをあまり理解してもらえなかったようだった。それでも彼は、あなたに仕えられればそれでいいと言い、何かとそばをついて回ってくれた。
『……待たせたな』
言いたいことはたくさんある。けれど、一番に出てきたのは、そんな言葉だった。
『真面目なおまえのことだ。私がいなくなってから、みんなを引っ張ろうと、頑張ってくれたのだろうな。結局最後まで、私はおまえに苦労をかけてばかりだった』
何も考えていなくても、言葉がするすると出てきては消える。まるで、二頭並んで空を飛んでいたあの頃のように。あの頃と違うのは――答えが、返らないことだ。
『すまなかった。止めることができなくて、おまえの気高い魂を、こんなふうにしてしまって』
『――あいつはさ』
膝をついたきり動かないディランを、一行が憂いをたたえて見守っていると、水竜が突然、口を開いた。彼は、ゼフィアーのそばに飛んでくる。
『殺されたあいつは、ディルネオの眷族だったんだよ』
「えっ……!?」
耳もとで告げられた事実に驚いた。ゼフィアーは目を見開いて、水竜を仰ぎ見る。彼は、苦しそうな目をしていた。
『今、辛いと思うよ、あいつ。ここに来るまでに聞いた話だと、記憶がないときに死体を見たんだろ?』
竜語を理解する者たちは、顔をこわばらせて黙りこむ。
体に穴をあけ、ぼろぼろの翼をさらして血に沈む、竜の骸。それを見たとき、ゼフィアーでさえ身がすくんで動けなくなるほどの衝撃を受けた。当時のディランも、彼女よりはかなり冷静にふるまっていたが、初めて見る竜に――その死に、ひどく動じていたのはわかる。
であれば、今は。
地面をにらみつけたゼフィアーは、息をのみ、叫びをこらえて口もとを引き結んだ。誰にともなくうなずいて、駆けだす。仲間が止める間もなく、少年の隣へ行ったゼフィアーは、その場へ静かに膝をついた。彼女がこうべを垂れたとき、気配に気づいたディランが、声を上げる。
「ゼフィー」
「『伝の一族』の本来の役割は、砕けた魂を
先を言えなくなっているディランに、ゼフィアーが茶目っ気をのぞかせて言う。だが、彼女の笑みはすぐに、神秘的な静けさへと取って代わった。
「伝の祈りは浄化の祈り。今では力こそないけどもな、祈ることが無意味とは思わない。だから、私も一緒に祈る」
ひとりで背負いこむのはやめろ、と言い、ゼフィアーはディランの肩を強く叩いた。彼は小さく吹き出して、うなずく。
もうすぐ。もうすぐ、魂を還すことができる。だからそれまでは……見守っていてくれ。
ディランが心中で呼びかけると、今はもうそこにいないはずの眷族が、ほほ笑んだような気がした。『拒まれても見守りますよ』と、彼ならば言うだろう。
水の主竜は、弔いの終わりに、小さな声で彼の名を呼んだ。そして、愛しき魂に、しばしの別れを告げる。
砕けた魂の重々しい気配は、少しだけ薄らいで、彼らをそっと包みこんだ。
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