4.追跡者の寧日

 だるく、重くなってゆく足を、気力だけで動かす。正直立ち止まりたかったが、止まっていたら止まっていたで凍えてしまうだろう、と彼女の勘が告げていた。

 やがて、道とすら呼べない野の先に、小さな湖と、湖畔に佇む村が見える。湖はすでに凍ってしまっているのではないか、そんなふうに考えて、チトセは眉をひそめた。


 北大陸の閑散とした港に降り立ったのが、およそ三日前。そこからずっと歩き通しだった彼女は、疲れ切っていた。けれど、不思議と頭だけはさえわたっている。いつも通り仏頂面の少女は、もう一か月近く前の出来事を思い出していた。



     ※



 それは、彼女がイスズや旅人たちと水竜の暴走を食い止め、移転したばかりの臨時の拠点に戻って、すぐのことだった。

 考えごとをしながら廊下を歩いていると、ぞんざいに呼びとめられる。顔を上げれば、すぐ前に、羽のついた帽子をかぶった男がいた。

「オボロさん」

 チトセは驚き、そしてやや身構えながら、男の名を呼んだ。

 カロクの副官ともいえる男。作戦立案は、もっぱら彼の仕事だ。カロクの幼馴染らしいのだが、チトセは詳しいことを知らなかった。ただ、時々カロクよりも怖い目をする人だ、という印象がある。一言でいえば苦手な相手。

 オボロは、チトセの反応を気にとめた様子もなく、帽子をつまんで下げる。それから、いきなり言い放った。

「任務だ。チトセ」

 チトセは目をみはった。

「任務? 今、ですか?」

「そうだ。カロクと俺からの、任務だ」

 首領の名を出されたことで、自然と少女の背筋も伸びる。彼女の面構えがお気に召したのだろう、オボロはにやりと笑う。

 その上で、いつも通り淡々と、告げるべきことを告げた。


「おまえが今回行動を共にした旅人たち。奴らを、追え」



     ※



 詳細も、理由も告げられず。ただ任務のみを言い渡された彼女は、もやもやした気分のまま行動に出た。必死に情報をかき集め、彼らが北大陸の方へ向かったと知るやいなや、北大陸行きの船便に飛び乗った。途中、嵐にもまれて死ぬかと思ったが、なんとか生きてここまで来た。

 チトセはため息とともに、丸太でできた村の門をくぐる。目深にかぶっていた頭巾を払い、蒸れた空気を追いだした。

「おや、外の人か。こんな時期に、こんなたくさんのお客さんが来るなんて、珍しい」

 正面から、大きな女性の声がする。あまりに突然で、チトセは思わずびくついた。おそるおそる顔を上げると、主婦だろうか、恰幅のいい女性が、チトセを見て目を見開いていた。彼女が自分を見たと気づくやいなや、女性は大股で歩いてくる。

「すっごく汚れてるね。ゆっくりしていきな!」

 女性はそう言って、ふくよかな手でチトセの頭をばしばし叩いた。無遠慮な対応にチトセは眉をひそめるが――そろそろやめてくれ、と言おうとして顔を上げる。そして、ぎょっとした。

 彼女の目が、印象に残る色だったからだ。

 琥珀色とも金色ともつかない、鮮やかな虹彩こうさい。それは、前に会ったひとりの少女を彷彿とさせ、彼女の警戒心をかき起こした。

「『つたえの一族』、の末裔?」

 言葉にしてから、しまったと口を押さえる。うかがうように女性を見てみれば、彼女はひどく驚いた顔で固まっていた。

 チトセは思わず回れ右をしようとしたが、続く声が細い足を縫い止める。

「いやあ! まさか、私たちを知っている人が来てくれるとはねえ! 嬉しいもんだ!」

「え?」

「とりあえず休みなよ! 食いもんも寝どこも、あんまり上等じゃないけどな!」

 チトセがおろおろしているうちに、閑散としていた村に人影が増えてくる。どうも、女性の大声を聞きつけたらしい。

 結局、竜狩人の少女は、竜との対話が許されていた一族の集落で、一晩を過ごすことになった。


 煉瓦でできた暖炉の奥では、真っ赤な炎が揺れている。

 壁をくりぬいて作られた、小さな窓のむこうには、暗い夜空が広がっていた。チトセはなんとも言えない気分で、肩からかけられた分厚い布を抱くように寄せる。そこへ、女性が木の椀を運んできた。見たことのない野草の入ったスープが、ほかほかと湯気を立てている。

「どうぞ」

 荒っぽくも優しい声にうながされ、チトセは木の椀を手に取る。ぬくもりと、独特の匂いとほのかな塩気が、全身にしみわたった。

「……おいしい、です」

「本当か? お口に合うか心配だったけど、それならよかった」

 女性は、高らかに笑った。

 チトセは目を伏せる。――故郷の村で老婆と語りあった日のことが、つかの間、思い出された。


 村の人にもみくちゃにされたすえ、チトセは、最初に会った女性の家に泊まることになった。彼女の家は――というより、この集落の家すべてが――丸太を組んだだけの小さなものだ。女性によれば、そういった村は、特に『伝の一族』の村落には珍しくないらしい。

 チトセを家に招き入れた女性は、村で作っているもののこと、住民のことなどを楽しげに語ってくれた。そしてその合間に教えてくれたのが、『伝の一族』の末裔として、世間から隠れて暮らす、穏やかで少しさびしい日々のこと。

「竜信仰が盛んだった頃は、あたしらの先祖も、大陸じゅうを駆け回って大忙しだっただろうけどね。今となっちゃ、竜様のほとんどは人里離れた場所にお隠れになってしまった。あたしらも、伝のことを部外者に知られぬよう、そして一族の子に語り継ぐために、細々と生きているだけさ」

 色とりどりの星が散らばる夜空を仰ぎ、女性は実感のこもった声で、そう語った。チトセの見つめる先で、その目がふと、楽しげに緩む。

「だからね。少し前に、旅の一行にまぎれて同胞の娘が来てくれたときは、嬉しかったよ。久々に、村の全員で焚火を囲んで、宴会したさ」

「同胞の……娘?」

 チトセは、冷水を浴びせられたときのようにすくんだ。脳裏に、ふわりと舞う二つの茶色い三つ編みがよぎる。彼女は思わず、身を乗り出していた。

「そ、それって! ちっちゃくて、茶色い三つ編みで、スカーフ巻いた女の子⁉」

 勢いよくチトセが訊くと、女性は「おやまあ」と明るい声を上げた。

「ひょっとして、お知り合いか? そうそう。その子だよ。ほかにも、外の大陸から来たっぽい四人と一緒だったねえ」

 チトセは、叫びだしたい衝動に駆られた。頭の中に激情が突き上げ、興奮が満ちる。けれど表情には出さず、あくまでもいつもの仏頂面で答えた。

「そいつら、どこに行くとか、言ってました?」

 慎重に問うと、女性は首をかしげる。

 幸い、疑われている様子はない。知己ちきを追いかけていると思われているようだ。

 暖炉のむこうで火が爆ぜる。乾いた音が、やけに大きく響き、チトセの心をかき乱した。ややあって、女性がぽんっと手を打つ。

「はっきりしたことは言えないが、確か……《大森林》へ向かうと言っていたね」

「《大森林》」

「大陸の北にある、でっかい森さ! 水竜様が守護しているとされていてねえ」

 女性はその一言を皮切りに、生き生きと《大森林》について語りだす。けれどチトセは、濁流のような語りをほとんど聞いていなかった。一度だけ出てきた、覚えのある竜の名前に、かすかに眉を上げた程度である。

《大森林》。それが、奴らの目的地。

 今どこにいるかはわからなくても、先回りしてそこへ行くことができれば、奴らと接触することができる。

 チトセは、小さく拳を固めた。

「あの、すみません。地図ってありますか?」


 簡易な地図をもらったチトセは、翌朝、逃げるように村を出た。

 彼女を温かく見送る不思議な色の目が、嫌でも胸に焼き付く。チトセは良心の呵責かしゃくを跳ね除けるかのように首を振り、最寄りの街を目指して歩を進める。

 裏でからみあう意図も、待ち受けるものも知らず。少女は、混沌の中へ足を踏み入れようとしていた。

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