幕間Ⅲ
3-1 つながる命
その日、村で新たな命が生まれた。
粗末な丸太小屋の中で上がった元気な
大騒動となった出産から少し後。母子ともに、落ち着くとまではいかないまでも、当日のような慌ただしい空気はしぼんできていた。その頃になって、青い衣をまとう人に連れられ、ある青年が母子のもとへ顔を出した。彼が、
「名前を、つけてくださいませんか?」
母親はそう言った。青年は、目を瞬く。
「私が? いいのか、おまえの子だというのに」
「もちろんです。むしろ、あなた様から名を頂きたいんです」
母親が目を細め、かたわらの父親を見上げる。父親も、力強くうなずいた。両親の了承を受けた青年は、産着にくるまって寝息を立てる赤ん坊を見下ろす。ふむ、と考えこんでから――「ジゼル、はどうだ?」と、ささやいた。それを聞いた青い衣の男性が吹き出す。
「それは
「おっと、そうか。この子は男子だものな」
すまない、と頬をかいた青年は再び考え込み――赤ん坊の寝顔を前に、優しく笑った。
「なら、バートはどうだ」
赤子の両親が、相貌に笑みをにじませる。
「『明るく輝く』という意味があるそうだぞ。リヴィエロから聞いた」と彼が続けたとき、赤ん坊が目を覚まし、青年を物珍しそうにながめた。
※
《神官》の青年は、久々に故郷の地を踏んだ。しんなりとした下草の感触にほっとする。
「実に二十日ぶりか……ヘルマン殿が村のことに大変らしいから、と聞いて帰ってきたけど……確かに、長く留守にしたな」
青年はひとりごちて、頭をかいた。
北大陸の《大森林》、その手前の村は『
青年がため息をこらえて顔を上げ、村の柵を越えたとき、前から明るい声がかかった。
「やあ、バートじゃないか」
見ると、そばに桶を抱えた青年がいる。銀色の髪に緑の目、この村では唯一の色を持つ彼は、名をフランツと言った。いつも穏やかな笑みを絶やさない彼は、この日も明るい表情だ。しかし、なんとなく疲れが見えるような気もする。《神官》の青年は、わずかに首をひねった。
「フランツ。どうも、今戻りました」
「うん。きっとヘルマンさんが泣いて喜ぶよ」
彼はいつものやわらかい声で、そう言った。冗談めかして笑う彼に乾いた笑みを返し、青年は話題を切り替える。
「ところで、何かあったのですか?」
「……うん? ああ、わかる?」
おどけたように答えた彼を見て、青年は目を細めた。フランツは、嫌そうにする彼を見て、肩をゆすって笑った。
「焦らない、焦らない。言っておくけど、悪い知らせではないんだよ。むしろ、とてもめでたいことだ」
「めでたいこと?」
「うん。――赤ちゃんが産まれたよ」
さりげない告白に、青年は目を見開いた。
この村には若者が少ない。今までの最年少は、ずっとこの青年とフランツの二人であった。一方、数年前に年若い同族の夫婦が村へ流れてきてもいた。彼らは、青年たちより数歳ほど年上だ。そして、ほがらかな妻が子を身ごもったことを、青年も知っていた。出産には立ち会えないだろうということも。
「そうですか」
ため息とともに青年が声を吐きだす。すると、フランツが「悔しい?」と茶化すように問うた。青年は適当に言葉を濁してかぶりを振る。
「まあいいや。君も、報告ついでに顔見ておいでよ」
フランツはそう言うなり、青年の腕を引っ張った。うす青い衣の裾がひるがえる。
「ちょっと……」
「ほら、こっちこっち」
青年は抗議の目を向けたものの、フランツは意に介さずどんどん突き進んでいく。
やがて、二人が行き着いたのは、集会所の向かいに佇む丸太小屋だ。そこには件の夫婦と、幾人かの村人がいた。その中に、年老いた《神官》の姿を認め、青年は目を丸くする。かたわらにいる銀髪の彼は、それもわかってここへ連れてきたのだろう。遅まきながら友人の意図に気づいた青年は、少し頭をかいた。
「まあ、バートさん。おかえりなさい」
人々の輪の中心にいる女性が、青年の姿を見てほほ笑む。年下相手に敬語なのは、《神官》だからだろうか。それとも彼女の気質のせいか。青年はぼんやり考えたが、彼女の腕の中に抱かれている存在に気づいて、思考を打ち切った。
産着にくるまれた赤ん坊は、今はすやすや眠っている。赤ん坊というのは、どうしてみんなこんなにかわいいのだろうか、と不思議になった。頬をつついてみたい衝動を、青年は無言でこらえる。フランツが肩を震わせているのが目の端に映ったが、無視した。
「ちょうどよかったわ」
無言の葛藤を知らない女性が、おっとり切り出した。青年は、はっと彼女の方を見る。
「ねえバートさん。この子の名前、あなたにつけていただこうと思っていたんです」
「え?」
青年は目を大きく見開き、うろたえた。
「ぼ、僕などが名前を……? いいんですか、あなたの子どもなのに」
「あら、いいんですよ。《神官》様に名づけていただけるなんて、光栄だもの。ねえ」
女性はそう言うと、かたわらの男性を見上げた。男性――彼女の夫も強い言葉とともにうなずいている。
多少の差はあれど若い彼らのやり取りに、周囲の大人が懐かしそうに目を細める。が、当事者たちは知らないまま、話を進めた。
夫婦とふた
「……ジゼル」
言葉がこぼれて、その場が止まった。青年と、そばで見ていたフランツはそのように感じていた。
「ジゼルは、どうでしょうかね」
青年は、珍しく照れながら繰り返した。まわりの人々が顔を見合わせていることには、気づいていない。
女性は、小さく名前を呟いた後、自分の子と《神官》の青年を何度も見比べた。夫とも目を配りあった。それから、いつもの優しい笑顔を咲かせる。
「素敵な名前だわ。それじゃあ、この子は今日からジゼルね」
女性がそう言ったとき、赤ん坊が小さな声を上げながら目を覚ました。知らない大人がたくさんいたせいだろうか、彼女はすぐ泣きだしてしまう。母となった女性は、慌てることなく、子をゆっくりとあやしはじめた。
優しく、優しくあやしながら、女性は青年を見上げる。
「ありがとう、バートさん」
それから、青年はフランツとともに村の中を少し歩くことにした。途中、フランツが思いついたように問うてくる。
「そういえば、バート。君、自分が誰から名前をもらったか知ってる?」
唐突な問いに驚いて、青年は足を止めた。
「いえ。考えたこともありません。まさか、君が知っているんじゃないでしょうね」
「そのまさかなんだけど。ヘルマンさんから聞いた」
おどけて眉を上げてみせるフランツに、青年はため息をつく。
そのとき――ふいに、おぼろげな記憶が脳裏に浮かび上がった。まだ何も定まっていないはずの目に、妙にはっきり、人の顔が映りこんでいる。とても優しい目をした人だ。不思議な、人だった。
「気になる?」
穏やかな声に意識を引き戻された青年は、「まあ、それなりに」と、ぼんやりしながら答えた。
フランツは気づいているのかいないのか、いつも通りの表情で続ける。
「なら、ヘルマンさんに訊いてごらんよ。色々、面白いことも教えてもらえるかもよ」
からかうような口調にむっとしたものの、青年は素直にうなずいた。自分の出生時のことなど、今まで考えもしなかったが、そういう話を聞くのも悪いことではないかもしれない。そう思うと、なぜだか足取りが軽くなる。
そんな青年の背中を目で追っていたフランツが、ぼそりと呟いた一言を、彼は結局、聞かなかった。
「ジゼル――『約束』、ね。不思議なものだ」
そしてこのひと月後、『彼ら』は互いを知らぬまま、忘れたままに、再会を果たす。
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