19.涙雨

 風が強くなる。水の粒が鱗を叩く。降り出した雨は見る間に強くなり、かれと――向かいにいるかれの姿をしゃのように覆った。

『ゲオルク……』

 ディルネオは、何もかもがないまぜになった震え声で、名前を呼んだ。自分でも何を感じているのか、どう思っているのかわからない。

 黒髪を風になびかせ立つ青年は、最後に見たのと変わらぬ冷やかな目をしていた。右腕を前へまっすぐ突き出して、手には湾曲した刃をもつ剣をにぎっている。その刃先はむろん、竜の首へと向いていた。

 ディルネオが鋭利な目でにらみかえすと、ゲオルクはわざとらしく微笑んだ。冷たい笑みだった。

「悪いな。あんたにこんなことする気はなかった。じゃなきゃ、『死にたくなけりゃ知らない方がいい』なんて忠告はしないだろ?

でもさ。これが、交換条件だったんだよな」

「交換、条件」

 ディルネオはうつろに呟く。その内容は、聞くまでもなく想像がついた。ゲオルクが持っているのは、《魂喰らい》の武具だ。それを与えられる代わりに狩人たちにディルネオのことを教える。「狩り」に協力すればなおよし。――そんなことを、言われたのだろう。

 ディルネオは、目をすがめた。これまでにないくらいの冷たさをはらんだ視線を、ゲオルクにぶつける。

「それで? 私を脅して、おまえは何をしようとしている?」

 ゲオルクは歯を見せた。笑みがいびつに歪む。「話が早くて助かるね」と、小さな声がした。


「アラナの村を壊した竜たちは……今、どこにいる?」


 雨の音を切り裂いて響いた声は、すぐに消える。そこへかぶせるようにして、彼は続けた。

「あんたは知ってるはずだ。だって『審判』に参加するんだもんな」

 ディルネオは答えなかった。だが、そのとおりだった。

 気絶させられ、拘束された風竜たちと、のちに捕らえられた炎竜たちの居場所を、彼は確かに知っている。

 見抜かれて当然かとは思ったが、同時に、黒いものが胸にうずまくのを感じた。

「聞いて、どうする」

 ディルネオは言った。声は少し、かすれていた。ゲオルクの目に宿る光がきつくなる。

「どうする? そんなの、言わなくてもわかるだろ」

 瞳の奥に潜むのは、おぼえのある輝きだ。

 憤怒とも、憎悪とも呼べるそれは今や、青年の表層に出てきている。彼の心を焼いている。彼はあの日から、それに突き動かされて、ここまで来たのだろう。

 それをわかってなお――わかっていたからこそ、ディルネオはかぶりを振った。

「教えられない」

 静かな声が雨の中に落ちた。ゲオルクが歯を食いしばり、腕を突きだす。刃先は青い鱗に触れ、ディルネオの中に魂を喰らう力が流れこむ。痛みが走り、景色が歪み、うめき声が漏れた。それでも彼は、青年の要求をかたくなに拒んだ。

「だめだ。おまえに彼らを殺させるわけにはいかない!」

 声が強くなったのは、気を張ったからだった。

「はっ、結局それかよ! 環境が壊れて困るからやめろ、ってか!?」

「違う!」

 低い声で言うゲオルクへ、ディルネオはとっさに叫んでいた。相手が顔をゆがめて固まったのを目にしつつも無視する。

「憎しみに染まった今のおまえが彼らを殺せば、おまえはもう後戻りができなくなってしまうぞ!

私は、それが嫌なんだ! おまえという人間が狂ってしまうのが嫌なんだよ! ゲオルク、おまえにとって私は、竜の一頭にすぎなかったかもしれないが――」

 言葉を探して。口をつぐんで。その先で選んだのは、結局、なんてことのない本音だった。

「私はおまえを、友だと思っている」

 ゲオルクが肩をこわばらせる。目を伏せる。雨の筋の向こうで、ぬれてはりついた黒髪が、顔にかげを落としていた。刃先がぶれるのを感じて、ディルネオはもう一度、彼を呼ぶ。

「なあ、ゲオルク」

「――あんたは、そういうやつだった」

 ディルネオは細く息を吐いた。白い吐息が雨の中に消えてゆく。彼の言葉にかぶせられた声は、笑うように揺れていた。何か言わなければ、とあせるディルネオをあざ笑うように、青年は、静かに言った。

「それならさ、もういいよ」

 あきらめてくれたように、思いとどまってくれたようにも聞こえる一言。けれどディルネオは安心できなかった。嫌なものはぬぐえなかった。

 そして、彼の予感は正しかった。ゲオルクの剣がゆっくり引かれると同時に、どん、と低い音がした。生き物が地面を蹴って跳躍する音だ。ディルネオの背後から、鋭く強い気配が襲いかかってきた。

 鱗のうえからでも感じる寒気。彼は、戦慄した。不覚を取ったことを知った。ゲオルクと、突きつけられた凶刃に気をとられて完全に油断してしまっていたのだ。

 それが、敗因だった。

 

 風を切る音。振りむく間もなく、背中に衝撃と鈍い痛みが走る。

 

『が、ぁっ……!』

 視界がまっ赤に染まったのは、錯覚なのか。

 自分の声すら、吐きだされる息すら他者のもののように感じて。

 とがった何かが。熱い何かが。鱗をつらぬき、暴力的に肉体と魂をむさぼってゆく。

 ゆっくりと視線を下げると――信じられないものが映った。この世のものとは思えないほど太く大きな槍が、背から腹にかけて深々と突き刺さっていたのである。

『これは……っ』

 思わず声を漏らすと、開いた口の隙間から、赤いものがこぼれ落ちて、地面に跳ねる。首を回すと――自分の背中に立つ男が見えた。無表情で、氷のような目をした東人とうじんの男だった。

「まだ動けるか。さすが、主竜というだけある」

 男は低い声でそう言った。だがディルネオは、ろくに聞いていなかった。痛みが全身を駆け巡り、思考さえ染め上げる。何もしていなければそれだけで壊れてしまいそうだ。

 悪いことは続いた。足音と怒声が迫ってくる。水の猛威をかわして生き残った狩人たちが追いついてきたのだ。ずぶぬれの彼らはしかし、巨大な槍につらぬかれた水竜を見ると、瞳を輝かせて武器をとった。

 衝撃が走り、ディルネオはうめいた。何かをぶつけられているのか、斬りつけられているのか、刺されているのか、もしくはすべてか。それはわからなかった。ただ、痛みをおぼえて、ぼろぼろになっていく翼だけがかすんで見える。

 雨に煙る暗い空を、竜の咆哮が切り裂いた。

 狩人たちの狂ったような攻撃がやむ。

 サ――……と、か細い雨音が響いたのち、大きな翼が勢いよく羽ばたいた。水の巨竜はもがくようにして空へ舞う。背にいた男はとっさにしがみつこうとしたが、竜の力に負けた。舌打ちをこぼし、振り落とされる前にみずから飛び降りた。胴に突き刺さった槍をそのままに飛びあがったディルネオは、攻撃の届かない高さでもがいたあと、ようやく理性の戻った瞳を地上に向けた。

 人々の目は、気分まで沈みそうな曇天のなかで、ひどくぎらついていた。だが、ディルネオの凪のように穏やかな目を見たからか、その中の何人かは、目ざめたような顔で息をのんでいた。ゆっくりと視線を巡らせたディルネオは、狩人たちから少し離れたところに佇んでいる青年を、とらえた。

『ゲオルク』

 かすれて、ぶれた声は、それでもまだ名前を呼ぶ。ゲオルクは声に反応して竜を見上げた。

「なあ。俺さ、あんたを殺したくなかったよ。本当だ。それに、あんたは、俺が狂うのが嫌だって、言ってくれたな」

 きつい目もとが歪む。ゲオルクとしては、笑ったつもりだった。


「でも、でもな。俺、もう狂ってたんだ。後戻りできねえところに、来ちまってたんだよ」


 だからもう、死んでくれ。

 

 彼がのみこんだであろう言葉が、ディルネオには届いていた。

 その瞬間だけ、彼は痛みを感じなくなったような気がした。

 自分で驚くほどに落ちついていた彼は、人々を見、そしてまた、青年を見つめた。

 

 痛みがまたよみがえって、息がつまりそうになった。

 けれど頭を満たすのは、怒りでも憎しみでもなく。悲しさと、悔しさと、かすかな絶望だけで。

 

 ああ、痛くて、苦しくて、悲しいのに。

 なのにどうしてこんなにも、愛しいのだろうか。

 

『ゲオルク……私は、私たち、は……』


――私たちはどうしたら、わかりあえたのかな。

 

 声は形にならない。形にするのを、あきらめた。

 

 彼は目を閉じ、翼を打った。ほとんど力が入らなかったが、それでも飛んだ。

 高く、高く。誰も手出しができないところまで。

 そして、青い波が空を覆った。ディルネオの中に眠る、水を統べる力だ。彼の力は、彼の身に突き刺さっていた槍を弾くように落として消える。

 竜はそのまま、ふらつくように飛んで、遠くの空へ消えてゆく。

 

 空の先、雨の向こうに竜の影が消えた直後――あたりは強烈な光に包まれた。遅れて、人々の耳をつんざくような轟音が立て続けに響く。

 音がやんで、遠ざかると、今度は堤防が切れたかのように、雨が強まった。

 

 

 空から降る水はもはや滝のようだった。轟音とともに視界を白く染め上げる。霧のような水の向こうで、時折本物の白光が瞬いて、そのたびに雷鳴が轟いた。雨水は、木のない大地に容赦なく降り注ぎ、岩を砕き、草と土を押し流す。

 そんな中、青年は立ち尽くしていた。黙って見えない空を見上げていて、そこから動こうともしない。

「おまえが竜じゃなけりゃ、よかったのに」

 口の端をもちあげた青年は呟く。憎しみをたぎらせて空をにらんでいた彼は、もうここにいない者へ、呼びかけた。

「なあ、ディル……」

 口の隙間からひきつったような笑声が漏れる。

 歪められた目尻からこぼれおちた雫は、雨にまぎれて溶けていった。

 

 

     ※

     


 突然の嵐にあい、混乱したのは竜狩人たちであった。

「こ、こりゃあ、なんだよ、何が起きてるんだ……!」

「た、退却! 退却だあっ!」

 強靭な体と心をもつはずの竜狩人たちが、叫びながら散ってゆく。そんななかで、槍使いは動けずにいて、彼の首領は冷静に佇んでいた。

「し、シグレ様……これは、いったい……」

 震える声で槍使いが問えば、男はわずかに顎を動かした。

「当然の結果だな。主竜を殺せば、こうなる。あの槍――《破邪はじゃ神槍しんそう》がなければ、死んでいたのは俺たちの方だったが」

「しゅ、主竜!?」

 槍使いは引きつった声を上げる。まわりに残っていた仲間たちもざわついた。

「主竜だって!?」

「俺たちは、主竜を狩ったのか!?」

「ひでえや首領! なんでそれを言わないんですか!」

 狩人たちは騒ぎ立てる。けれど、男の態度は揺るがなかった。

「言ったところで、どうなるというのだ」

 鋭い一声を受けて、狩人たちは黙りこむ。槍使いは、愕然として長身の首領を見上げていた。

「あの竜の正体を貴様らに告げたところで、貴様らがやることは変わるのか?」

 問いに答える者はない。男は、上衣をひるがえし、彼らに背を向けた。

「――否。貴様らが、俺たちがやるべきことは変わらぬ。やるべきことは、人に害なす竜を狩ること、それだけだ」

 男たちは黙りこんだ。少ししてから状況の悪さに気づき、自分たちも退却のために動きだす。けれど、槍使いだけはそこにとどまった。切り捨てられるのを覚悟のうえで、問うていた。

「シグレ様。あの竜は本当に、人に害なす竜、だったのでしょうか……?」

「さあな」

 男は、槍使いの予想に反し、薄く笑んだだけだった。

「今回は、の声に耳をかたむけただけだ」

 雨にぬれた男の横顔を見て、槍使いはぞっとする。思わず得物を強くにぎっていた。

 出かかった言葉をのみこむ。喉が鳴る。

――あなたは本当に、それだけのために竜を狩っているのか、などとは、訊けるはずもなかった。

 空を見上げる。といっても、雲のかかった空は雨に隠されて、ほとんど見えない。水の先で、また雷光が閃いた。槍使いは、自分の中に、恐れと後悔と、今までに感じたことのない苦しさがうずまくのがわかり、震えた。

「私たちは……とんでもないことを、してしまったのかもしれない……」

 今わの際にあって、竜の目は、穏やかだった。慈愛に満ちた青色が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

 はじめて抱いた苦しみを罪悪感と呼ぶのだと、槍使いが悟るのは、しばらく後のことである。

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