第三章

12.北の水竜たち

 びょう、と風が吹く。北大陸特有の、氷より冷えきった鋭い風は、時折、怨霊の泣き声のごとく高く恐ろしい音を立て、緑にとぼしい大地を吹き抜けてゆく。その上にあるのは、薄い雲がかかった空。決して雲がなくなることのない空は、けれどこの日、かすかな青をのぞかせていた。薄絹のような雲に隔てられ、丸く小さな太陽がぼんやりと光っている。

『彼』は――そんなかすかな青空を、悠々と飛んでいた。青い翼で、ゆったりと空を打ち、体を水平に滑らせる。鳥よりも遅く飛ぶ、鳥よりも大きな生物は、ふと体と同じく巨大な頭を持ち上げた。爬虫類に似ていなくもない、けれどそれよりも愛嬌のある瞳が、眼下に広がる大地をなぞり、優しく細められた。

『うん。実によい天気だ。ゼノン山脈で一晩雨をしのいで正解だったな』

『彼』は、上機嫌に呟いた。整然とした響きをもって放たれる声。つまりそれは、言葉だった。竜と呼ばれる生き物たちだけが使う、特有の言語。『彼』はそれを、さえぎるもののない空にこぼしながら、散歩にも似た帰路を楽しんでいた。

 しかし、そのとき、ぬるい一陣の風が吹きつけた。穏やかな雰囲気をまとった瞳が、ふと細められる。青い鱗に覆われた巨体を持つ『彼』は、鋭利な空気をまとった。

『――嫌な風だ。さては、炎竜えんりゅうたちが暴れているな?』

 ひとりごちて、翼で強くくうを叩く。飛行速度を一気に上げた。風にも負けぬ速さで空を駆ける。同じ空を滑っていた白い鳥が、慌てて避けていたが、『彼』はそれに目もくれず飛んだ。

 やがて、鮮やかに色づいていた平地を抜ける。ぽつぽつと、人の集落が目についた。五つほどの村と街の上を通りすぎたのち、遠くに人が作った道と、赤色の群を見つける。『彼』は目を細めた。道のまわりの空気が不安定に揺らいでいるのが、鱗ごしでも感じられた。

『馬鹿なことを』

 毒づいて、また弾みをつけて空を飛ぶ。冷たい音が鳴った。わずかに喉を鳴らしたのち、赤色の群めがけて、一直線に突っ込んだ。


『何をしている!』


 腹の中から声を出し、一喝すると、赤色の群が乱れた。群が――道を忌々しげににらんでいた紅き竜たちが、焦りと恐れをにじませた目で、突然の闖入者を見る。

『なっ――ディルネオ様⁉』

 群の中の誰かが叫んだ。『彼』は、ディルネオは、炎竜の群のそばまで飛ぶやいなや、全身をかすかにふるわせる。巨体のうちから力があふれだし、空へ、空気へにじみだしていった。それは、空気中に過剰に放たれた熱の力を中和して、道のまわりの歪みをゆっくりならしてゆく。

 水を統べる力。水の竜なら必ず行使できるものだが、ディルネオが放ったそれは、ここにいる竜たちが束になっても敵わないほどの強さだった。しかも、周囲の環境を乱さぬよう、きちんと範囲を定めて振るわれている。巧妙に、そして自然に行われた力の放出に、炎竜たちが状況を忘れて息をのむほどであった。

 己の役目を果たしたディルネオは、あたりのゆがみがなくなったのを確認すると、ほうっとひとつ息を吐く。そののち、性格が変わったように『きっ』と顔を上げ、炎竜たちをにらみつけた。竜たちが、そろってびくりと震える。普段なら、己のあるじにしかおそれを抱かぬはずの、竜たちが。

『おまえたち、イグニシオの眷族だな』

『はっ……』

 竜のうちの誰かが、吐息とも返事ともつかぬ声を出す。

『主竜イグニシオは西大陸にいるぞ。だというのに、眷族おまえたちが遠く離れた北の地にいるのは、なにゆえか?』

『そ、それは……』

 竜たちはうろたえ、葉擦れの音のような声をこぼす。それでも、ディルネオがじっとにらんでいると、炎竜の群のうちの一頭が口火を切った。

『じ、実は……別の炎竜から、ある話を持ちかけられまして』

 彼のその一言を皮切りに、ほかの炎竜たちも、観念したように事情を話し出す。水竜は、黙ってそれを聞いていた。

 明かされた事情は、こういうものだった。別の主竜に従属している炎竜と、彼らは仲良くしていた。が、そのうちの何頭かがこの北大陸上空で竜狩りに遭ったという。からくも生き残った炎竜たちは、彼らにすがりついてきた。そして、怒り狂ったその炎竜たちに感化され、彼らは生き残りたちに協力するかたちで、力を振るおうとしたのである。

 すべてを聞き終えたディルネオは、翼を動かしながらため息をついた。

『――それがどういうことか、わかっているのか?私が止めなければ、おまえたちは一生、罪を背負うことになっていたのだぞ』

 炎竜たちが、言葉に詰まる。ディルネオは彼らを静かに見回すと、強く羽ばたいた。一瞬だけ、冷たい風があたりに吹き荒れる。

『ともかく。私からは、これ以上は何も言わぬ。あとは主に叱ってもらうゆえ。仮に、おまえたちがイグニシオにこのことを黙っていても、後日私の口からあいつに伝えるぞ。逃れられぬと思え』

 竜たちが、うめきにも似た返事をこぼす。そこでディルネオは、地上を一瞥した。竜の影に気づいたらしい通行人が、訝しげに足を止め、こちらを見上げている。いつでも飛び立てるよう翼の動きを調整しながら、彼はさらに続けた。

『それと、このあたりで行われたという竜狩りについては、私の方から知り合いの『つたえの一族』の者たちに報告しておく。すぐに大陸中で調査を行ってもらえるよう、取り計らう。私自身も動こう』

 ディルネオが静かに言うと、また竜たちがざわめいた。その様子を見て、ディルネオは穏やかに目を細くする。

『おまえたちばかりが気負う必要はない。私がなんのためにおまえたちの主のもとへ通い、情報交換をしていると思っているのだ』

『ディルネオ様……』

 群の端にいた竜が、感極まったように呟いた。そんな彼らをながめまわした水竜は、翼で宙を打ち、身をひるがえした。青い尾が、美しく半円を描いて舞う。

『さあ、おまえたちは急いでイグニシオのもとへ帰るのだ。――道中、気をつけてな』

『はっ……はい!』

 ディルネオは、こわばった竜たちの声を背に受けながら、その場を後にした。


 ディルネオがまた静かに飛んでいると、今度は前の方から、羽ばたきの音が聞こえてくる。ディルネオはわずかに鼻先を動かして、その場にとどまった。すると、彼が見つめる先に黒い点が現れる。点はみるみる大きくなり、青い竜の姿となった。ディルネオよりもかなり小柄な若竜わかりゅうだ。

『ディルネオ様!』

 若竜は、凛とした声で巨竜の名を呼ぶと、彼のもとへ一直線に飛んでくる。

『おかえりなさいませ! ご無事でしたか』

『ヴァレリオではないか。そんなに焦って、どうした?』

 ディルネオはきょとんとして、若竜ヴァレリオに訊いた。彼は、一年前にディルネオへの従属を誓ったばかりの竜である。主に問われたヴァレリオは、なぜか憤慨した様子で翼を打った。

『何をのんきな。あなたの御力おちからが動くのを感じて、慌てて駆けつけたのですよ。何かあったのかと……』

 まったくもう、と言うヴァレリオの前で、ディルネオは喉を細長く鳴らす。

『私の力? ――ああ、さっきのあれか』

 少し考え、今しがたの出来事を思い出したディルネオは、一度大きく喉を鳴らす。人間でいえば首肯するか、膝を叩いていたところだろう。納得した様子の主竜の隣を並んで飛びながら、ヴァレリオが改めて問いかける。

『それで、結局何事だったのですか?』

『案ずるな。炎竜たちが騒ぎすぎていたから、静めてやっただけだ』

 軽い笑い声を立てながら、ディルネオは答えた。つとめて明るく振る舞ったつもりである。しかし、ヴァレリオは言葉の裏に潜む意味を悟ってしまったらしく、宝石のような両目を曇らせた。

『……また、でございますか』

 声には、怒りと悲しみとむなしさが、少しずつにじんでいた。消沈した様子の眷族を見て、ディルネオも少し、神妙な面持ちになる。

『ああ。さすがのイグニシオも、だんだん手に負えなくなってきているようだ』

『イグニシオ様の眷族たちだったのですか⁉』

 驚きの声をあげるヴァレリオの方を向き、ディルネオは一度喉を鳴らした。

『七百年間で蓄積された不満と憎悪は、そうとう根深いようだ』

『しかし、あなたはその不満と憎悪を超克なさったではありませんか』

『私は変わり者だからな』

 ディルネオはおどけて言う。しかし、若き眷族のまなざしは真剣なままだ。それに、少しばかりひるんで、彼は言いなおす。

『私はな。縁に恵まれていたのだよ。ほかの竜との違いは、それだけだ』

 深海を思わせる色の瞳が、ふっと、遠くを見るように凪ぐ。千を超える時を生きたと噂される主のそんな目に、ヴァレリオは胸を突かれたような思いでいた。昔を懐かしんでいたディルネオに、そっと声をかける。

『ディルネオ様?』

『さあ、《森》に戻ろう。この件を伝の人々に教えなくてはならぬ。また、彼らに世話をかけてしまうな』

 が、ディルネオは、ごまかすように明るい声で話題を転換した。今はその話をしているときではない、と判断したのである。また、ヴァレリオも「その時が来たら話してくださるだろう」という気持ちで翼を動かした。

『私たちが、人と竜の和睦のため、頑張らねばなりませんね』

『張り切るのはいいが、もう少し力を抜け。おまえは真面目すぎるぞ。私への“誓い”も大層なものだったし』

『これが素ですので。それに、真面目といってもあなたほどではありません』

『……私の方こそ、真面目なつもりはない』

『よその竜の事情にいちいち首を突っ込んで、最後まで面倒を見てしまう竜を、真面目と言わずしてなんと言いますか』

 他愛もないやり取りをしながら、二頭の竜は北の《大森林》を目指し、空をゆく。

 ――互いを切り裂く残酷な運命の影など、このときの二頭はまったく感じていなかった。

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