第一章

1.北の大地に立つ

 覚えているのは、風の音。叩きつける水の粒。そして、閃光と、轟音。

 竜の力をもってしても防ぎきることのできなかった、自然の猛威。異様としか呼べない気候の空域。

 そのただ中で、ふっつりと意識を途切れさせてから、どれほどの時間が経ったのか。


 目を開けると、視界いっぱいに白い物が見えた。呆然としていると、巨大な緑の目がのぞきこんでくる。静かな威をまとった目に見つめられて――ディランは、体の重さも忘れて飛びすさった。

「うわぁっ⁉」

 遅れて、裏返った声が出る。手に固くて冷たい岩の感触が伝わったが、気にしている余裕はなかった。慌てて緑の目から距離を取り、そうっと目の前に佇むモノを見上げる。

『目が覚めたようですね』

 ふいにあたりに響いたのは、竜たちの言語、竜語ドラーゼだ。落ち着いた声を聞き、冷静に相手を見て、ディランはようやく目前の生き物が竜だということに気がついた。しかし、体を覆っているのは鱗ではなく、羽毛のような白い毛。風をつかさどる竜の特徴だ。

「…………ルルリエ、じゃ、ない?」

 自分がよく知っている風竜ふうりゅうの名を呼んですぐ、ディランはかぶりを振った。悠然と佇む竜は、ルルリエによく似ているが、彼女の倍以上の大きさがある。

 彼か彼女かわからない、とにかくその竜は、ディランの反応を楽しむかのように目を細めた。

 そのとき、ディランの少し後ろから羽音が聞こえる。

『私はこっちよ』

「ルルリエ!」

 振り返ったディランは、見慣れた姿に安堵した。白の小竜はじっとり濡れているが、ひとまず無事のようである。

 ふと、そう考えて、彼はようやくこれまでのことを思い出した。ルルリエから恐ろしい空域の話を聞き、その対策を立てながら北大陸へ向かって飛行していた。結局、ろくな対策が浮かばないまま件の空域に突っ込んでしまったのだ。最後に大きな雷鳴を聞いた、それから先の記憶がない。

「みんなは?」

 ディランは慌ててあたりを見回した。彼の隣まで飛んできたルルリエが、悠々と翼を動かす。

『全員、生きてるわよ。小さい二人がまだ気絶してるけど』

「そ、そうか……」

 息を吐いたディランは、ゆっくり顔を上げ、周囲を観察した。

「どこだ、ここ。洞窟?」

 まわりに広がるのは、白っぽい岩でできた空洞だった。かなり広いようで、岩壁が複雑にうねりながら薄い闇の中に続いているのがわかる。ディランとルルリエと、謎の巨竜がいる岩場も、同じ白い岩でできている。今までに見たことのない場所だった。

 ディランが苦い顔で首をひねっていると、正面から声が聞こえてくる。

「ここは、あなたたちが北大陸と呼んでいる大地にある、山のふもとの洞窟です」

 先ほど、竜語をこぼしたのと同じ声。ディランがはっと振り返ると、白い巨竜が優しい視線を注いでいた。驚きと戸惑いを抱きながら、彼は結局、まっさきに浮かんだ疑問を口にする。

「そうなんですか。それであの、あなたは、いったい……?」

「これは失礼。申し遅れました」

 流暢に言った竜は、翼で宙をなぞる。そして、首をディランの方へ伸ばした。

「私は、風の主竜しゅりゅうが一角。名を、シルフィエと申します」

 ――シルフィエ。

 ずっと探してきた竜の名を聞くと、頭の中で何かがかみ合ったような気がした。

「じゃあ、あなたがルルリエのあるじ

「ええ」

 彼女は眷族ルルリエを見た後、ふたたび少年と向かいあい――ゆっくりとこうべを垂れた。


「このたびは、我が眷族がたいへんお世話になったようですね。感謝します」


 厳かな沈黙が、いっとき場を支配する。

 そしてそれを破ったのは、薄い闇の先から聞こえてきた声だった。

「お、ディラン。目ぇ覚めたか」

「元気そうね。安心したわ」

 奥まった岩の道のむこうから、二人の人が歩いてくる。トランスとマリエットだ。二人とも服や髪はあちこち乱れているが、顔色はいい。

 同行者の姿に、ディランはほっと胸をなでおろす。

「二人とも。どこにいるのかと思った」

「ちょっとな。シルフィエに許可をもらって、あたりをうろつかせてもらった」

「今はここが風竜たちの棲みかなのね」

 疲れたとぼやいて伸びをするトランスの横で、マリエットが楽しげに笑う。ディランは無意識のうちに、風の主竜をまじまじと見た。

「棲みかというより、一時的な拠点ですよ。我々は、イグニシオのように家を持たないのです」

 穏やかな解説に、ディランはへえっと相槌を打つ。

 ちょうどその後、ルルリエのさらに後ろあたりから、小さなうめき声が聞こえた。岩の壁際に、毛布をかけられ寝かされている少女と少年。彼らは、うなりながら目を開けると、もぞもぞと身じろぎする。

「ゼフィーとレビはあそこにいたのか……気づかなかった……」

 どこだこことか、そんな発言をしながらきょろきょろする子どもたちの姿に、ディランは苦笑した。


 全員が目覚めたところで、一行はようやく、シルフィエとルルリエの口からこれまでのことを聞く。

 ルルリエは、続々と倒れていく人間たちを背に、どうにか空域を脱したらしい。だが、その頃には彼女も疲れ果てており、北大陸中部にふらふら墜落してしまった。ひと気のない荒野に墜ちた彼女のもとへ駆けつけたのが、シルフィエと眷族たちだったという。

「じゃあ、シルフィエが助けてくれたのだな。ありがとう」

 ゼフィアーが、恐縮しきった様子で頭を下げると、シルフィエは短く二回喉を鳴らした。

「礼を言うのはこちらの方です。ルルリエを助けていただいて、ありがとうございました」

 主の言葉に、ルルリエが気まずそうにうなる。隣にいたディランはなんとなく、彼女の足をぽんぽん叩いた。

 そのとき、シルフィエの目があらぬ方向を見る。

「それに、みなさんをここに運んだのは確かに私たちですが、ルルリエを一番に見つけて知らせてくれたのは、別の竜です」

「別の竜?」

 全員が訊き返した。

 直後、まるで図ったかのように――闇の中に唐突に灯った、蛍火のような光球が、ディランに向かって突進してきた。

「うあっ⁉」

『やあ! レッタ以来だね、ディラン』

 本日二度目の、裏返った叫び声を上げたディランは、ひっくり返りそうになるのを辛うじてこらえた。しゃんしゃんと体を鳴らす光の球。不思議生物ことクレティオだ。シルフィエは、光に視線を注いで『知り合いですか』などと竜語で問いかけている。クレティオは彼女の問いに『まあねー』と答えた。暗い洞窟の中にあっても、陽気だ。

 ディランは、唖然とした。

「え? べ、別の竜って、ちょ、まさか」

『あ、うん。ちょっと離れる』

 言うなりクレティオは本当に人々から離れ、シルフィエの頭上あたりの高さまで昇った。

『天井にくっつかないでくださいね。そんなところで変化を解かれたら、洞窟が崩壊しますから』

『もう、わかってるさ』

 呆れたようなシルフィエの言葉に、クレティオは拗ねた子どものように答える。彼は、光の球のような己の体を小刻みに震わせた。直後、全身からまばゆい金色こんじきの光が放たれる。

 人間たちは思わず目をつぶる。レビの悲鳴があたりにこだました。光がおさまり、あたりに静かな闇が戻る。同時に、妙な威圧感が場を満たしていた。ゼノン山脈のときと同じだ。

 予感を抱いて目を開いたディランは、「うわあっ⁉」と叫びながら倒れかかってきたレビを、とっさに支えた。

「ディラン、あ、あれ……!」

「うん。わかってる。見えてるし、予想してた」

「れっ、冷静ですね!」

「今回は相手が相手だしな」

 緊張感のない二人の頭上に、羽ばたきの音が降る。翼を打って、ゆっくりとみんなの中心に降り立ったのは、金色の鱗に覆われ、大きな翼を厳かに畳む巨竜だった。

「久しぶりの人も、初めての人も、改めて。光竜こうりゅうクレティオだよ。こう見えて、主様なんて呼ばれてる」

 金色の竜は、かつてディランが二度聞いたのとまったく同じ声で名乗った。

 男たちはしばらく言葉を失っていた。一方、少女と女性は平然としてうなずいている。

「よろしくね、クレティオ」

「それと、ありがとう!」

 くすくすと笑いながら言うマリエットと、律儀に頭を下げるゼフィアーに、クレティオは喉を鳴らしてみせる。

 そんな頃になって、ディランはようやく口を開いた。

「まったく。竜ならそうと言え、この不思議生物」

『いやあ。君がどこまで知ってるのか、わからなかったから』

 弾んだ声で言ったクレティオが翼を震わせると、その先からりんぷんのような光の粒が舞って、消える。レビが吐息を漏らしてその光景に見とれる中、ゼフィアーがディランの脇腹をつついた。

「つまり、ディランがアルセンの森林で見たのは、光竜の群だったのだ。彼らは蛍火みたいに変化して移動することが多いと聞くからな」

「ゼフィーおまえ、やっぱり知ってたんだな!」

「うむ。直接おぬしについてはいかなかったが、予想はしていた」

「なんで黙ってたんだよ」

「いや、驚いてくれたらおもしろいなあと……いひゃい」

 さらりと言うゼフィアーの頬を、ディランは容赦なく引っ張った。ゼフィアーは目に涙を浮かべているわりに、嫌そうな表情ではない。

 二人のやり取りを遠巻きに見ていたトランスとレビが、顔を見合わせた。

「そんなことがあったんですねえ」

「ったく。あいつ、いつも俺たちの見えねえところで知り合いつくりやがって」

 呆れかえったようなトランスの呟きに、竜たちとマリエットが笑った。



     ※



 騒ぎが一段落したところで、一行は大まかな事情を竜たちに説明した。ディランの記憶がない、というのを聞いたクレティオがわずかに鼻先を動かしたが、それに気づく者はいなかった。

『なるほど。失われた人の記憶と、つたえの儀式の方法を探しているのですね』

 風の主竜が、ぽつりと呟く。ゼフィアーが彼女のすぐそばに行って、身を乗り出した。

「シルフィエたちは、《魂還しの儀式》について、何か知らないのか?」

 主竜たちが顔を見合わせる。どちらも、喉を二回鳴らした。後ろで聞いていたディランは、彼らが示した否定の仕草に落胆して、ひそかに肩を落とす。

「多分、その……一族の力を使わない儀式っていうのは、今まで行われたことがなかったんじゃないかな」

 クレティオの言葉に、ゼフィアーが目を瞬く。横からマリエットが、「どういうこと?」と問いかけた。竜は、鱗と同じ色の金色の瞳を洞窟の天井に向ける。

「方法は編み出されたけれど、誰もそれを実際にやらなかった。あるいは、できなかったんだと思う。

 多分、相当複雑な陣を用意しなきゃいけなかったり、すごくたくさんの力が必要になったりしたんだろう。不可能だったから、誰もやらないまま、方法だけが書庫に埋もれてしまった。だから僕たち竜にも伝わっていない……そういうことなんだと思う」

「そう、か」

 淀みないクレティオの推察を聞き、ゼフィアーが肩を落とす。うなだれる少女を、白い巨竜が見下ろした。

「しかし、ディルネオが知っていたということは、《大森林》のそばの村に行けば何かわかるかもしれません」

 優しい声に、ゼフィアーのみならず、ディランたちも引きつけられる。

「彼がもっとも頻繁に顔を出していたのは、あの伝の村です。彼が儀式の特別な方法とやらを知ったというのなら、あの村になら何か資料が保管されている可能性はあるでしょう」

「《大森林》のそば、か」

 トランスが顎をなでながら呟く。そしてほかの四人も、視線を交わしあう。

 彼らの心は、無言のうちに決まっていた。

 できることからやっていくしかない。今までもそうやって、ここまでなんとか歩いてきたのだ。

 彼らの胸中を察したのか、ルルリエが複雑そうな表情で翼を打つ。

「《大森林》、行ってみるか?」

 ディランが確認のように言うと、静かな首肯が返ってくる。次の目的地は決まった、と膝を打った。

 水竜が守護していた、そして今は守護を失った森。まだ見ぬその地に、少年はつかの間、思いを馳せた。

「ところで――ここは、北大陸のどのへんなんですか?」

 話がついたと同時、自分の棒を確かめていたレビが、そっと切り出した。対して、シルフィエたちは首をかしげる。

「人間たちに、どう説明していいものか……」

「確か、クゼスっていう国じゃなかったっけ?」

 戸惑っている様子のシルフィエと、あっけらかんと言うクレティオ。その言葉に、トランスが反応した。

「クゼスっつーと、《大森林》に一番近い国だな。ちょうどいい」

「よかったわね。変に遠いところじゃなくて」

 にやりと笑った男に、美女が茶化すようにそう言った。

 クレティオが愉快そうに翼を震わせる。

「確か、すぐそばに『つたえの一族』の集落があったはずだよ。そこの人たちにいろいろ聞くといい」

 ――その後、しばらく話しあい、今日は洞窟で休んで明日出発することに決まった。


 翌朝。一行は、シルフィエの案内のもと、洞窟の外に出た。

 空は暗く、空気は刃のように冷たい。黙って立っていると、凍えてしまいそうだった。ふと横を見ると、黒々とした山並みが目に映る。見ているだけで背筋が伸びるような荘厳さをまとった、不思議な山だった。

「みんな、世話になったな。ありがとう」

 ディランが振り返り、お礼を言うと、シルフィエもクレティオも微笑するように目を細めた。一方、ルルリエは、なぜか縮こまっている。

「ルルリエとはここでお別れなんですね」

 レビが、ぼそりと呟いた。ルルリエは翼を細かく震わせた後、そっぽを向く。

『辛気臭い顔しなくてもいいじゃない。今生の別れってわけじゃないでしょうし』

『そういうルルリエが、一番寂しそうだけどね』

 クレティオが茶々を入れる。金色の頭を、シルフィエが無言でぴしゃりと叩いた。

 恥ずかしそうに沈黙する小竜に、苦笑したディランが歩み寄る。時々やっていたように、ふわふわの毛をなでた。

「また会いにくるよ。ゼフィーが気配を覚えてるだろうから、その気になればいつでも追える」

『……うん』

 まだ落ち込んでいるようだったが、いつまでもそばにいるわけにはいかない。肩をすくめて下がったディランを、トランスの手がどやしつけた。

「そんじゃ、行こうぜ」

 彼の号令に、残る四人がうなずく。最後にもう一度お礼を言うと、彼らは竜たちに背を向けて歩き出した。


『みんな!』


 背中に声が叩きつけられる。ディランたちが振り向くと、いつの間にか、ルルリエが主竜たちの前に出ていた。

 五人の視線を受けた風の小竜は、高らかに吼える。そして、あぎとを開いた。

「またね」

 つたない言葉。

 けれど、こめられた思いを知るには、十分だ。

 知らず知らずほほ笑んだ五人は、思いをこめて、力いっぱい手を振った。


 旅とは出会いであり、別れでもある。そして出会いと別れは繰り返す。

 互いの命がある限り、一度の出会いでもたらされた縁は、きっと続いていくだろう。

 だから、ルルリエにもまた会える。そう、ディランは信じていた。


「またな」


 再会の約束をこめた言葉を残し、ディランは白い岩場に背を向ける。

 視線の先には、寒風に吹きさらされる大地が見えていた。

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