第三部 見えざる翼
序章
0.裏側
建てつけの悪い――どころか、すぐにでも
『荒くれ者の町』で夜に明りが灯る場所といえば、『暁の傭兵団』の本拠地か、酒場くらいのものだ。自然と、夜の住人は酒場に集う。小さな建物は、むさくるしい男たちで埋めつくされて、酒と汗のにおいに満ちていた。唯一の女性であるジエッタは、しかし、響いてくる粗野な笑い声に眉ひとつ動かさず、店を奥へ奥へと進んでいく。最奥に誰も座っていない席を見つけると、そこにどっかり腰かけて、大声で酒を注文した。ジエッタの存在に気づいた荒くれ者たちが動きを止めたが、当人がうるさげに手を振ると、徐々にそれまでどおりの喧騒が戻ってくる。
頼んだ酒はすぐに運ばれてきた。ジエッタは、店員の若者に礼を言うと、杯に口をつける。
ジエッタが黙って飲んでいるうち、店の真ん中あたりで妙な音がした。人が人を殴った音だ。続けて上がる、笑い声。
いつものことだ。怒鳴りこんで止めるほどではない。判断した傭兵は、席を立たない。
杯をテーブルに置く。乾いた音が、かすかに鳴る。そのとき、ジエッタの耳がやけに静かな足音を捉えた。
「やってくれたな、『烈火』のジエッタ」
背後から、低い声が響く。ジエッタは振り返らない。半分ほどに減った酒をながめた後、椅子の背にもたれる。
「なんのことかね?」
明るく返す。背後の息遣いは変わらない。相手の感情は動いていない。――いつものことだ。
「とぼけても無駄だ。連中を傭兵たちに止めさせたのは、貴様だろう」
鋭い視線を感じる。ジエッタは、出かかった舌打ちを押し殺し、代わりに杯を持ち上げた。その角で、テーブルをこつんと叩く。
「あたしが首謀者みたいに言わないでもらえるかね。あいつらが自分からやるって言いだしたんだ。ちょうど、山脈を越える隊商の護衛が終わった後だったんでな」
「だが、部下に俺たちと
「だったらどうした」
「――なんのつもりだ?」
喧騒を隠れ
わずかな
「それを聞いてどうするんだい、カロク」
いつもなら、こんなところにいるはずのない男は、腕を組んで壁にもたれかかる。横目で、ぎろりと、ジエッタをねめつけた。
「邪魔をするなら相手が貴様らとて、容赦はしないぞ」
「そんなことを、わざわざ言いに来たのか?」
つまらないねえ、と吐き捨てる。ジエッタは口角を上げ、カロクをにらみかえした。だが、彼はまったく動じない。淡々と言い募る。
「……貴様らは、一般人と同程度の知識しかないと思っていたのだがな。いつの間に、竜のことと俺たちの正体を嗅ぎつけた?」
「なるほど。それを訊きにきたか」
「質問に答えろ」
冷たい声が降りかかる。それでもジエッタは、笑みを崩さない。
「答えなくてもわかるだろう。あたしと手合わせしたことのある、あんたなら」
挑発するように言うと、鋭い舌打ちが聞こえた。カロクにしては珍しいことだと、ジエッタは目をみはる。
「『烈火』は弟子をとらないと聞いていたがな」
「ああそうさ。だから、あいつが最初で最後の弟子だろうよ」
ジエッタは投げやりに言って、男から目を逸らした。鼻を鳴らす音がする。
「残念だったねえ? これで、同じ竜を二度逃した、ってことになるわけだ。ついでに、鬱陶しい小僧どもも」
忌々しげな態度をとるカロクへ、笑い含みの声をぶつけてやった。
男の返事は淡々としていた。
「『小僧ども』の方は、すでに手を打ってある」
「ほう?」
眉を上げたジエッタは、それから杯をあおった。残った酒を一気に飲み干し、すっかり軽くなった酒杯をテーブルに叩きつける。さっさと席を立ち、歩きだした。今も背後で沈黙しているであろうカロクに向け、ぞんざいに手を振る。
「上手くいくといいねえ」
あからさまな大声で言い残したジエッタは、返事を待たずに酒場を出た。
冷たい夜気を全身に浴び、後ろ手で扉を閉める。蝶番の軋む音を聞き、ふん、と鼻を鳴らした。
「相変わらず無愛想で不気味だね。
――あんな奴らの手にかかって、勝手に死ぬなよ、馬鹿弟子」
呟きが夜に溶ける。
白い息を吐きだしたジエッタは、目を細めて、酒場の屋根を仰ぎ見た。
「そんなところで何やってるんだい。戻ってきたんなら、『家』に帰るよ」
よくとおる声が屋根にぶつかり、跳ね返る。すると、直後に旅装束の
ジエッタの前に着地してみせた後、大仰に顔をしかめた。
「冷めてんなあ、
「はいはい、ご苦労さん。戻るぞ」
「なんで俺にはそんな態度なんすか? ねえ、
「夜道でそんな大声を出すな」
叫びながら追いかけてくるノーグを適当にあしらって、ジエッタは『家』の方角に足を向けた。
『家』に戻ると、薄い闇の中、テーブルの端にぽつんと灯る橙色の火が見えた。そして、火に寄り添うようにして座っている男女が、資料を広げて難しい顔をしていた。
「サイモン、セシリア。まだ起きてたのかい」
ずかずかと明かりの方に歩み寄りながらジエッタが声をかけると、二人は顔をほころばせた。傭兵団の人間もさすがに寝静まっている時分なのだが、この二人は、ずっと起きて調べ物をしていたらしい。
「首尾は?」
疲れた顔のノーグを一瞥し、ジエッタは端的に問う。サイモンが、お手上げとばかりに両手を挙げてかぶりを振った。
「ディランと関わりがあった奴は、まだ見つかってねえ。竜のこともあれこれ調べてるが、どの程度あいつの記憶に繋がってるのか、わかんねえな」
「最近で、もっとも竜狩りが盛んだったのは、三十年前から二十二年前にかけて、みたいですけど……ディラン、生まれてないですよね」
ジエッタは、曖昧にうなずいた。
あの少年は記憶がない。よって本当の年齢はわからない。見た目からは、十五歳から十八歳だろうと推測できるし、七年前も相応の子どもらしい体格と顔立ちだった。だからきっとそのくらいだろう、と思ってはいるのだが。
「ただ――」
ジエッタが顔をしかめていたところで、深刻そうな声がしたので、彼女は目を見開いた。
憂いを湛えた若い女の顔が、火と闇に縁どられて浮かび上がる。
「サイモンといろいろ調べているうちに、不思議に思ったことがあるんです」
「なんだい?」
ジエッタはうながした。セシリアがうなずく。
「どうして、これほど竜が死んでいるのに、世界は崩壊しなかったんでしょうか」
心優しき女の問いが、闇へ溶ける。
蝋燭の火が、ヂヂッ、と鳴った。
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