20.すべてを閉ざした日

 どれほどの間、飛んだだろうか。

 もはや時間を感じることなどできなくなっていた。それどころか、自分がどこにいるかさえわからなくなっていた。ただ、満身創痍のこの身が飛び続けられたことが奇跡に等しいというのは、ぼんやりと自覚していた。ふらふらと蛇行しながら進むとき、彼は「逃げなければ」としか考えていなかった。あの狩人たちの手が届かないところまで、逃げなければならない、と。

 地鳴りのような雨音が聞こえ続けて。やがて潮の香りがふっと消え、あたりはどんどん暗くなった。


 夜になった。


 朦朧とする意識の中で、そう思ったとき。彼の体は急速に力を失った。低い空でがくんと傾いた竜は、なすすべなく落ちてゆく。草葉が大きく揺れて音を立てた。全身にばしばしと当たる枝の感触で、かろうじて森林であるとわかった。――それすらも、もうどうでもいいことだ。

 枝を折り、草葉を散らしながら落ちたディルネオは、叩きつける雨の中、わずかにもがいた。したたり落ちた血は、すぐ雨水に流されて薄らいでゆく。しばらくそうしてもがいて、動いて――やがて、力を失いぐったりと地に伏せた。

 彼を見る者はだれもいない。彼を知るのは、林の細い木々だけだ。

 魂に亀裂が走る。目に見えぬそれは確かに揺らいで、か細くなった。

 体温が失われつつあるのを感じながら、ディルネオが考えていたのはやはり、ゲオルクのことだった。


 結局、変えることができなかった。引き戻すことができなかった。

 彼はあれから、どうなっただろう。無事でいるだろうか。いや――無事でいたとして、その後、どうするのだろう。

 友として想い続けていたのはきっと、自分だけだったのだろうと、思わざるを得なかった。

 

 雨の音が大きく、強くなる。森の土は水にひたされ、木々は濡れそぼって水の糸をしたたらせる。空では白い光が瞬き、雷鳴が響いた。時に近づき、時に遠ざかっては繰り返す轟音は、何度も何度も大地を揺らした。

 水が揺れている。

 水が泣いている。

 その気配を、声を確かに感じた水竜は、重い瞼をこじ開けた。

 

 彼は、主竜だ。

 主竜の魂が砕ければどうなるか、それは、彼自身が一番知っている。

 

『なにを勝手に打ちひしがれていたのだろうな』

 ディルネオは、無意識のうちに力をふりしぼって喉を鳴らす。

――ここ十年ほどは、あまりにも竜が死にすぎた。その影響か、各地で異常気象やそれにともなう災害、飢饉が相次いでいたのだ。そのうえ、さらに大きな力と役割をもっている彼の魂が砕ければ、どうなるか。今でさえこの雨だ。もしも本当に、彼がここで息絶えれば、世界そのものの崩壊につながりかねない。犠牲が大陸ひとつで済めばよい方だろう。

 目の前にちらつく最悪の未来は、彼がもっとも嫌う終わりだ。現実になることだけは避けなければ。

 生きなければ、ならない。

 どんな手を使ってもだ。その結果、自分がどうなってもかまわない。存在が変質しても、魂さえ守れればそれでいい。

 燃えるような使命感は、瀕死の彼にわずかな活力を与えた。彼は必死になって頭を持ち上げ、体を引きずって天をあおいだ。

 生きなければ。――生きていたい。

 ふたつの思いが胸の中にあることに気づき、彼は、わらった。


 おまえ、ほんとに馬鹿だなあ。

 そんな声が、遠くから聞こえたような気がした。

 

『ああ――』

 さらに頭を高く上げた彼は、全身に意識を集中させる。体の内側に青い光が灯り、それはまたたく間に強くなって外へあふれだした。竜の全身をつつみこんだ。

『本当に、私は、大馬鹿者だ』

 ディルネオは強く言い放ち、高く高く、咆哮をあげる。

 

 魂を、押し込める。簡単には触れられない、深い、深いところへ。

 そうした後は、固い殻で覆ってしまえ。

 浮かびあがってこないよう、縫い止めてしまえ。

 そして、存在を感じられぬようにならねばならない。魂をすり減らさぬ者にならねばならない。

 

 だから、すべてを閉ざす。

 魂も、力も、竜であるという自覚すらも。

 押しこめて、閉じ込めて、ふたをして。

 それが終わるると、彼の意識そのものも、長い眠りという暗闇に落ちていった。

 

 

     ※

     

     

 長い、長い、終わりの見えない空白を漂って。その果てに、湿った風に起こされて、『彼』はうっすら目を開けた。

 地面に張り出した木の根が見えて、続いて枝と葉が見えた。そこは、豊かに色づく林だった。『彼』はぼうっとそれらを見つめたあと、自分というものを見回した。湿り気のある土の上に横たえられた体は、ところどころ汚れていて、ひどく痛んだ。痛みに気づいて、食いしばった歯の隙間からうめき声を漏らす。

 意識も体も鉛のように重い。とてもとても気だるくて、このままもう一度眠りにつきたい、と思うほどだった。

 けれど『彼』は、起きあがった。両手をついて、膝をついて。そこまでが限界だったから、這うようにして前に進んだ。なぜか、進まなければ、という強い思いが胸を焼いていた。

 しばらく這いつくばっていると、木々の列が途切れた。林を出たようだった。『彼』は安堵と寂しさを同時におぼえた。そのとき、また全身がひどく重くなった。林から出るまでの短い時間に、気力も体力も底をついてしまっていた。『彼』はふっと目を閉じて、すべてを流れにゆだねた。細い体は傾いて、そのまま横倒しになる。それきり、ぴくりとも動かぬまま、沈黙してしまった。


 やがて、体が勝手に悲鳴を上げて――痛みに引きずられて目を開けたとき、『彼』は自分がすべてを忘れていることに気づく。

 遠くから、足音と人の声がかすかに聞こえてきた。

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