第四章
21.約束
草木のにおいに満ちた、冷たい風が吹く。それは、追憶の最後を彩った砂混じりの生温かい風とは、まったく別のものだった。彼は、目をゆっくりと開いて上を見る。大樹は変わらず枝葉を広げて佇んで、地上の者たちを見下ろしていた。彼は樹を見てほほ笑んだ。
帰ってきた、と思った。今になって、やっと、そう思えた。
彼は目を戻し、そして振り返る。視線の先にいる四人は、いずれもどこか困ったような表情をしていた。なぜか安堵の息が漏れる。
「湿っぽくなってしまったかな」
呟いて、彼は草を踏んだ。いつの間にか、この人の体にもすっかり慣れてしまった。十五年の空白と七年の生活の中で、彼はもうひとつの「己」を、自身の中に確立したのだ。不思議な縁が導き出した、人からもらった人の名前も、戸惑いなく自分のものとして受け入れられる。
だから今は――水竜ディルネオであると同時に、ディランという少年としてここにいる。
それは揺るぎのない確信であり、誇りだった。
「もう、二十二年の前の話だよ。みんなの知りたい答えが示せたのなら、俺はそれでいい。だからその、あんまり重く受け止めるな」
俺が困る、と続けた彼は頬をかく。
そのとき、やっと、四人のうち一人が口を開いた。
「そうは言われてもだな……重く受け止めざるを得ないだろう。おぬしの身を穢(けが)してしまったのは、間違いなく人の罪だ」
「けど、人を狂わせたのは竜の罪だ」
『伝の一族』の末裔である少女の言葉に、ディランは切り返す。ゼフィアーはその一撃で、沈黙してしまった。ディランは苦笑する。
「お互い道を間違えたんだ。それを止められなかった責任はゲオルクにも俺にも、人と竜の争いに関わったすべての者にあると思ってる。
それに、今さら気にしたって、もうどうしようもないさ。前に戻れるわけでもなし」
かつてには戻れない。戻らなくてもいいと、ディランは思う。
暗い絶望の先で見たのは、確かな光だったのだから。
「で、マリエットさん。満足いただけた?」
ディランはおどけて、自分に水を向けてきた女性を見やる。彼女もまた、茶目っ気たっぷりにほほ笑んだ。
「ええ。とても満足したし、今後の参考にもなったわ」
「それはよかった」
ディランが肩をすくめると、マリエットはわざとらしく顎に指をひっかけた。
「でもそうなると、新たな疑問が出てくるわ」
「……な、なんですか?」
おそるおそる訊き返したのは、やっと驚愕から立ち直ったらしいレビだった。マリエットは少年の問いに、真面目な声で答える。
「彼の体のことよ。普通の竜の変化体(へんげたい)だったら、一部をのぞけば鱗並みに固いはずだけれど、今まで見てきた感じだと、人間の皮膚と変わらないのよね」
「それは単に、俺が自分を人間と思いこんでたから、体もそっちに寄っただけだ。……というか、そうなるように仕向けた」
言うなり、少年の姿をした竜は、腰に帯びた鞘から剣を抜き放ち、その刃で無造作に自分の腕をなぞる。マリエット以外の三人が、ぎょっとして身を乗り出した。
「お、おまえ何やって――」
叫びかけたトランスの、口の動きが止まる。刃が滑ったはずのディランの腕には、傷ひとつついていなかったのだ。彼は剣を鞘に収めると、あっけらかんと笑う。
「ほら。今はこのとおり」
返ってきたのは、なんともいえぬ沈黙だった。女二人は興味深げにしているが、男と少年は顔を引きつらせている。
「おまえ、そういうところは変わってねえのな……」
「ええっ?」
いきなり意味のわからないことを言われ、ディランは首をかしげる。彼に呆れられる覚えがないとわかると、トランスは「まあいいや」と呟いてため息をついた。言葉の割に表情は穏やかで、嬉しそうにすら見える。そして、このやり取りをきっかけに、一行にいつもの空気が戻ってきた。
ゼフィアーがおもしろそうに目を細めてトランスの脇をつつき、レビはそれを見て苦笑している。マリエットはただ穏やかに森を見回していた。それぞれがばらばらで、まとまりのないように見える人々は、けれどその裏に確かな一体感をもっている。やがて、トランスをひとしきりいじったゼフィアーが、ディランのもとに歩み寄った。
「でも、よかった」
「ん?」
少女は細い腕を伸ばし、ちょっとだけ背伸びをして、ディランの肩を叩く。
「記憶が少しでも戻って、よかった。それが一番の目的だったからな」
「ああ……」
誘われるように旅に出て。あてどなくさまよって。厄介事を抱えた少女の手を取った。
ほんのいっとき、彼女の旅に付き合うだけのつもりだった。けれど、その先に待っていたのは少しの不穏と、いくつもの出会いと、求めていたはずの真実で。時間をかけて歩み、越えてきた道は、絶望をどこかに焼きつけたままだった彼に、世界の輝きというものを見せてくれた。
それはとても幸せなことだと、今になって思う。今だからこそ思う。だから彼は笑った。いつもどおりに、少女の頭に手を置いた。
「ゼフィーたちのおかげだよ。――ありがとう」
そのまま、ゼフィアーの頭をくしゃくしゃとなでる。くすぐったそうな顔はされたが、拒まれはしなかった。
ディランが満足のいくまでなでて、ゼフィアーから手を離すと、彼女は小首をかしげた。
「ディランは、これからどうするのだ?」
彼もまた、目の前の少女と同じように首をかしげる。
「どうするかな。まだ、いろいろと中途半端なままだから、どうしたらいいかわからない」
彼がそう言うと、そばの四人が何やら視線を交わしあい、生温かくほほ笑んだ。隠しごとをされているような気分になって、ディランは眉を寄せる。問いを口にしかけたとき。一人の少年が、やわらかく目を細めた。
「なら、今までどおりでいいと思います」
きょとんとするディランをまっすぐに見て、レビは続ける。
「まだやらなくちゃいけないこともありますし。今まで通り旅をして、いろいろ見たらいいと思います。それから決めても遅くないですよ。ディルネオもディランも、今までいろいろ頑張ったから、少しゆっくりしてもいいと思うんです」
おぼつかない言葉のひとつひとつは、強く響く。ディランは胸を突かれた気がして、息をのんだ。
狭い村で、抑えきれない願望とともに生きて、弱くほほ笑んでいた少年は、今、少しだけ強い目をして立っている。
「――おまえにそれを言われる日がくるとはね」
まいったな、と呟いて、ディランは苦笑する。その意味を悟ったのかそうでないのか、レビはぱっと顔を赤くした。それまでの優しく落ち着いた態度が嘘のように、慌てふためいて頭を下げる。
「あ、えっと……えらそうなこと言ってすみません! あと、この間は理由も言わずに怒鳴って叩いて、申し訳ありませんでした!」
「いや、だから、それもう気にしてないって。いいから落ち着け」
ディランもまた、一転して呆れた目を彼に注ぐ。まわりで笑いが起きた。
ため息とともに肩をすくめたディランは――ふいに、笑みを消すと、並び立つ木々の方をじっと見る。茶色い幹の、そのむこうを見通すように。
「おまえもさ、言いたいことあったら好きなだけ言えよ」
いつもと変わらぬ調子で語りかけると、やわらかい空気がかき消えた。ディランの見つめる木の陰から、ふらりと影が現れる。
ディランを不思議そうに見つめていたレビが、息をのむ。驚いているのは、彼ひとりだった。
「チトセ!?」
名前を呼ばれた少女は、尖った視線を一行に向ける。
しばらく、誰も何も言わなかった。ややあって、チトセが手槍を木に立てかけて、ディランをにらんだ。
「何かあるとは思ってたけど。――竜だとは、それも主竜だとは思わなかった」
「それはそうだ。おまえみたいな若い狩人に見破られたら、記憶を封じてまで人間のふりをした意味がない」
ディランがからりとそう言うと、チトセの目つきはますます鋭くなる。その目のまま五人を――四人と一頭を順繰りに見た彼女は、ふっと自嘲的な笑みを浮かべた。
「この様子だと、尾行にはとっくに気づかれてたみたいだね。そこのチビ以外には」
刺々しい言葉に、レビがむっと唇を尖らせた。何かを言い出しそうな少年を手で制して、ディランはチトセの方に出る。その背中を目で追っていたトランスが、腕を組んで問いかけた。
「おまえ……はじめから、その嬢ちゃんにも話を聞かせるつもりだったな?」
誰もかれもが息をのんで、チトセの肩が大きく震えた。揺るがなかったのは、ディランだけだ。
「どういうこと」
トランスをにらみ、鋭く質問したのは、ディランではなくチトセだった。トランスは近くの木の幹に背中を預けて、険しい顔の少女を横目で見る。
「ここはもう、ディランの……ディルの領域だからな。こいつが拒んだ奴は例外なくはじき出されて、《大森林》をさまようはめになるはずだ。けど、竜狩人でありその武具を持っているはずの嬢ちゃんは、今ここにいる。それが何を意味するかは、言わんでもわかるだろ」
チトセが唇を噛んだ。両目に鋭い光を走らせて、またディランを見る。見られた方は、淡く笑った。
「――つけられてる、っていうのはだいぶ前から気づいてたよ。いい機会だと思ったんだ。俺の目から見たあの時代の話を聞いてもらって、チトセがどう感じるのか知りたかった。身勝手な理由だとは、思ったけど」
「そんなのっ……!」
喉を絞めるような細い声が出かかって、途切れる。竜狩人の少女はきつく目を閉じ、かぶりを振っていた。ディランは、ゆっくり動かしていた足を止める。
少年と少女の、竜と竜狩人のあいだを、無音の時が駆け抜ける。
すぎゆく時間の果てに響いたのは――高らかな抜刀の音だった。
「待っ――」
重なり合った制止の声さえも無視して、チトセは堪えきれぬといわんばかりに、腰に帯びていた刀を抜き放った。歯を食いしばり、それを相手の胸に突きつける。
ディランは、自分に向く刃を落ち着いて見ていた。閉ざす前ほどではないが、《魂喰らい》の力は、はっきりと感じる。これをそのまま突き出されたら、死にはしないが重傷は免れない。それでもなぜか、心は静かだ。
刀身が震える。チトセもまた、震えていた。歯ぎしりして、目をすがめて、竜を見すえる目は強くて、弱い。
「なんなのよ! 竜のくせに! みんなを殺した奴らの仲間のくせに! なんで人間に肩入れするの、そんなんで許してもらおうとでも言うの!?」
ディランは答えない。黙って、少女を見つめた。
じわり、と。懐かしさと切なさが湧き起ってくる。
「なんでよ。ふざけないでよ……」
彼女は、とてもよく似ている。
おいたちも、境遇も、彼を見る目つきまでも。奥に潜む狂気さえ。
「なんであんたが、泣きそうな顔してんのよ……」
弱く強い声が、ディランの耳を打つ。彼ははっと目を見開いた後、曖昧に笑った。うまく笑えた気はしないけれど。
「そんな顔、してたか?」
「とぼけないでよ、この化け竜。泣きたいのはあたしの方だってのに」
「そこまで言われたのは、二十三年ぶりだ」
本当によく似ている。ディランはとうとう吹き出してしまった。
刃が下がる。《魂喰らい》の刀は、それを握る少女の手は、とうに竜を向いてはいなかった。チトセは刀を持ったまま、草の上に膝をつく。唇を噛みしめ、嗚咽に似たうめき声をこぼした。慌てて駆け寄ってくる仲間たちの気配を感じながら、ディランは彼女を黙って見つめる。声がやんだ頃を見計らって、口火を切った。
「迷ってるのか、チトセ」
答える声はなかった。沈黙と、痛ましい表情が何よりの答えだった。
きっかけは、西大陸東部で彼らとともに行動したことだったのだろう。敵意のない風の小竜を、それも自分たちが一度殺そうとした竜を間近で見たことで、自分のやっていることに疑念を抱いたのかもしれない。それはディランの推測でしかないが、チトセが竜狩りという行為に対する自信と信念を喪失しつつあるのは、確かなようだった。
ディランは自然に、言っていた。
「なら、一緒に来るか?」
「――えっ!?」
引きつったような濁ったような、変な声は、まわりから聞こえたものだ。
チトセは黙って顔を上げ、ディランを見ている。正気か、と目が語っていた。
「わからないなら、もっと近くで見てみればいい。いろんな竜の側面をさ」
彼女にそれを言えるのは、それこそ、今だからこそだろう。
人としての感情も、竜としての感性も持ち合わせている今だから。
「仲間になれとは言わない。チトセが嫌なら、あの傭兵団に戻ればいいだけの話だ。
もし一緒に来る方を選んでも、俺たちをそばで見て、やっぱり竜を許せないと思うのなら――」
ディランはチトセの刀を指さした。
「今度こそ、遠慮なくそいつを使え」
チトセは強く、刀の柄を握る。瞬間、空気が張った。
今にもそれを使いそうなチトセへ、ディランは釘を刺すように言う。
「ただし、俺もただで殺されてやるつもりはないからな?」
「……あんたさ、本当に馬鹿だよね」
チトセは弱々しく言った後、ふっと笑った。
「ああ。俺は、大馬鹿者だよ」
彼もまた、いつかのように呟いた。
まるでそれに応えるかのような能天気な声が、彼の背後から響いてくる。
「っとに、しょうがねえな。この人間大好きディルネオさんはよ」
「本当に、チトセ来るんだ……」
「当の水竜殿がこう言ってるんだ。しかたない」
「肝が据わっているわね。さすが、年長者は違うわ」
振り返れば、そこにはいつもの仲間たちがいて。冷やかなような生温かいような、変な視線をディランに向けていた。やれやれと首を振る彼らに向けて、ディランは深いため息をこぼす。
「受け入れてくれるのはありがたいけど、言葉の端々でけなされてるような気がするぞ」
「気のせいじゃない?」
冷やかな声に振り返ると、いつの間にかチトセが、小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。調子のいい少女を前に、水竜は「おまえな……」と肩を落とした。そうしている間に、彼女は刀を鞘に収めて立ちあがっていた。服や膝についた土を乱暴に払う。
「そういうことなら来させてもらうわ。その気になればいつでも主竜を狩れるんだもの。あたしにとっても悪い条件じゃない」
「勝手に竜を殺すのは禁止だぜ」
トランスがすかさず、ちくりと言うと、チトセはそっぽを向きつつ「わかってるわよ」と言い捨てた。そこで、レビとゼフィアーが、おずおずと切り出す。
「けどもおぬし、『破邪の神槍』の方はいいのか?」
「裏切りと取られそうだけど……」
チトセは彼らを一瞥し、鼻を鳴らす。
「でしょうね。監視のためってごまかしても無駄だろうし。でも、中途半端な気持ちのままであそこに居続ける方が嫌よ」
きっぱりと言った彼女は、最後にまたディランを振り返る。
「覚悟しときなさい。あたし、その気になったら、本当に殺しに行くから」
「ああ。そのときは本気で相手させてもらうよ。――約束だ」
ディランが穏やかに返すと、チトセはあからさまに顔をしかめた。
よろしく、の一言もなく、竜狩人は一行の中に入る。けれど、それでいいと誰もが思っていた。仲間ではなく、敵でもなく。どちらでもない場所から四人と竜を見つめる者。それがこれからのチトセだと、誰もが受け入れていたのだ。
こうして、またひとつ、奇妙な関係が成立する。迷いと敵意と願いの中で交わされた、約束をもって。
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