29.やさしい君

 死が迫っている。そんなことは、誰よりも自分がよく理解している。

 せめて避けないとと考えて、けれど体に力が入らない。指の一本さえうまく動かない。

「くっ……そ……」

 眠りこみそうなほど頭が重い。

 顔をしかめたディランは、まだ傷のふさがっていない脇腹を押さえつけた。走った痛みは少しだけ、鈍い意識を揺り起こす。それだけを支えに、彼はなんとか膝を立てた。けれどそのときにはもう、槍の穂先は彼を狙って光っている。全身を震わせながら立ち上がろうともがく少年を、槍の持ち主は意外そうに見ていた。だが、だからといって手を引くはずもなく。ひゅっ、という音が――

 音が鳴りかけたとき、草を踏む重い音がそれをかき消した。直後、男の横から金髪を振りみだす少年が飛び出してくる。彼は至近に迫るなり棒を振りまわした。男は――カロクは身をひねって器用にそれを避けたが、空を切った棒は、彼の気をそらすという大役を果たしてのけた。

 槍が揺らいで止まる。その隙にディランは、最後のひと押しとばかりに、草地についた手に力をこめる。おかげで立ち上がることはできたが、すぐにめまいがした。慌てて剣を突き立てて、なんとかそれを支えにする。レビがディランの前に立ったのは、そのときだった。

「レビ、おまえ……」

 鬼のような形相で敵をにらみすえるレビに、ディランは目を丸くする。

 そしてカロクは、かすかな笑みをこぼした。

「おまえもそちらを選ぶか」

「選ぶとか選ばないとか、そんなんじゃないです。こんなの、黙って見ていられる方がおかしいんです」

 そう言う彼は、全身に汗をかいていて、棒をにぎる手は震えている。が、まるですべてを無視するかのようにカロクをにらんだ。

「ぼくはディランが好きです」

 いきなりの率直な言葉に、たじろいだのは当人一人だった。ほかの者は戸惑いこそすれ、面には出さない。

「窮屈でどうにかなりそうだったぼくに手を差し伸べてくれた人が。いっつも落ちつけって、大丈夫ってそばで言ってくれる人が好きです。竜だからなんだというんですか。ぼくらのそばにいるのはディランです。仲間です」

 息を吸う。一度棒を滑らせて――その先を、カロクの顔に向けた。

 少年は意思を示す。遠回りして、やっと今。

「ぼくは仲間を見はなして、一人だけ逃げるなんてこと、しない!」

 鋭い声が場を打って――一度、あたりが静まりかえった。

「そうか」とカロクの小さな声がする。槍が動き、棒がそれに反応した。ぶつかる。金属と金属の間から光が飛び散る。いつかのようにぎしぎしと押し合って。

 ふいに、カロクが槍をぶれさせた。一度棒から離れると、カロクは素早く槍を回転させる。そして、突然のことによろめいたレビめがけて、石突を突きだした。目をみはったときにはもう遅く、レビは勢いよく突き飛ばされる。

「レビっ!」

 ディランは少年の名を呼んだ。くら、と揺らいだ頭を恨めしそうにおさえる。助けに行きたいが、体が動かない。立っているのがやっとだ。

 魂のひびは、ゆっくりと、確実に広がっている。体の末端から、じわりと、熱と力が抜けてゆくのを感じた。

 

 小さな体が地面を転がる。棒がむなしい音を立てて落ちる。そこにカロクが武器を向けた。

 そのとき、遠くで風切り音がした。カロクが顔を傾けると、白い矢羽の矢が飛んで、低木に突き刺さる。矢を放った本人は、続けざまに短剣を抜き放ち、レビの前へ躍り出た。痛みにうめいていた彼が、ゆっくりと顔を上げる。目がうるんだ。

「トランスさん……」

「よっ。やっと吹っ切れたな、レビ坊」

 こんなときだというのに変わらない、冗談めかした物言いに、レビが小さく吹き出した。トランスもにっと笑ったが、その笑みはすぐに消える。

「おい誰か! 今のうちに、あいつ助けてやってくれ!」

 その声に反応し、女性たちが弾かれたように動きだした。が、そこへオボロがすばやく飛び出した。マリエットの槍が彼の剣を弾き飛ばそうとするが、その勢いは流されて槍はむなしく空を切る。横からチトセが飛び出し、一瞬遅れてゼフィアーが駆けだした。マリエットが目を細めて、飛びすさる。そこへチトセが刀を叩きこむ。刃がまたやかましく鳴って――

「ほう」

 鋭い目を向けるチトセと対峙したオボロが、しかし一瞬、彼女ではない方を見た。風の中に舞う三つ編み。走り抜けていこうとする少女の姿。

 竜狩人の男は、おもしろがるような目をして、柄をにぎる手に力をこめた。荒っぽく、剣を下から上へ振った。オボロの強力ごうりきに刀を弾きあげられたチトセは、わずかによろめく。その間にオボロは体をひねり、剣を薙いだ。

「ゼフィー!」

 チトセが叫んだ。ゼフィアーは目をみはる。知らず知らずに得物を構えて、次の瞬間、その得物は爆ぜるように上へとばされた。ゼフィアーは歯を食いしばり、倒れそうになったのをかろうじてこらえる。歯の隙間からうめき声がもれ、しびれた腕をとっさにおさえた。遅れて、サーベルが音を立ててそばの地面に落ちる。

「行かせると思うか?」

 オボロがせせら笑う。そのとき、彼の剣はすでに、チトセとマリエットの方を向いていた。

 誰かがひくくうめいた。

 ゼフィアーは琥珀色の瞳で竜狩人の横顔を見、そのまま地面に視線を落とす。マリエットたちにうまく気を引いてもらって、自分が動く。すでに彼女はそう考えて、息を殺し、腰を落としていた。だが直後、近くで甲高い音と誰かの短い叫びが聞こえる。サーベルと同じように落ちる短剣を、ゼフィアーは見た。

 

 乱戦の場から切り離されたところに、ひとり、立っているような感覚だった。

 肩に重い物がのしかかってきたように感じ、ディランは抗えず背中を丸める。全身の震えが止まらない。したたり落ちた冷たい汗が、下草をかすかにぬらす。みずからの荒い呼吸をすぐそばに感じたディランは、いびつに笑った。まるで、命そのものがこぼれ落ち、吐きだされていっているみたいだと思った。

 笑みを歪めた彼は、両手にむりやり力をこめる。指先で、剣の柄を強くにぎりこんで――突き立てていた剣を、緩慢な動作で引き抜いた。

「まだ戦うつもりがあるのか」

 冷やかな声がする。正面を見ると、いつの間にか少し離れたところに竜狩人の男が立っていた。離れている、とはいえ、彼の槍ならディランまでじゅうぶんに届くだろう。彼の背丈より少し長い槍を一瞥したディランは、剣をゆっくり片手で構えた。

「カロク。ひとつ、いいか」

「命乞いは聞かんぞ」

 そっけない言葉にディランは思わず相好を崩した。

「そうじゃない。――おまえの槍に、銘はあるか」

 少年の姿の竜、彼の問いにカロクは訝しげに眉を寄せた。

「銘はない。だがこれは……かつておまえが振り落とした槍からつくられたものだ」

 嘲るような、もしくはからかうような調子で、カロクは答える。ディランは今度こそ、声を立てて笑ってしまった。

 みずからが落とした槍――原初の魂喰らい、《破邪の神槍》。二十二年前、雨の中に姿を消したはずのそれは今、形を変えてここにある。

「そうか」

 悲しいことだ。むなしいことだ。――嬉しいことだ。

「今は、それだけわかれば、じゅうぶんだ」

 静かに言ったディランは、右手で剣をしっかり持った。左手を拳にする。弱々しい、いつもの構え。それができている自分に、安堵する。

「ディルっ!!」

 彼をとどめるような大声がする。腕に切り傷をつくったトランスが、妙な顔でディランとカロクを交互に見ていた。

 ディランは彼に、笑みを向ける。あの頃と変わらぬ、穏やかな笑顔を。

「そんな顔をするな。おまえはいつも、心配しすぎだ」

 ディルネオの口調でそう言った彼は、男の反応を見ず、カロクに視線を戻す。彼は冷やかな目をしたままだったが、その奥にはかすかな動揺が見て取れた。

「戦う気か。その体で」

「うん。悪いけど、たたのディルネオだったころよりもあきらめは悪いぞ、俺」

 全身がはりつめる。どこまで動けるかわからない。体力などとうの昔に尽き果てている。今ここに彼を立たせているものは、ちっぽけな意思ひとつ。カロクの背後をうかがってみれば、他の五人がかばいに出ようとしているが、下手に動けばオボロにおさえこまれる可能性が高い。彼らもそれをわかっているから、足を踏み出せずにいる。

 そのことに、ディランは安心した。

 槍がわずかに引かれる。力がたまる。突きを受けるべく、ディランも剣をわずかに突き出した。

「――だめだ」とかすかな声がする。

 男が短い息を吐き、槍を突きだした。そのとき、ゼフィアーが身を乗り出した。

「ディラン、だめだ!」

 ディランの剣がカロクの槍を受ける。しかし、受けとめ切れたように見えたのはほんの一瞬だけだった。槍頭はあっさりと、ディランの力を凌駕りょうがして剣を横に押しのける。それでもディランは歯を食いしばり、刃をねじこもうとした。が、そのとき、指が大きく震えるのを感じてぞっとした。

 手先から一気に力が抜ける。このままでは剣を落としてしまう。持ちなおそうとしたが、その前に、カロクの力を叩きこまれてよろめいた。

 金属の柄が手から離れて、槍は今度こそ、人の姿の竜を貫こうとした。

 

 その直前、光が弾けた。

 一度目は、ディランとカロクの間の頭上で。

 そしてそれを皮切りに、四方八方で、金色の光が散った。

 

「なっ――」

 カロクが目をみはる。金色の光から伝わる、夏の太陽もかくやという熱におされてひるんだ。槍をぶれさせこそしなかったものの、動きが止まった。まるではかったかのように、そこへ強風が吹きつける。カロクは顔をしかめ、いったん槍を引いて下がった。

「これは、何事だ」

 誰かに問うように声を発した男は、直後に口を引き結んだ。細い目に、殺意に似たきつい光が宿る。「――竜か」と、かすかな呟きが空を滑る。低い声は、続けて噴いた暴風に、乱暴に散らされる。声の名残すらなくなったところに、最初の疑問の答えが呈された。

『私の友達に、何をするかー!』

 場違いなほど子どもっぽい怒りの声とともに、どこからか白い影が飛来する。白毛を揺らした『彼女』は、上空で大きく翼を広げて威嚇した。

 声に誘われ上を見上げた人々が、ぎょっとして後ずさりする。

「えっ……ルルリエ!?」

 レビがふらつきながら空をあおいで、乱入してきた竜の名を呼ぶ。風の小竜ルルリエは、得意気に目を細めた。

『そうよ私よ。忘れたとは言わせないわ』

「い、いや。少なくともぼくたちは、誰も忘れてないですよ」

 いばったような竜の言葉に、顔面蒼白のレビが生真面目に返す。彼は驚きすぎていて、チトセがそばであからさまに大きなため息をついたことには気づかなかった。

 そんな彼らのやり取りを、ディランとカロクは離れたところから見ていた。水竜をしとめそこねた狩人は、苦々しげに呟く。

「妙だな。なぜ、竜の子どもがここに……」

『妙だというのはいい感想だね。来たのは彼女だけじゃない』

 それこそ子どものような声に、カロクが身構え槍を虚空に向ける。響いた声は、奇妙な響きをともなった竜語ドラーゼだった。槍が一寸のぶれもなく空をにらむ。けれど、声はくすくす笑った。

『残念。意味ないよ』

 声がそう言うと、ちょうどカロクの槍の先に金色の光が灯り、それはみるみるうちに膨張した。光がふくれるのにあわせ、圧迫感が場を満たす。そして空気が限界まで圧迫されたところで、塊のようだった光は、薄布のように広がって消える。

 消えた光の向こうで、黄金色の大きな翼が、ディランを守るように広げられた。

「あ――」

 唖然として立ち尽くしていたディランは、まともな言葉にすらならぬ声を漏らした。目の前に立つ金色の巨竜を見る。

 竜は一度咆哮し、翼の先を細かく震わせた。光の粒が鈴のように鳴って舞う。その中で、竜は首をめぐらせて、背中越しに振り返った。無邪気な両目がディランを見る。

『やあ、久しぶり。ディル』

「クレティオ」

 親しみと、確信をもって響いた呼びかけは、いつもどおりの光竜こうりゅうのものだった。ディランがぼんやり名を呼ぶと、クレティオは心底嬉しそうに目を細める。ディランも不器用に微笑み返そうとして、けれど、とうとうその体が傾いた。剣が手から滑り落ちる。前のめりになる体を支えようと足を踏み出しかけた。だが、そこへ優しい言葉がかかった。

『大丈夫だから。君はいったん、休みな。無茶をしすぎだ』

 それに対し、ディランは言葉を返そうとした。が、口はうまく動かなかった。剣が草にぶつかってくぐもった音を立てている。それを聞きながら、ディランはゆっくり意識を手放した。

「すまない。あとを、たの、む――」

 気を失う直前、かろうじてそれだけ言えたが、クレティオの答えは聞けなかった。

 

 

     ※

     

     

 ぐらり、と倒れかかってきた人の体を、クレティオは背中で器用に受けとめた。――いや、人の体というには少し固い。彼は本当にディルなんだなあと、クレティオはわかりきったことを心の中で呟いた。

『後を頼む、ね。君は本当に、いつもいつもそうなんだから』

 クレティオは微笑んだ。頭を器用に持ち上げると、目の前にいる狩人の向こうを見やる。

『それで、誰か。彼の面倒みておいてほしいんだけど』

 彼の言葉にかぶさるように、つむじ風のような音がした。剣を構えたオボロを、ルルリエが威嚇したのだ。その隙に、とばかりに、トランスが駆け寄ってきて少年の体を支えた。背中からわずかな重みが消えるのを感じたクレティオは、真っ向からカロクを見る。『やる気かい、君』と軽い口調で問いかけたが、男は眉ひとつ動かさない。静かに槍を構えなおしている。やれやれと、思ったことはおもてに出さず、彼はゆるやかに尾を振った。

『この場で竜二体を相手にして、勝てると思っているのかな? シグレはこういうとき、賢い選択をしたものだけど』

 クレティオが穏やかにそう言うと、カロクは軽く目をみはる。

「父上を知っているのか」

『まあねー。僕、長生きだし。シグレだけじゃなくて、ほかにも何人か、君のご先祖知ってる。いや、みんなおもしろいくらいに無愛想だよね』

 クレティオは言ってから、軽やかに喉を鳴らした。しかし、目の中には刃のような光がちらついている。

『どうするのかな。言っておくけど、僕らは今ふたたび、ディルを失うわけにはいかないんだ。やるというのなら、本気で行かせてもらうよ』

 翼がゆっくりと広がり、尾と頭がもちあがる。金の巨竜の周囲に、鏡のような楕円形の光が次々あらわれ、ちかちかと瞬き始めた。薄絹のような白い雲の先にある太陽の光が、わずかに強くなった。

 カロクはしばらく、黙って光を見つめていた。槍の柄に力がこもる。臨戦態勢をとった彼はしかし、その槍を突きだす直前になって、構えを解いた。何を言うでもなく、クレティオに背を向ける。そこへ、他の五人を牽制していたオボロが声をかけた。

「行くのか、カロク」

「ああ」

 短い返答。それにオボロは肩をすくめ、あっさり剣を引いた。にらむように五人と一頭を見た後、自分もカロクに続いて背を向ける。人々が呆然としているうちに、二人の姿は草原のむこうへ消えていった。

 

「ディランっ!」

 ゼフィアーのひきつった声がする。彼女は得物を収めるなり、飛び付くように彼のもとへと駆け寄った。剣を鞘におさめていたトランスが、彼の顔をのぞきこんで渋面になる。

「まずいぜ、こりゃ。相当衰弱してやがる」

「そんな……!」

『魂の傷が深すぎる。変化体とはいえ、放っておくと危ないかもね』

 クレティオもまた、のぞきこみながら言った。ため息混じりの声に反応したゼフィアーが、すがるような目で彼を見る。

「ど、どうしたら」

『ふむ』

 クレティオは空を見上げた。雲がかかってきている。――ひょっとしたら少し雪が降るかな、などと思った。『このあたりには似つかわしくないけどね』と呟いて、彼はもう一度、ディランと呼ばれている『彼』を見下ろした。

「少し、預かってもいいかな。応急処置くらいは、できると思うんだ」

「魂の応急処置……?」

「あ、こら。変な目で見るなよ。冗談で言ってるんじゃないんだから」

 クレティオは、ぐるりと一行を見回した。彼らは互いをうかがうように視線を合わせたあと、無言でうなずく。

 了承を得たクレティオは、よし、と呟くと、鼻を使って器用にディランの体を背中に乗せた。そして、確かめるように羽ばたくと――巨体がふわりと、宙に浮いた。

「私たちは、どこかの町にいた方がいいかしら」

『うん。終わったら迎えに来て。ルルリエにいてもらうから。経緯の説明も彼女にしてもらってよ』

『……丸投げですか、クレティオ様』

『しょうがない。今は時間がないんだ』

 目をすがめるルルリエに軽い言葉を寄越すと、クレティオは羽ばたいて、くるりと体を反転させた。見上げられていることに気づいた彼は、ちらと地上を振り返ると喉を鳴らした。

「大丈夫、大丈夫。ディルはそう簡単に死ぬタマじゃないから」

 人にも通ずるようそう言った彼は、今度こそディランを背に乗せて飛びたつ。

 地上に残された五人の人は、竜の姿と、彼がふりまいていく金色の粉を、呆然として見送った。そのうち、棒を支えにして立っていたレビが口を開く。

「ディラン……」

 か細い声に引き寄せられて、仲間たちは少年を見た。

「大丈夫、ですよね」

「――あたりまえだ」

 力強く答えたのは、トランスだ。彼はにっと笑って、レビの金髪をぽんぽん叩く。

「さっきクレティオも言ってただろう。あいつはそう簡単に死ぬタマじゃない」

 優しい声がそう言うと、レビは弱々しく微笑んでうなずいた。

 次の瞬間、小さな体がぐらりと傾く。いち早く動いたマリエットが、倒れこむレビの体を受けとめた。それを横からのぞきこんだゼフィアーとチトセが顔をこわばらせる。レビは顔面蒼白になっていた。手足から力が抜けて、人形のようにくたりとしている。

「レビ、おい。しっかりしろ」

 トランスが軽く呼びかけて頬を叩くが、レビの反応はなかった。

「ひとまず、どこか落ちつけるところを探しましょう」

「もう、町が近かったはず。そっちに行った方がいい」

 強い目をして言うマリエットに、チトセが続く。宙を漂った言葉に、全員が力強くうなずいた。

 

 地上の騒ぎを知らぬまま、金色の竜は風を切り、西に向かって飛んでゆく。

 

 風の鳴る音がする。クレティオは目を細めた。

 彼とルルリエがここへ来たのは、本当にたまたまだった。『審判』が済んで帰ろうとしたところで、ふいに懐かしい力を感じてルルリエとともにそれを追った。途中で『彼』の眷族と出会い、事のあらましを聞いたのだ。詳しいことを知るためにと、彼らを追いかけたら、どういうわけか狩人と交戦していたのである。

 クレティオは背中の方を一瞥する。ディルネオは起きる気配がない。――魂が、あまりにも深く傷ついている。

『それに、これは……』

 言いかけて、けれどクレティオは言葉を打ち消した。無意識のうちにため息がこぼれる。

『君は、優しすぎるよ。二十二年前の件だって、そうだった。

ねえディル、君さ、このままだと……』

 濁された言葉は、風の中を漂って、あらぬところへ飛んでゆく。クレティオは、それでいい、と思った。この予感を抱くのは、憂うのは自分だけでいい。今は。

 意識を失ったままの少年の体が、青く、淡く光っていることを彼はまだ知らなかった。

 青い翼が、広がりはじめた。



(第三部「見えざる翼」・完)

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