26.明くる夜、きたる者
灰色の雲を抜けた先に見えたのは、草原の緑と山の黒、雪の白に――砂漠の黄と茶だった。鮮やかな色彩は、それだけで大陸の違いを感じさせてくれる。ディランは、湿った髪を払いのけながら、浅く息を吐きだした。
「今回は、前に比べたらずいぶんと楽だったな」
そんな呟きが聞こえて。振り向いてみれば、茶色い三つ編みをふたつぶら下げた少女が、自分の荷物の点検をしていた。少年の視線を感じたのだろう、ゼフィアーは顔を上げると、悪戯っぽく笑った。
彼女が言ったのは、北大陸付近の上空、常に大気が乱れている空域のことだ。確かにディランも、前回突っ込んだときと比べれば楽に抜けられた気はしていた。理由はわかりきっている。
「水を操る竜が二頭もいたからねえ」
トランスが答えを口にした。
雨が降るのも雷が鳴るのも、雲が関係する自然現象だ。そして、雲は言ってしまえば水のかたまりである。水竜ならばそれをある程度制御できてしまうし、ミルトレもディルネオも経験として知っている。ディルネオほど強力な竜ならば、意識せずとも周囲の水に働きかけることができてしまう。おかげで、例の危険な空域は前ほど荒れることなく、素直に六人と竜を通してくれたのだった。
『さて、あのあたりがいいかな』
ふいにミルトレがそう言って、体を傾けた。眼下にひと気のない草原が広がる。水竜は、音を立てずにふわりと着地する。わずかに首をひねって背中を見たミルトレは、『着きました』とディランに向けて声をかけた。
『ありがとう』
竜語で礼を述べたディランは、するりと背から飛び降りて、自分の鞄と大きな布袋を担ぎあげた。彼に続いて、ほかの五人もぞろぞろと草原に降り立つ。
イグニシオの影響下にある地帯を抜けてすぐのところのようで、あたり一面に丈の短い草が生い茂り、ぽつぽつと低木が生えている。目をこらせば、町のような影も見えた。乾いた冬の風が、草をさらりとなでてゆく。
『それじゃあ、私はこれで』
人々を見回したミルトレがそう言い残し、大きく羽ばたいた。飛び立とうとする彼女に、ディランは一言、『気をつけて』と言う。ミルトレは強く喉を鳴らした後、仲間の姿を求めて飛んでいった。小さくなってゆく竜の姿を見送った後、彼らは誰からともなく歩き出す。
ひとまず目指すのは、遠くに見える町だ。
人々に会いにゆく前に、まずはゼノン山脈に立ち寄ろう、という話が出たのは、北大陸を発つ前のことだった。ディルネオとして炎竜に顔を見せておきたい、というディランの希望があってのことだ。一行は歩きながら話をまとめ、この先の町で一泊してから砂漠に向かうことに決める。やがて彼らが入ったのは、西から砂塵混じりの風が吹きつける、小さな宿場町だった。
整備された石畳の通りに、背の高い家々が軒を連ねる。組み木が目立つ家が散見されるが、それらもよく見れば、壁や基礎の部分は石でできているものがほとんどだ。通りをびっしりと埋めつくす建物をながめて、マリエットが「あら、懐かしいわね」とこぼす。
「来たことあるのか、マリエット」
「ええ。あなたたちと出会う、少し前にね」
銀髪をそよ風にあそばせてほほ笑んだ美女に対して、トランスがおもしろそうに目を細める。
来たことがあるなら話は早い、と、ディランたちはマリエットに案内を頼むことにした。彼女について歩いていくと、小さな宿屋の前に辿り着く。青い扉の古い家屋は、さびしそうに立っていた。その佇まいに、不安や不満を述べる者はいない。代表して、ディランが扉を開いた。
無口な宿屋の主人に金を払って鍵を受けとると、早々と部屋に上がり、休むことにしたのである。
※
頭の中には、常に
繰り返される作業は、竜としての自覚を取り戻した今も、終わらない。
ディランは、ぼんやりと暗い空をながめていた。視線の先では星が瞬き、あたりは静謐な空気に包まれている。暦の上では春とはいえ、夜気は凍えるほどに冷たい。それでも、北大陸の寒さを思えば耐えられる。目はひたすらに夜空を見つめ、思考はひたすらにまといつく靄の中を漂った。
記憶の汲みだしは、七年前から暇さえあれば行っているが、やはり一度に思い出せることは、ひとかけらとすら呼べないほど少ない。死にかけた自分が、いかに強く記憶にふたをしたのかがよくわかった。
思考はどこまでも沈む。行くところまで行きつくと、自然と頭が悲鳴を上げる。鋭い頭痛がしてくるのだ。今も、突き刺すような痛みを感じて顔をしかめたディランは、一度考えることをやめた。石壁にもたれかかってため息をつく。白い吐息は、静かに闇に溶けた。
小うるさい頭痛を追い出そうと、ディランが目をつぶったとき、かたわらの扉が軋んで開いた。彼は薄目を開けて扉の方を脇見する。出てきた人が誰なのか気づくと、しっかり目を開けて、上半身を起こした。
「ゼフィー」
静かな声で呼ぶ。薄手の服に北大陸用の分厚い上着を雑に羽織っただけという、ちぐはぐな格好のゼフィアーは、目を丸くしてディランの方を見た。とてとてと寄ってくる。ゆるく結ばれた茶髪が揺れた。
「ディラン。ここにいたのか。また考えごとか?」
「そんなところ。ゼフィーは俺を探しにきたのか」
ディランが問うと、ゼフィアーは首を振った。
「探していたのはレビとチトセだ。見なかったか?」
「……いや」
首をひねった後、ディランは否定した。彼がここへ来てから、今ゼフィアーが来るまで、宿からは誰も出てこなかった。レビとチトセが出ていったというのなら、ディランより先に出たのだろう。「二人とも、いないのか」と確かめると、ゼフィアーは腕を組んだ。
「ふと目が覚めて見てみれば、三人もいなくなっててびっくりした。レビとチトセは、なぜか武器だけ持って出ていったようでな。決闘でもする気かな」
「そんなわけないだろ。あの二人が、今決闘をする意味がわからない」
いつかけんかを始めそうではあるが、それは今ではないだろう。ディランは苦笑してから、「黙って出てったことについては、悪かった」と、軽い詫びを入れる。ゼフィアーはそれにほほ笑むと、彼と並んで宿屋の壁にもたれかかった。
少しの間、無言で空を見上げる。黒い布に宝石をちりばめたかのような星空は、ぞっとするほど美しい。
「どんな気持ちだ?」
果てしなく広がる闇の中、連れ人を探す迷子のように、声がぽつりと響いた。
「うん?」
ディランが穏やかに問い直すと、ゼフィアーはゆっくりと、唇を開いた。
「記憶が戻りかけている、というのは、どんな気持ちなんだ? 怖かったり、悲しかったり……むなしかったり、しないか?」
ゼフィアーが訊こうとしていることを察して、ディランは、ああ、と納得の声を上げる。ひときわ大きい星を目で追って、少しの間考えこんだ。それから、おもむろに口を開く。
「そう、だな。ふいに恐ろしくなることはある。けど、楽しい思い出も、多いから」
「……そうか」
静かな言葉を聞いたせいか、穏やかな微笑を見たせいか。ゼフィアーは一瞬だけ、気まずそうに地面に視線を落とした。
ディランはその直後に、こみあげてくる苦々しさを感じて眉をひそめた。星を追うのをやめて、闇に目を転ずる。
「あのとき――俺は確かに、失望したのかもしれない」
ゼフィアーが驚いたようにディランの方を見た。彼もそれに気づいてはいたが、彼女の方を見ることはしなかった。
「ゲオルクに刃を向けられて、槍を体に突き立てられて。そのときとうとう、人間という生き物に、失望したんだろう」
「ディラン……」
「でもな」
悲しそうな声をかけてくる少女を振り返り、ディランは姿勢を正す。青い瞳はどこまでも静かだ。
「ゼフィーたちが、失望を希望に変えてくれたんだ」
憎悪の前に絶望し、人という存在に失望した。それはきっと、隠したくても隠せない本心で、真実だ。
けれど、また希望を取り戻すこともできたのだ。すべてを失った先で、人の思いに育てられて。旅の中で、人の側面を見て。そして――『彼ら』に出会って。
「人間が時々、どうしようもなく醜くなってしまうのは確かだ。けど、それは竜だって同じことだし……醜い部分と同じくらい、美しい部分も持ってる。それに気づかせてくれたのは、おまえたちだよ」
暗い感情を前に、立ち止まり、うずくまることがある。道を踏み外してしまうこともある。けれど、それを跳ねのけて、乗り越えて、誇り高く生きてゆくこともできるのだ。その力を、人も竜も持っている。いつもまっすぐに前を見つめる少女とともにいて、水竜たる彼は、人の持つ強さをいつも感じていた。
見てみれば、ゼフィアーの顔はくしゃくしゃにゆがんでいる。それに思わず吹き出したディランは、彼女の頭をぽんぽんとなでた。
「ありがとうな。ゼフィー」
大きな瞳がさらに見開かれる。
「……礼を言うのは、私の方だ。ディランがいたから、私もここまで頑張ってこれたんだ。一人だったら、どこかで足を止めてしまっていた」
「そうか?」
「うむ。だから、私からも、ありがとう」
ほほ笑みあった二人は、またそれぞれに空を見る。星の輝きはいつの間にか薄らいで、闇の色をしていた空は、じょじょに青く染まりはじめていた。極限まで深まった夜は、ゆっくりと明けてゆく。
「これから、いろんな人に会いにいかねばな。道すがら、説得もできたらいいが」
「難しいだろうな。俺たち全員、無名の旅人だ。俺が水の主竜だ、なんていっても、ほとんどの人は信じないだろうし」
「うむぅ……」
うなだれるゼフィアーの背を、慰めるように軽く叩く。
問題は多い。竜狩人のこともある。彼らだけでどうにかすることは、まず不可能だ。けれど、とディランは己の思いを噛みしめるように目を閉じる。
「解決しないといけないことはたくさんあるし、説き伏せなきゃいけない、手ごわい相手もいる。でもさ、みんな一緒ならできると思うんだ。きっと、今まで会った竜たちも協力してくれると思うし」
「そうか?」
「そうだよ。それに、ゼフィーたちがやるんなら、できるんじゃないかって思う。一度どん底まで叩き落とされた『私』を引っ張り上げてくれたくらいだから」
彼らのおかげで立ち直れた。また、世界を信じてみようと思えた。だから――今度は自分の番だ。
「色んな目に遭ってきたけど、やっぱり俺は信じたい。人の力を、竜の心を、もう一度信じたいんだ。だから、一緒に頑張ろう」
きっとできるさ。少年姿の水竜はほほ笑んで、ゼフィアーをじっと見つめた。彼女はしばらく目を白黒させていたが、やがて、照れくさそうな笑みを浮かべる。わざと、小さな子どものように、ディランの腕にすがりつく。
「うむ、そうだな。頑張ろう」
空は青さを増してゆく。
長い夜が、終わろうとしていた。
※
六人は、日の出とともに町を出た。低い山並みがわずかに見える道を進んでゆくと、空気が乾き、熱を帯びてくるのを感じる。これが炎の主竜の力だと、誰もが意識の底で理解していた。砂漠の影はまだ見えないが、そう遠くはないだろう。
「さてと。ヤッカの前に、もうひとつくらい町があったっけ?」
「ええ。川のそばに町があるわ」
ディランのさりげない問いに答えたのは、マリエットだった。美女の断言に、ゼフィアーとレビが安堵したように肩を落とす。砂漠の道行きの過酷さを、彼らはしっかりと覚えていた。乾いた大地の中では、トランスが途端に頼りなくなることも。ディランは無意識のうちに、男の方を見てしまう。
「なんだよ、なんだよ。みんなして俺をじろじろ見て」
男はそう言って、顔をしかめた。ディランはあたりを見回す。どうも、トランスに視線を注いでいたのは彼だけではなかったようだ。というより、チトセ以外の全員が、生温かい目を向けていた。チトセだけは、純粋に砂漠が面倒くさいと思っているのか、しかめっ面で遠くを見ている。
「砂漠に入る前に、水筒に水を入れなければ。春先だからと油断していると、トランスが干物になりかねない」
「お、おいおいゼフィー。干物はひどいぜ。おっさん落ち込む」
トランスはわざと大きな声でそう言って、大げさに肩を落とす。その様子を見たディランは、さりげなく目を逸らした。かつて自分も同じことを思ったことがある、というのは黙っておいた方がいいだろう。
視線を逸らした先にはチトセがいた。ディランは、首をかしげる。――少女はなぜか足を止めて、道なき道の脇をじっと見ていた。
「どうかしたのか?」
声をかけると、彼女は驚いたように振り返る。それから、気が抜けたとばかりに目尻を下げると、自分が見ていた方向を指さす。ディランは無言で指を辿った。
「あれ」
「あれ、って」
その先にあったのは、低木。そして、低木のそばに石があった。よく見ると、浅く穴を掘った地面に石がかぶせてあるようだ。
「焚火の跡だな。でも、そんなに珍しいものでもないだろ」
「そうなんだけど、さ」
彼女は珍しく、弱々しい声で語尾を濁した。
その後もチトセは、歯に何かが詰まったような顔をして、あたりを見回していた。不審に思ったディランは、いよいよ声をかけようかと思ったが、その前にチトセの方から口を開いた。
「ねえ」
彼女が問いを向けた相手は、マリエットだ。
「このあたりでさ。保存食に、魚の干物とかって売ってるの?」
突然の質問だった。さすがのマリエットもきょとんとしていたが、短い時間で考えて、淡々と答える。
「ないことはないけど、少ないわね。内陸でしょう、ここ。魚そのものが、あまり出回らないの」
「じゃあ、干し
「大陸東部は、稲作ができる環境じゃないわ」
マリエットが断言すると、チトセの渋面はますます深くなる。すぐそばにいたレビが身を乗り出した。
「どうしたの、急に」
「……さっき、焚火の跡を見つけたんだ」
「それは聞いてたけど」
「魚の干物のにおいがした」
「へ?」
チトセの切り返しに、レビがぽかんとする。ほかの四人もそれは同じだった。みなが疑問に思っていることを、わかっているのだろう。チトセは苦い顔のまま続けた。
「気づかなかった? あのあたり、魚臭かった。このあたりでは、魚自体あんまりないのに。……でもね。『うち』は特に幹部が、東大陸の半島の出身者が多いから、保存食も魚や米を結構持ち歩くんだ。人によっては、高いものをわざわざ無理して買って」
いつもはっきりとした物言いをするチトセにしては、回りくどい。ディランは眉をひそめたが、すぐにはっとなって彼女を見た。
「つまり、このあたりに――あいつらがいるかもってことか」
あえて肝心な部分をぼかして訊いてみると、少女が無言でうなずいた。一行を取り巻く空気が鋭くなる。
「けど、偶然ってこともあるだろ。海の方から来た旅人が持ってきたのかもしれないし」
「そうだけど。そういう可能性もあるってこと」
トランスの指摘に対し、チトセはふてくされたように言い返した。自分でも、過敏になりすぎていると思っているのだ。
「万が一彼らがいたら、おぬし、どうするのだ?」
ゼフィアーが目をくりくりさせて問う。
「どうって。……相手の出方しだい?」
「まさか、ころっと手のひら返したりしないよね」
「だから相手しだいよ」
ぶすっとしているチトセの横で、レビが目をすがめる。こちらも珍しく、相手を疑ってかかっていた。
「最初からぼくらを誘導していたとか、ないよね?」
「そんなことしないわよ! まどろっこしいやり方は嫌いなの。それやるなら、最初からけんか売ってる。それに」
懐疑的なレビに、チトセが怒った犬のように言い返す。そのやり取りに、まわりの四人は顔をほころばせた。
けれどディランは――ディランだけは、すぐ笑みを消した。考える前に、足が止まる。
「安心しろ。姑息な手は使わん」
声は、どこから響いたのだろうか。
思う前に、全員が身構えた。――いや、チトセだけは、一瞬ためらった。
満ちる静寂。誰かが得物の先を動かそうとしたそのとき、そばの低木の陰からひらめくものがある。マリエットが鋭く槍を振ると、高い音が鳴って、投てき用の短剣が跳ね飛ばされた。全員が顔をこわばらせて、意識をそちらに向ける。
靴音は、前から聞こえた。
金属がこすれる音がする。ディランは目をみはった。
殺意以上に禍々しい気配が伝わってくる。熱く冷たい恐怖が全身をかけめぐり、気づけば剣を抜いていた。
刃と刃がぶつかりあい、火花を散らす。ディランは夢中で後ろに跳んだ。知らない男が剣を静かに構えているのを見た。そして剣から感じるのは、魂をむさぼるものの気配。ディランは、冷静になれ、と言い聞かせようとして、その暇すらないことを思い知らされた。
知らない男を覆い隠すように、黒が躍り出る。そう思った次の瞬間には、きらめく槍の穂先が近くにあった。
「ディラン!」
誰かが名前を呼ぶ声はやけに遠い。
彼の意識は、恐ろしいものを前にして冷えていた。
「久しぶりだな」
低い声が響く。覚えのある声だ。そして、相手の言う通り、久々に聞く声だ。だというのに、時間を感じさせないのはなぜだろう。
そう思ったとき、彼の目はやっと、大きな槍とそれを握る男をまともに認識した。
「――ようやく本性を見せたか」
いつかの記憶を揺さぶる声で。雨と血を思い起こさせる立ち姿で。
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