11.ディラン

 どうか、嘆かないで。悲しまないで。

 竜の営みは、まだ途絶えていないから。


 ――私は生きて、ここにいるから。



     ※



 ディルネオ、と。

 ゼフィアーが水竜の名を口にした瞬間、人々の間にいいようのない緊張が走った。端的にいえば、誰もが唖然としたのだ。あまりにさりげなく放たれた、重大な一言に。

 ふたつの名を向けられた少年は、少年の姿をした者は、まだ彼らに背を向けたままだ。じっと、大樹と向きあっている。

 果てしなく続くかと思われた、重い沈黙。それを打ち破ったのは、ほかならぬ、人の声だ。

「は……?」

 それは最初、言葉にすらなっていなかった。三人の視線が、声の主へ集中する。力の抜け切った声を発したトランスは、いつかのように、弓を取り落としそうになっていた。今まで仲間たちが見たことないような、激しく揺れる瞳は、少女とそのむこうの少年を何度も見比べている。ゼフィアーが、ひたとトランスを見つめ返すと、彼はようやくまともな言葉を紡いだ。

「おいおい、なんの、冗談だよ。なあゼフィー」

 震える声に、少女はすぐには応えない。ただ、少し苦しそうに、あるいは悲しそうに目を伏せて――背を向けたままの一人を見た。ほかの三人も自然と、彼女の目を追っていた。

「え? ディルネオって……誰が? ディラン、が?」

「待て。そんなはずは――だってあいつ、どこからどう見ても人間で」

 うろたえて。あるいは、目の前に存在する真実から目を背けるようにして。レビとトランスが、口早に言う。しかし、ゼフィアーはあくまでも静かで、そして冷徹だった。ゆるやかにかぶりを振ると、少年の方へ歩いていく。いつも通りの、足取りで。そして、少年の背後に立った彼女は、その場で小さく口を動かした。なんと呼びかけたものかと、迷ったのだ。少女が逡巡しているうちに、振り向いたのは少年の方だった。

「ゼフィー。ゼフィアー・ウェンデル」

 今までと変わらぬ声が、今までより厳かに少女を呼ぶ。はっとゼフィアーが顔を上げかけたところで、彼女の頭に手が置かれた。少年はいつの間にか彼女の方に体を向け、ほほ笑んで立っていた。

 穏やかにゼフィアーを見下ろした彼は、息を吸い、口を開く。

「いつ、気づいたんだ?」

 ゼフィアーは息をのんだ。いや、彼女だけではない。その場にいた誰もが言葉を失い、立ち尽くした。

 ディランの言葉は問いのかたちをとってはいたが、実質上の肯定だ。自分が水の竜であるということを、認めた証だ。

 手が、茶色の頭から離れる。同時に、ゼフィアーは弾かれたように顔を上げて。吐息のような、声を漏らしていた。

 どこまでも、穏やかな瞳。小さき者を見下ろす目は、ディランのものでありながら、彼のものではない。

 深い青。海を、あるいは藍玉を連想させるような、底のない青。そして、瞳の奥に湛えられた力と威は――まごうことなき、竜のものだ。

 藍玉と琥珀が。竜と、彼らに近しい民が。それぞれの目が、ぶつかりあって、交差して。そのとき少女は、覚悟を決めた。

「――結論に辿り着いたのは、たった今だ」

 なるべく「今まで通り」を装って、ゼフィアーは口火を切った。

「違和感はずいぶん前からあった。はじまりは、おぬしがファイネで倒れたときだ。前に話したと思うが、トランスから聞いた夢の話をもとに、カロクの槍がおぬしの魂を傷つけたのではと推測した。けどもそれだと、レビが元気であることの説明がつかない。それに、おぬしがどれだけ敏感であったとしても、さすがに魂は感じとれないだろう――と思うと、自分の推測に自信が持てなかったから、そのときは深く考えなかった」

 ディランは無言で続きをうながす。ゼフィアーは、何かに急き立てられるように、口を動かし続けた。

「けども、違和感はそれで終わりではなかった。今思えば、傷の治りがおそろしく早いのも変だし、前に聞いたイグニシオの反応も気になった。

 そして、もしかして、と考えはじめたのは、水幻洞すいげんどうで水竜の暴走を鎮めた後だ」

 ゼフィアーは一度目を閉じ、そのまましばらく何かを探すように動かずにいて、やがて目を開いた。

「あのとき――水竜の一頭が、私に話しかけてきただろう? そのとき彼は、こう言ったのだ。『僕たちのあるじ様を、もうしばらく頼むよ。肝心なときにとんでもない無茶をするお方だから、見守っていてほしい』と」

 そこで初めて、ディランの表情が動いた。驚きが、両目に走る。それを不思議な気分でながめながら、ゼフィアーは続けた。

「おかしいだろう。暴走する前、そしてしているときは、ディルネオをいないものとして捉えていたはずの竜が、突然そんなことを言い出したのだ。しかも『もうしばらく』と、まるで今までもずっと私たちのそばにいたかのように言う。とすれば、この一件で水竜たちに直接、あるいは彼らの力に触れた人が、実はディルネオなのではないか。私はようやく、そう考えはじめた。そしてやはり、可能性があるのはおぬしだった」

 彼女は言うと、その場で足踏みした。先ほど生えたばかりのみずみずしい草が、音を立てて揺れる。

「それからかな。ようやくつたえとしての私の感覚が、おぬしの力を捉えはじめた。半ば確信しながらもしばらく観察を続け――《大森林》に来て、それは確固たるものとなった。竜の守護を失い、枯れかけていたはずの森を再生させるなどという芸当は、守護者であるディルネオ以外にはなし得ないことだ。そうだろう」

 そこまで語りきったゼフィアーはようやく言葉を切り、まっすぐにディランを見上げた。瞳はもう、揺らがない。

「ディラン――ディルネオ。私の推測を言っても、いいか?」

「ああ」

 許しの言葉は短い。ゼフィアーもまた、首肯した。

「ディルネオは、竜狩りにあったのち、からくも生きのびた。そしておのが魂を守るため、人の姿に変化へんげして二十二年を過ごした。記憶を失った少年を装って」

 厳しい声が空気を打ちならす。

 ディランとゼフィアー、両者のやり取りを邪魔する者はいなかった。森の生物ですら、気を遣って息を潜めているかのようで。そんな中、ディランはふっと口もとをほころばせる。

「なかなかによい推理だ。伝の末裔よ」

 ゼフィアーと、そして背後にいたトランスが硬直する。口調が変わった。昔に戻った、というべきか。――まとう空気さえ変質させて。

 ディランは、ぼうっとしている彼らを見て小さく笑うと、そのままで言葉を続けた。

「ただ、いくつか訂正させていただこう。――記憶がなかったのは本当だ。そして今も、完全ではない。あくまで、『自分がディルネオだ』という自覚が、意識に定着したというだけの話だ。そして、人として過ごしたのは、あくまで『暁の傭兵団』に拾われてからの七年のみだ」

「……では、いつからなのだ? いつから、記憶が戻り、自覚が芽生えはじめた?」

 ゼフィアーが身を乗り出して問う。ディランは、小首をかしげてから、答えた。

「おまえが私の正体に気づいたのと、ほぼ同時期。つまり、水幻洞での騒ぎの後だ。あのとき、眷族たちの起こした濁流にのみこまれただろう。その中で私は、おそらく一度、ディルネオとしての意識を取り戻した。そして、眷族たちに呼びかけたのだよ。静まれ、と」

 そのものが青い水の中。みずからの内から響く、過去と今が重なる声を聞いたとき、すでに彼は、人ではなかった。竜としての自覚を用いた。――そうでなければ、水竜たちを止めることなど、できなかった。

「あのとき、突然暴走がおさまったのは、それでだったのね」

 マリエットの言葉に、ディランはうなずいた。

「それは、濁流から出たときに一度忘れてしまった。しかし、それから少しずつ、記憶が戻りはじめた。最初は、『ディラン』の中に『ディルネオ』の意識と記憶が不自然に居座っているような状態だった。正直、気分が悪かったよ。だが、どちらも元々同じ『私』だ。旅を続けるうちに、私は居座っているものを受け入れていった。

 それにともなって、竜としての力もわずかずつだが戻ってきている。そのせいで、レビをずいぶん怖がらせてしまったようだが」

 ディランの視線を受けたレビが、すくんだ。けれど、今度の彼は今までのように、いたずらにおびえを見せることはしなかった。ただ、少しの戸惑いと寂しさをにじませた目で、少年の姿をした竜を見返した。

「……そうか。ぼくが時々感じていたのは、竜の力、だったんですね」

 彼は力なく笑う。影は、迷いは残ったままで。けれど、ここ最近ではもっとも優しく自然な笑顔だった。

 ディランの中の、少年としての意識は、そのことに安堵を覚える。

 彼はいいようのない感慨に浸ってから、相好を崩した。

「それにしても、眷族たちは相変わらず世話焼きだな。……いや、今回は私が迷惑をかけたから、当然か」

 小さく呟く。それを聞いていた者たちの中で、一人の男が顔をこわばらせた。だが、思うところはあったもののなんと呼びかけていいのかわからないらしく、渋い顔をして口を動かしている。彼の様子に気づいたディランは、思わず吹き出した。

「――トランスの呼びやすい方でいい」

「お、おお、じゃあディランで」

「うん」

 名前で呼ばれると、自然と意識も切り替わる。ディランは笑いの余韻を残したままの表情で、腰にさげた剣の鞘を叩いた。

「それで、なんだ?」

 短い言葉で彼が続きをうながすと、トランスは頭をかいてから切り出した。

「おまえが竜としての自覚を持った経緯は、まあ、大体わかった。けど……どうして、竜狩りに遭ってから記憶をなくしたか、わかるか?」

 ためらうようなトランスの問いに対して、ディランは考えこむそぶりをする。それから、こともなげに言った。

「簡単だ。俺が自分でそうしたからだよ」

 え? と。四人の声が重なって響く。まあ、そういう反応をされるだろう、とディランは苦笑した。それからゆっくり言い直す。

「正しく言えば、記憶はなくしたんじゃない。封じたんだ、自分で。

 あのとき魂を守るには、その力も、自分が竜であることの自覚もすべて封じこむ必要があったんだ」


 思い出すのは雨の音。白い雷光。そして、むせかえるほどの血のにおい。

 ディルネオとして見た最後の風景は、やけに鮮烈で。そしてその中で芽生えた意思は、何よりも力強かった。

 自分が生きなければならないという、使命感。そして、死にたくないという生命としての願望。今となっては、はっきりと思い出せる。


「二十二年前、ね」

 黙って聞いていたマリエットが、一歩を踏みだす。森の中、槍の穂先が鈍く光り、全員の視線が彼女へと引き寄せられる。マリエットは、軽く髪を払いのけると、静かに問うた。

「あのとき、何が起きたのか。今のあなたはそれを知っている。そうでしょう?」

「ああ」

「なら、ぜひとも、それが知りたいわ」

 残る三人の顔がこわばった。特に、ゼフィアーとトランスは、マリエットに非難するような視線を向けている。けれども美女は動じない。「みんな気にしていることでしょう」とあっさり言って、またディランを強い目で見た。

 なぜか懐かしい、力強い視線に、ディランは肩をすくめて苦笑する。

「そうにらまなくても教えるさ。話さないといけない、とは思っていたんだ」

 彼は四人に背を向け、大樹を見上げる。

 長い時を生きた。その中のいくらかを、この森で過ごした。トランスではないが、この樹は彼にとっても、間違いなく懐かしいもので、最後に見たのは二十二年前。

 記憶は完全ではない。けれど、唯一はっきりと思い出せることがある。

 己が己を失うことになる、あの日のこと。そして、そこに至るまでの短い日々のこと。回想にともなうのは、悔しさと、悲しさと、絶望だ。けれど彼は動じない。屈しない。もう足を止めることはしない。嘆き悲しむ時は過ぎた。

 しばしの空白を経て、彼はまた主竜として世界に立つ。そしてそのために、もう一度向きあう。


 人を愛し、世界を愛し、竜を慈しみ――その果てで知った、絶望に。

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