28.魂の傷

 それは、昨日の夜のことだ。

 レビはいきなり激しく揺すられ、寝台の上で目を開けた。しばらくぼんやり見つめていると、闇の中に少女の姿が浮かび上がる。

「チトセ……?」

 レビは寝ぼけた声で名を呼んだ。チトセは珍しく嫌な顔をせず、寝台のへりに腰を下ろす。

「どうしたの?」

 起き上がりながらレビが問うと、彼女は背中越しに彼を一瞥する。それから、いきなり立ち上がった。ごめん、と小さな声で謝ってから続ける。

「どうしても気になることがあった。誰かの目がないときに聞いておきたい」

 曖昧な言葉にレビは首をかしげる。それでも、意識が徐々にはっきりしていくのを感じながら、うなずいた。

「それなら、外行こうか。部屋でこそこそ話してると、みんな気づいて起きちゃうよ。ディランとか敏感だから」

「……そうね」

 彼女はうなずくと、歩きだす。その姿が視界から消える前にレビは寝台から滑り降りた。とりあえず、砂漠や北大陸でお世話になった外套だけを羽織る。そして、棒を手に取った。チトセもよく見れば手槍を携えている。今はひと気がないとはいえ、夜の宿場町では何が起きるかわからない。彼女も、そう判断したのだろう。

 そして二人は外に出る。ひんやりとした空気に包まれて、しばらく歩いたのち、宿がぎりぎり見える道の脇で足を止めた。

「それで、何が訊きたいの」

 すっかり目ざめた顔でレビが問う。チトセは一瞬眉をひそめたものの、すぐ本題に入った。

「あんた、《大森林》であたしが転がり込んでからこっち、あんまりあいつと話してなくない?」

「あ、あいつ?」

「……ディラン」

 チトセは、レビが訊き返してようやく名を呼んだ。そんなに人の名前を呼ぶのが嫌なのかと、ちらりと考えたが、すぐにそれどころではなくなる。

 レビは、心がすうっと冷えるのを感じた。

「そう、か、な」

「そうよ。前はもっと、うるさいくらいあいつにまとわりついてたじゃない」

「ええ?」

 さらりとひどいことを言われたので、おどけたように眉を上げてみたが、レビの内心は穏やかではなかった。それどころか、胸が見えない力にきりきり締められてゆくのを感じる。喉が詰まりそうになって、思わず空気をのみこんだ。

「やっぱり怖いんだ」

 チトセが、唐突に言った。レビは肩を震わせた。

 声に、馬鹿にするような響きはない。ただ、平たんだった。

「無理もないよ。ヒトは……いや、すべての生物は竜をおそれるようにできている。本能がそうなってんのよ。自然をつかさどる強大なモノに逆らえばどうなるか、わかってるからね。ゼフィアーやあたしらがおかしいの。あんたは普通」

「そ、そんな」

「でも、その事実から目を背けているのは問題」

 まくしたてるチトセを前に、反論しようとレビは口を開いたが、それすらも封じられてしまった。

 寒気がする。それはきっと、夜のせいではない。何か、刃に似た何かが、すうっと差し込まれているような、感覚――

「認めちゃえばいいのに。あいつはとっくに、気づいてんだから」

 声に引っ張られ、レビははっと顔を上げる。チトセはいつもの鋭い目で、彼をにらんでいた。

 やめてくれ。そんな声が頭に響く。一方、耳をふさぐなと、別の何かが訴えているような気もした。

「あんたは今、あいつを怖がっている」

 やめて、言わないで。

「慕っていたはずの人は敵じゃなかったけど、自分と同じでもなかった」

 それ以上、指摘しないで。見つけないで。

 思い出させないで。


「自分よりもずっと遠いところにいる、恐ろしい化け物だった」

『あいつが人間じゃないって言うみたい――か?』


 せっかく、忘れようとしていたのに。


「やめろよ!」

 レビは気づけば叫んでいた。今が夜であることも、ここが屋外であることも、どうでもよかった。

 退けたかった。跳ねのけたかった。チトセの顔すら見たくない。思わず頭を抱え込む。手を滑り落ちた棒が、地に落ちて硬質な音を立てたのすら、知らなかった。

「なんだよ、いきなり、自分ばかりえらそうに言って!迷ってるのは、怖がってるのは、チトセだって一緒じゃないか!」

 言いながら、レビはわかっていた。彼と目の前の少女では、根本が違うことに。

 チトセは竜を敵として見ていた。根っこの部分は、今も揺らいではいないのだ。自分たちが知る仇の姿が、あまりにも一面的だったのに戸惑っただけ。

 レビはそうではない。彼は人としてのディランを慕い続けていた。そしてそれは、竜の力を肌で感じ、根底から揺らぎつつある。

 根っこが強いか弱いか。ただ、それだけの――決定的な違いがある。

 レビがはっとして顔を上げたとき、予想に反してチトセは怒っていなかった。いつもの無愛想な顔で佇んでいるだけで。レビの視線に気づくと、ふっと笑みのようなものを浮かべる。

「そうね、確かにあたしは迷ってる。迷ったから命令から逃げだして、あんたたちにまぎれこんだ。――でもね」

 闇の中で、手槍の穂先が揺れた。

「あたしはあいつが許せなかったとき、本当に殺す気よ」

 いつも通りのはずなのに。ソレは、恐ろしいほど強固な意志を秘めていた。レビは、そう感じた。思わず体をかき抱く。

「あんたはどうなの。竜が怖けりゃ離れればいい。そうでなくても、自分の気持ちをちゃんとあいつに言えばいい。なのにそれをしないで、いつまでもふらふらふらふらしてるだけなんじゃない? 今まではそれでよかったかもしれないけど、これからはそうはいかない。本当のことを知ったら、首領たちが黙ってない。そんなとき、あんたは本気で、あいつと一緒に戦える?」

 竜狩人は今度こそ、ディランを殺すつもりで来る。

 そして、ひょっとしたら、チトセもまた。

 そのとき、選びとれるのか。戦うのか、逃げるのか。ともに行くのか、離れるのか。――伝えて傷つくか、黙っていて傷つけるか。

 どちらにしろ、ひとつを取れるのかと、彼女は問うた。

 そしてレビは、問いに答えることができなかった。



     ※



 場にたとえようのない空気が満ちる。時間にしてみれば、一分の半分にも満たない間だったが、二人の子どもにとっては永遠のように感じられた。レビが瞼を震わせ唇をわななかせて黙り込んでいる間に、ゼフィアーが青ざめて息をのむ。なぜ、気づかなかったのか。気づいてやれなかったのか。自分を自分でめいっぱい罵り、サーベルを投げださんばかりの勢いで彼女は地を蹴る。

 だが、彼女が駆け寄るよりも一瞬早く、いつの間にか動いていたカロクが、ディランの前に来ていた。全身を震わせてしゃがみこんでいるディランを冷たく一瞥した後、さりげない所作で足を振り上げる。

「やめろ!」

 制止の声を出したのは誰だったか。ただ確かなのは、制止は受け入れられなかったということだけだ。

 無造作に、けれど力をこめて振り上げられた足は、少年の体を蹴り飛ばす。ディランは声も上げず草地を転がり、けれどその次の行動に移すことができない。震えてうずくまる彼の前まで静かに歩いていき、槍を構えたカロクを見て、今度こそゼフィアーが駆けだした。

 言葉にならない声を迸らせて、少年の体に飛び付いた。二人はまた転がって、突き出された槍は虚空を刺す。

「ディラン!!」

 ゼフィアーが叩きつけるような声で名を呼ぶと、うずくまっていたディランはのろのろと顔を上げた。全身が鉛のように重い。それでも、なんとか笑ってみせた。それができただけでも、まだ大丈夫だ、と思えた。

「そんな大声、出さなくても平気だ。蹴られて地面を転がるなんざ、日常茶飯事だって」

「馬鹿か! そういうことを言っているのでは」

「ああ、わかってる。さすがに、うかつだった」

 ゼフィアーの涙声をさえぎって、ディランはよろめきながら立ち上がる。まだ、平気だ。立ち止まるほどの負傷ではない。

 自らに向けられた槍に正面から向き合って。かたわらでサーベルを構えるゼフィアーと、駆け寄ってきたレビに、目配せした。

「今度はおまえに助けられたな、ゼフィー」

 そう言うと、ゼフィアーは悪戯っぽく笑う。

「これであのときの借りは返したからな」

「何言ってんだ。そもそも貸し借りしてないだろ」

 調子のいいゼフィアーの頭を軽くはたいて、ディランはすぐカロクに向き直る。カロクは、ほほ笑んでいた。

「本当に、面白い奴だ」

「それはどうも。でも、さすがに前みたいにはいかないみたいだ」

 剣を構えつつ、後ろに下がる。息をのむ。

 前のようにいかないならば、いかないなりにやるしかない。そう思って、踏み出そうとして。

 けれど、別方向からふくれ上がる気配を感じ――逃げだしたい気分になった。



     ※



「始まったな」

 何度か、刀と剣がやりあった後に、オボロがぼそりと呟いた。いきなり低く響いた声に、チトセはぎくりと固まる。

 それは例えば――あの、暴風が村を襲った日の変な予感に似た、嫌な空気をまとっていた。

 チトセは思わず後ずさりする。刹那、オボロの姿が消えた。

「おい嬢ちゃん! 受けろ!」

 トランスが叫ぶと同時、チトセは前から重い物を投げつけられたかのような衝撃を受けて、倒れこんだ。金属音が響く。オボロのつるぎは、刀がしっかり受け止めてくれたらしい。もしかしたらこぼれしているかもな、と彼女は妙に冷静な思考をした後、跳ね起きる。

「何――」

 疑問を口にしかけて、固まった。

 マリエットの突きだした槍の、すぐ下を駆け抜けてゆくオボロの姿が見えた。いつも冷静な青銀の女も、信じられないものを見たとばかりに目をみはる。だが、彼女はすぐに思考を切り替えたようで、羽飾りの帽子を追いかけた。

 が、誰もオボロに追いつくことはできなかった。牽制けんせいのつもりでトランスが矢を二回放ったが、すべてかすりもせず、低木と草地に突き刺さる。その後、彼がしぶとく短剣片手に追いかけたものの、彼の気を引くことはできなかった。オボロは隣の戦場に飛び込んで、意気揚々と剣を振るう。

「なんのつもりですか! 足止めがどうとか言ってたくせして!」

 チトセはやけっぱちになって、叫んでいた。止まっていないはずのオボロの声が前から聞こえる。

「何。奴が意外としぶといようだからあきらめさせてやるのさ。まわりをうろつくチビどもも、厄介だしな」

 淡々とした声は、けれどわずかな高揚感をのぞかせている。彼が何を言いたいのか、三人ともわかっていた。無言で追いかけにかかる大人二人の背を思わず見送って、チトセは奥歯を噛みしめる。あの人は、こんなめちゃくちゃをする人だっただろうか。考えかけて、やめた。意味がない。

「冗談じゃないわよ」

 草の上に吐き捨てて。噛みしめた歯を、鳴らした。

「あたしの見極めは、まだ十分の一も済んでないっつうの……!」

 視線を上げる。

 瞳に宿ったのは、怒りだ。溶岩のようなふつふつわき上がるものではなく、火炎のように激しい憤怒。このとき、チトセは恩人と先輩に対して、はっきりとした怒りを覚えた。

 竜狩りのための刀を握りしめ、彼女は混乱を極める戦場めがけて駆けだす。

 甲高い音が、響いた。



     ※



 覚えのある絶望感とともに剣を振れば、狂ったように振り下ろされた別の剣を受け止めた。力任せにそれを弾くと、相手は一度、あっさりと引き下がる。狂気に満ちた冷徹を宿す双眸を前にして、ディランは冗談でなく天を仰いだ。

「まじかよ……」

 止め切れなかったことに関して、ほかの三人を責めるつもりは毛頭ない。オボロという男は初めて目にするが、色々な意味で一筋縄ではいかないだろうと、予想していた。けれど、彼がすべての壁を――自分の理性かべすら失っているこの状況は、非常に厄介なものだった。最初に見たときの冷徹さを残しているように見えて、今の彼はどこか狂っている。カロクもそれを感じているのだろう。一時、自分の戦いを忘れたようにため息をついていた。

「オボロ……。だからおまえは、戦いにあまり出るなというのに。竜相手になると、誰よりまわりが見えなくなる。勝手に鱗まで剥ぎ取りかけて、センに止められたことを忘れたか」

 さりげなく恐ろしいことを言われた。人の姿であるはずのディランは、それでもとっさに体をかばう。

「忘れていないとも、あれ以降自戒している。だが、今は主竜を前にしているんだ、少しは高揚もするさ」

 相貌に笑みを刻んで仲間から視線を逸らすと、オボロは剣を片手にしたままディランを見た。

「面白いものだ。魂に傷がついて初めて、その力の大きさがわかるようだ。なぜだろうな」

「そんなのは俺の方が――知りたい!」

 言葉の終わりに、ディランは剣をななめに構えた。刃と刃がまたぶつかる。武器には信じられないほどの力がこもっていて、強引にねじこまれているような感じさえある。ある意味この人は、今まで戦った誰よりもたちが悪い、かもしれない。刃をねじって力を流し、相手の勢いを利用してディランは飛び退った。またすぐに飛びかかってくるかと思ったが、オボロは上半身をねじると、横から突き出された槍を弾く。剣のむこうに、わずかな焦りをにじませた男女が立っていた。

「トランス、マリエット!」

 ゼフィアーが意外そうに叫ぶ。後から、チトセも追いついてくる。彼女はまっさきにディランをにらむように見て、顔をこわばらせた。本人は気づいていなかったが、このときの彼はとても顔色が悪かったのである。竜狩人の少女は、それだけで何が起きたのかをおおよそ察した。今、傷が見当たらないのも、治ってしまったからというだけだろう、とも。

 空気が重石おもしのようにのしかかってくる。そんな中で、低いため息がひとつ響いた。

 風が鳴る。誰かの矛が光った。そしてまた、戦いの音が草原を流れた。


 それから何がどうなっていたのか、一人ひとりが把握していることは多くない。ただそれぞれに、己の身を守り、仲間を気遣うことに必死だった。

 耳のすぐそばを矢が通りすぎた。と思ったら、正面から剣を叩きつけられる。ディランは一撃を弾いたのち、相手へ切りこもうとした。けれども、剣はたやすくかわされ、さらに突きを返されてしまう。センと戦っているときと似た不毛さと、あれ以上の危機感が胸を焼いた。

 打ちあいの音が重なって響く。オボロの剣は思いのほか強い。そして、ディランは――体に『傷』を抱えたままだ。ふらりと大きくよろめいて、そのときに振り下ろされた剣をかろうじて避けた。なんとかオボロから距離を取る。

 けれどそのとき、ひびが入る音を聞いた気がした。オボロはまだ狙いを逸らしていない。横合からレビが棒を突きこんだが、簡単に弾かれてしまっている。その光景さえかすんで見えて。目の前が、ぐらり、と揺らいだ。

 ファイネのときと同じだ。

 まずい、とディランは両足に力をこめようとする。突っ伏してでも、這ってでも、この一撃から逃れなければ、おそらくは。

 だが、世界はぐらつくばかりで、感覚と肉体が切り離されたかのようにおぼつかない。


 叫び声が聞こえる。光が見える。遠い。

 だめだ、だめだ。

 いつかと同じ声が訴える。

 何やってんだよ、と、誰かが闇の中で、不敵に笑った。


 そのとき、空気が収縮して、薄い雲のかかった空に、刃が生まれた。

 オボロが一瞬、ひるんだように動きを止める。それを狙ったかのように刃が――氷の塊が彼へ降り注いだ。オボロはすぐに冷静さを取り戻し、剣をふるって氷を叩き割る。残りは身をひねってかわした。静かな両目には、けれど確かに動揺が生まれていた。

「ディルネオ、貴様……」

 うなるような声をオボロが上げる。ディランはそこでようやく、己がからの手を振り上げたことと、水を操ったことに気がついた。そして、あたりにいた自分とオボロ以外の五人が、唖然として氷に見入っていたことにも。

 意識が冷える。だがやはり、体は重い。

「レビ、今のうちにディランを引き離して――」

 遠くから駆け寄ってきたゼフィアーが叫ぶ。けれど、ディランの一番近くにいるレビは、その場に凍りついたまま動かなかった。顔が、こわばっている。本能が竜の力をおそれているのだ。戦場にいた何人かはそれに気づいた。トランスが青ざめ、チトセが舌打ちをし、ディランが無意識のうちにほほ笑む。それはすべて、同時のことだった。

 また怖がらせたか。ディランは胸中で呟く。苦みと妙なぬくもりが、同時にわきあがってきていた。が、一瞬後、冷たいものが背筋を走るのを感じた。地面に浅く刺さった剣を引いて振り抜こうとする。が、右腕を上げた直後に、体に鋭いものが迫るのを感じて飛び退った。刻々と重さとだるさを増していく体で、そこまでできたのは、奇跡に近かった。

 脇腹に熱が走る。視界が大きく傾いて、その端に、冷酷な男の顔を捉えた。


 魂にひびが入る。今度は大きな、蜘蛛の巣状のひびのような気がした。

 体は重く、沈んでいく。二十二年前と同じだ。

 あのときと違うのは、彼が少しだけしぶとかったことだ。倒れかかってもまだ、草地に手をついて、カロクとの距離を稼ごうと身じろぎをする。

 笑みが浮かんだ。ひどく懐かしい。暗がりの中で何かがうごめく光景が、頭の中に広がった。それは青い巨竜だった。大好きだった方だ。

 かすれた声は言葉をつむぐが、形にはならない。男が少し、顔をしかめる。そして、槍を静かに引いて――突きだした。



     ※



 意識があるのかないのかわからない目を前に向け、剣を支えにかろうじて立っているディランを見た。棒をオボロに弾かれたばかりのレビはしかし、息をつくことも忘れて駆けだす。そのオボロが、剣を静かに振り上げていたからだ。まわりの人たちも気づいたのだろう。みんなの視線を感じた。

 金属同士がじりじりこすれる音がする。槍と刀がぶつかったのだと、レビはわかっていた。それ以上は考えず、無我夢中でオボロの方に棒を突きだす。最悪、頭を殴ってでも彼をあの場から引き離さなければディランは助からない。

 だが、少年にしては残酷なことを考えたレビの手は、途中で止まった。

 視界の先で、ふらついているディランが片手を挙げている。それを見た瞬間、なぜか、ぞっとした。

 空気が一気にひきしまったような気がした。わずかに耳鳴りがしてすぐに遠のく。レビは不快感を追いだすようにかぶりを振った。そして、前を見て、唖然とした。

 宙に鋭い氷が浮いている。それはオボロに狙いを定めてきらりと光ると、一斉に降り注いだ。冷淡な羽飾りの帽子の男は、それらすべてを巧みにしのいだ。が、その身ごなしに感嘆している余裕は、少年にはなかった。ただ、震える体を抱く。

 氷から感じたのは、そして今も残り香のように漂っているのは、いつからか、ディランから感じるようになった恐ろしいもの。

 竜の力だ。

『あんたは今、あいつを怖がっている』

 平板な少女の声が、耳の奥によみがえる。

 やめろと、言っている余裕もない。

 ゼフィアーの、叩きつけるような声がレビを呼んだ。彼女が何を言ったのか、レビにもわかっていた。けれど彼は、動けなかった。足が動かなかった。まるで、草地の上に縫い止められてしまったかのようだ。

 そしてすぐ後――今まで見ているだけだったカロクが、突然躍り出て、槍を一閃する。

「あっ――!」

 吐息のような声は、自分のものと思えない。

 槍を受けた少年が倒れこむ。少し舞った赤い血が、やけに鮮明に見えた。傷はさほど深くないだろう。だが、問題は外傷ではない。あの武器と竜の関係は、レビもゼフィアーから聞き及んでいた。今のでどれだけ、『魂』が傷ついたのだろう。

 そう考えたとたん、大きな恐怖が、足もとから脳天へ突き上げた。

 魂が砕かれる。水の主竜の魂が。それは竜の死を意味する。

 死ぬ。誰が。ディランが。

『覚悟もなしに、奴とともにいるつもりか』

 聞いたばかりの言葉がよみがえる。本能の恐怖を思い出す。

 でも。それでも。

 大好きな彼が、不器用で優しい人が、死んでしまうことの方が怖い。

 竜が怖い? 確かにそうだろう。ヒトとはそういうものだ。

 けれど今は関係ない。そんなことは、関係ない。


 頭の中で、一言が弾けた刹那――レビは、槍を構える男に向かって、走り出していた。

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