第三部 見えざる翼

序章

0.裏側

 建てつけの悪い――どころか、すぐにでも蝶番ちょうつがいが壊れそうな扉を開けると、嫌な音を立てて軋んだ。同時に、茫洋とした灯の色と明りが目に飛び込んでくる。店内にぽつぽつとしつらえられている燭台の上で、蝋燭ろうそくの炎が細々と燃えているのだ。そんなささやかな明りすらも、真っ暗な夜の道を歩いてきた者にとっては、ひどくまぶしく感じられた。ジエッタは、一瞬目を細めてから、小汚い酒場に足を踏み入れる。

『荒くれ者の町』で夜に明りが灯る場所といえば、『暁の傭兵団』の本拠地か、酒場くらいのものだ。自然と、夜の住人は酒場に集う。小さな建物は、むさくるしい男たちで埋めつくされて、酒と汗のにおいに満ちていた。唯一の女性であるジエッタは、しかし、響いてくる粗野な笑い声に眉ひとつ動かさず、店を奥へ奥へと進んでいく。最奥に誰も座っていない席を見つけると、そこにどっかり腰かけて、大声で酒を注文した。ジエッタの存在に気づいた荒くれ者たちが動きを止めたが、当人がうるさげに手を振ると、徐々にそれまでどおりの喧騒が戻ってくる。

 頼んだ酒はすぐに運ばれてきた。ジエッタは、店員の若者に礼を言うと、杯に口をつける。

 ジエッタが黙って飲んでいるうち、店の真ん中あたりで妙な音がした。人が人を殴った音だ。続けて上がる、笑い声。

 いつものことだ。怒鳴りこんで止めるほどではない。判断した傭兵は、席を立たない。

 杯をテーブルに置く。乾いた音が、かすかに鳴る。そのとき、ジエッタの耳がやけに静かな足音を捉えた。


「やってくれたな、『烈火』のジエッタ」


 背後から、低い声が響く。ジエッタは振り返らない。半分ほどに減った酒をながめた後、椅子の背にもたれる。

「なんのことかね?」

 明るく返す。背後の息遣いは変わらない。相手の感情は動いていない。――いつものことだ。

「とぼけても無駄だ。連中を傭兵たちに止めさせたのは、貴様だろう」

 鋭い視線を感じる。ジエッタは、出かかった舌打ちを押し殺し、代わりに杯を持ち上げた。その角で、テーブルをこつんと叩く。

「あたしが首謀者みたいに言わないでもらえるかね。あいつらが自分からやるって言いだしたんだ。ちょうど、山脈を越える隊商の護衛が終わった後だったんでな」

「だが、部下に俺たちと竜狩人りゅうかりうどのことを探るよう命じたのだろう」

「だったらどうした」

「――なんのつもりだ?」

 喧騒を隠れみのにして行われたやり取りは、ひとつの問いでぴたりと止まる。乾杯の音が響く。

 わずかな空隙くうげきの後、ジエッタはため息をついた。とうとう振り返る。男の無表情が見えた。

「それを聞いてどうするんだい、カロク」

 いつもなら、こんなところにいるはずのない男は、腕を組んで壁にもたれかかる。横目で、ぎろりと、ジエッタをねめつけた。

「邪魔をするなら相手が貴様らとて、容赦はしないぞ」

「そんなことを、わざわざ言いに来たのか?」

 つまらないねえ、と吐き捨てる。ジエッタは口角を上げ、カロクをにらみかえした。だが、彼はまったく動じない。淡々と言い募る。

「……貴様らは、一般人と同程度の知識しかないと思っていたのだがな。いつの間に、竜のことと俺たちの正体を嗅ぎつけた?」

「なるほど。それを訊きにきたか」

「質問に答えろ」

 冷たい声が降りかかる。それでもジエッタは、笑みを崩さない。

「答えなくてもわかるだろう。あたしと手合わせしたことのある、あんたなら」

 挑発するように言うと、鋭い舌打ちが聞こえた。カロクにしては珍しいことだと、ジエッタは目をみはる。

「『烈火』は弟子をとらないと聞いていたがな」

「ああそうさ。だから、あいつが最初で最後の弟子だろうよ」

 ジエッタは投げやりに言って、男から目を逸らした。鼻を鳴らす音がする。

「残念だったねえ? これで、同じ竜を二度逃した、ってことになるわけだ。ついでに、鬱陶しい小僧どもも」

 忌々しげな態度をとるカロクへ、笑い含みの声をぶつけてやった。

 男の返事は淡々としていた。

「『小僧ども』の方は、すでに手を打ってある」

「ほう?」

 眉を上げたジエッタは、それから杯をあおった。残った酒を一気に飲み干し、すっかり軽くなった酒杯をテーブルに叩きつける。さっさと席を立ち、歩きだした。今も背後で沈黙しているであろうカロクに向け、ぞんざいに手を振る。

「上手くいくといいねえ」

 あからさまな大声で言い残したジエッタは、返事を待たずに酒場を出た。

 冷たい夜気を全身に浴び、後ろ手で扉を閉める。蝶番の軋む音を聞き、ふん、と鼻を鳴らした。

「相変わらず無愛想で不気味だね。

 ――あんな奴らの手にかかって、勝手に死ぬなよ、馬鹿弟子」

 呟きが夜に溶ける。

 白い息を吐きだしたジエッタは、目を細めて、酒場の屋根を仰ぎ見た。

「そんなところで何やってるんだい。戻ってきたんなら、『家』に帰るよ」

 よくとおる声が屋根にぶつかり、跳ね返る。すると、直後に旅装束の痩身そうしんの男がのぞきこんできた。彼は頭巾を取り払って、屋根から飛び降りる。

 ジエッタの前に着地してみせた後、大仰に顔をしかめた。

「冷めてんなあ、首領ボス。労いの言葉くらいくださいよ」

「はいはい、ご苦労さん。戻るぞ」

「なんで俺にはそんな態度なんすか? ねえ、首領ボスー」

「夜道でそんな大声を出すな」

 叫びながら追いかけてくるノーグを適当にあしらって、ジエッタは『家』の方角に足を向けた。


『家』に戻ると、薄い闇の中、テーブルの端にぽつんと灯る橙色の火が見えた。そして、火に寄り添うようにして座っている男女が、資料を広げて難しい顔をしていた。

「サイモン、セシリア。まだ起きてたのかい」

 ずかずかと明かりの方に歩み寄りながらジエッタが声をかけると、二人は顔をほころばせた。傭兵団の人間もさすがに寝静まっている時分なのだが、この二人は、ずっと起きて調べ物をしていたらしい。

「首尾は?」

 疲れた顔のノーグを一瞥し、ジエッタは端的に問う。サイモンが、お手上げとばかりに両手を挙げてかぶりを振った。

「ディランと関わりがあった奴は、まだ見つかってねえ。竜のこともあれこれ調べてるが、どの程度あいつの記憶に繋がってるのか、わかんねえな」

「最近で、もっとも竜狩りが盛んだったのは、三十年前から二十二年前にかけて、みたいですけど……ディラン、生まれてないですよね」

 ジエッタは、曖昧にうなずいた。

 あの少年は記憶がない。よって本当の年齢はわからない。見た目からは、十五歳から十八歳だろうと推測できるし、七年前も相応の子どもらしい体格と顔立ちだった。だからきっとそのくらいだろう、と思ってはいるのだが。

「ただ――」

 ジエッタが顔をしかめていたところで、深刻そうな声がしたので、彼女は目を見開いた。

 憂いを湛えた若い女の顔が、火と闇に縁どられて浮かび上がる。

「サイモンといろいろ調べているうちに、不思議に思ったことがあるんです」

「なんだい?」

 ジエッタはうながした。セシリアがうなずく。

「どうして、これほど竜が死んでいるのに、世界は崩壊しなかったんでしょうか」

 心優しき女の問いが、闇へ溶ける。

 蝋燭の火が、ヂヂッ、と鳴った。

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