第三章

23.砂漠の玄関

 ごうごうと吹き荒れる風は、乾いていて、砂混じりだった。だからどうというわけでもないが、なんとなく風がうっとうしく感じて、イグニシオは目を細めた。不快な気分をごまかすように、一度、大きく羽ばたいた。

 こんな風が吹く日は、だいたい、ろくでもないことが起きる。

 イグニシオは過去の経験から、勝手にそう断じている。彼がそう感じたときに限って何もなかった日も多く、眷族けんぞく炎竜えんりゅうたちからは、またあるじの自意識過剰だ、と呆れられることもしばしばだ。

 けれど、今日に限っては、彼の予感が当たった。

 風に乗って、羽ばたきの音が聞こえる。鳥のものより明らかに大きな音。まわりの炎竜がざわめきはじめたのをよそに、イグニシオは顔をしかめてから、飛びあがった。自分から挑みかかるかのごとく、音の先へと向かってゆく。

 やがて、砂の間を縫うように、高い声が聞こえた。

『イグニシオ様!』

 人間でいえば、少女の声だろうか。耳に、頭に、きーんと響く大音声だいおんじょうはわずらわしい。彼は怒鳴り返した。

『シルフィエのところの小竜ガキだな! 大声を出さずとも聞こえておるわ!』

『聞こえておられたのなら重畳ちょうじょう! あと、ガキ呼ばわりしないでください!』

『ガキをガキと言って、何が悪い!』

『言ってよいことと、悪いことがございます!』

 風と砂塵さじんにはばまれながら、言い合いを続けること、しばし。声はぐんっと近くなり、やがては煙る空気をかきわけて、一頭の竜が姿を現した。

 体も翼も、白い。鳥獣のようなふわふわの毛を揺らしながら、信じられない速度で飛ぶのは、風をつかさどる竜の子だ。人がその姿を目にすれば、美しさに見とれるところだろうが、紅き鱗をもつ竜はつまらなそうに鼻を鳴らしただけである。

『なんの用だ、シルフィエの眷族』

『名前を呼んでいただけると嬉しいのですが。ゼノン山脈の大炎竜様は、たいそう記憶力がよいことで有名でしょう』

 イグニシオの隣に追いついた風竜ふうりゅうが、すました態度で言う。イグニシオは、怒りをまき散らすように羽ばたいた。彼らのまわりにだけ、ごうっと突風が吹く。

『さっさと質問に答えんか。おしゃべりな小竜め』

 威嚇するような低い声にも、小さな風竜は動じない。ふっとわざとらしい笑い声を漏らしただけだ。

 イグニシオは呆れながらも、近くの岩場にとまった。どこぞの山の中腹あたりだろう。彼は鼻先を少しうわ向けて、ぞんざいに客を招いた。風竜は、今度は文句や皮肉を言うことなく、彼の隣にとまって羽を畳む。そこでようやく、イグニシオが求めた話題に入った。

『例のお馬鹿な地竜ちりゅう兄弟の件は、ご存じですか』

『……貴様も容赦がないな』

 さりげなく毒を吐く竜に、イグニシオは呆れた目を向けた。どうも、あるじに似て口が達者らしい。彼女は『事実ですから』と言うと、改めて紅い竜を見た。彼は、軽く喉を鳴らす。

『聞いておるわ。人間への報復と言って、意図的に崖を大崩落させて奴らの怒りを買ったあげく、狩人に目をつけられたというのであろう』

 そして、『つたえの一族』の血を引く娘と、娘とともにいた人々に命を救われた。それを眷族たちから聞いたとき、イグニシオは地竜たちをぶざまと嘲る一方で、物好きな人間もいたものだ、と思ったものである。いくら朋友の末裔とはいえ、竜のために命をかける人間が、今の時代に存在するとは。

 風竜は、イグニシオの胸中を知らないまま、しかつめらしくうなずいた。

『それで、彼らが主のもとへ帰ったようですので、後日、“審判”を行います』

 審判。つまり、人の社会でいうところの――裁判。

 イグニシオは、目を細める。

『我らの掟を破って勝手なまねをしたのだ。当然だな』

『ええ。そして……今度ばかりは、イグニシオ様もご参加くださいね。我が主も、そう申し上げておりました』

 イグニシオは、ますます渋面になった。人の顔のようにしわが増えることはないが、目がますます細くなったのと、うなり声が低くなったおかげで一目瞭然だ。予想通りの言葉に、彼は嫌気がさして、ついむきになって言った。

『言われずとも。今回は、あの馬鹿どもに言ってやらねば、気が済まん』

『本当ですか?』

『なにゆえ、そこまで勘ぐるのか』

 意地悪く笑ったように見える風竜を、炎の竜はにらみつける。すると、風竜が大仰に天をあおいだ。

『あなたのこれまでがこれまでだからです。特に、ここ二十年あまりは“審判”に一度も参加なさらなかったではありませんか』

『俺が口を出すまでもないと、判断したからにすぎぬ』

 イグニシオは無愛想に答えた。しかし、風竜は、はあっとわざとらしいため息をつく。彼がまたにらむ前に、口を開いた。

『人と竜の争いが嫌になってしまうお気持ちはわかります。しかし、あなたが中立、いえ、不干渉を貫いても何も変わりませんよ。そのような態度のままでは、ディルネオ様が悲しみます』

『――奴の名を、俺の前で口にするな』

 イグニシオは言った。風竜がすべてを言い終わる前に。

 低い声が山に響く。こめられた激情は、煮えたぎる溶岩のようだ。怒気におされて風竜がひるむ。彼女は少し目を伏せた。

『申し訳ありません』

 小さく、言ったあと、彼女は羽ばたいた。小さな体が宙に舞う。空中で器用に身をひるがえした風竜は、首をねじって、イグニシオを振り返った。

『イグニシオ様。“審判”のこと、よろしくお願いいたしますね』

『わかっておるわ』

 不機嫌に返したイグニシオは、そのまま白い竜に背を向けようとして、思い出したように、振り向いた。

『小竜よ、帰り道に気をつけろ。――ここのところ、山脈周辺は、人間の気配が濃い』

 言葉の裏に潜む意味をすぐに悟り、風竜は身を固くする。けれど、すぐに気を取り直して『お気づかい、感謝します』と言うと、大きく羽ばたいた。そのまま、恐るべき炎竜を振り切るように飛びさってゆく。

 ぐんぐん小さくなる影を見送りながら、イグニシオは柄にもなく、物思いにふける。


――人は、儚い。儚いからこそ希望に満ちた生き物だ。そうは思わないか、イグニシオ。


 古い声が、よみがえる。

 主竜しゅりゅうと呼ばれる強大な竜たちの中で、もっとも若い、小生意気な水竜すいりゅう。いつも慈愛に満ちていた青い瞳を、炎の主竜は、忘れることができない。

 彼とはそりが合わないように見えて、不思議と意気投合した。意見と考えはいつも食い違い、そのたびに顔を突き合わせて議論した。小難しい話は嫌いだが、彼となら、何時間でも語らえた。

 だというのに。

『あいつめ、とうとう生意気なままではないか。俺にだまって、いなくなりおって』

 イグニシオは、苦々しい思いを、砂塵の中に吐き捨てた。

『今でも、人に希望があると言えるのか? ……ディルネオよ』



     ※



「なんだか……暑くないか?」

 最初にそう言ったのは、トランスだ。顔じゅうに汗をにじませ、全力疾走したあとのように疲れきっている四十代の男を振り返った若者たちは、そろって首をひねる。

「まあ、暑いといえば暑いけど、真夏を考えれば、なあ?」

 ディランはそう言い、子どもたちを振り返る。彼らは同時に、うなずいた。

「うむ。それに、暑いのは当然だ」

「砂漠のすぐそばですもんね」

 言って、深々とうなずき合う二人。彼らを見やり、トランスはさらに疲れたようだった。風に混じって飛んできた砂を払うという、意味のないことをしながら、吐き捨てる。

「はあ。元気でいいわねー。おっさんにはついていけねえわ」

「寒さには強いのにか」

「……俺は北国で生まれ育ったの。寒いのが平気でも、暑いのはむーりー」

 わざとらしいほどの大声を上げるトランスを見ながら、ディランは、そうなのか、と呟く。なぜトランスが答えるまでに微妙な間があったのか、不思議に感じつつ、追及はしなかった。ただ、黙ってまっさおな空を見上げる。白い太陽の光が、冬のはじまりにしては強く照りつけてきた。

「おっさんの暑さ嫌いを抜きにしても、なかなかとんでもないところではあるんだけど。なんでこの地域だけこんな気候なんだ」

 照りつける陽光の強さに比例して、砂に覆われた地面が暑くなっていくのを感じながら、ディランはぼやいた。


 黄色っぽい砂地の上に並ぶ、四角い家並み。外には大きな水瓶や、古井戸が目立つ。行き交う人が多いせいか、もともとの気候のせいか――昼間のうちは、むせかえりそうなほどの熱気が町中を覆っている。

 彼らが今いるのは、ゼノン山脈へ向かううえでの最大の関門である、砂漠のすぐそばにある小さな町だ。名を、レッタというらしい。旅人たちの間でつけられた呼び名は、「砂漠の玄関」だ。


「まったくもって、そのとおり、だな」

 時折吹きつける、生ぬるい風には砂が混じっている。砂が目に入ったのか、ゼフィアーが少し顔をしかめながら言った。

 暑い暑いと言いながらも、一行の一番前に立ったトランスが、小さな町をながめまわす。

「とりあえず、砂漠を通る奴は、ほとんどがここで準備していくみたいだなー。宿屋にでもいけば、なんか教えてくれるんじゃないかー」

 声がいちいち間のびしているのは、疲れているせいだろう。溶けそうなトランスをいったん放置して、ディランはざっと家を観察した。すると、すぐに、遠くに大きな看板をぶら下げた建物が見つかる。町の中でも特に大きく、看板に刻まれているのは駱駝らくだと寝台を重ねあわせたような奇妙な紋章だ。あれが宿だろう、とあたりをつけた。

 レッタは本当に小さな町だ。彼らが立っている短い通りと、いくつかの横道が町のすべてである。迷いようがないだろう、とか、そんな会話をしながら、一行は宿屋を目指して歩いた。

 太陽は変わらず照りつけてくる。体を動かしていたらさすがに暑くなってきて、ディランは額の汗をぬぐった。隣では、レビの動きがだんだんゆっくりになってきている。

「大丈夫か?」

 声をかけると、レビは棒にすがりつきながらうなずいた。

「平気です! ここでへこたれてちゃ、砂漠で死んじゃいそうですし!」

 力強い声でそう言ってのけているが、額にはりつく金髪と引きつった顔を見てしまえば、虚勢を張っているのがわかってしまう。ディランは、少年の名誉のため、何も言わなかった。ゼフィアーが目を瞬いて彼を見上げる。

「ディランは元気だなー」

「そういうゼフィーも平気そうだけど」

「私はあちこちふらふらしているからな。こういう気候にも、慣れている」

 ゼフィアーは、しゃんと背を伸ばして言うと、得意げに鞄を叩いた。

 彼女より明らかに長く旅をしているはずのトランスが、ふらふらになっているのだが、そのことについては誰も触れない。

 彼らの見た目が変わっていたのか、やり取りが奇特だったのか。宿屋のすぐそばまで来たところで、見知らぬ男に声をかけられた。地元住民のようで、服の長い袖をわざとまくり、ひもつきの留め具でとめている。

 四人が戸惑いながらも男を見ると、彼は陽気に尋ねてきた。

「君ら、ひょっとして西から来たの?」

「うむ。ちょっと、砂漠を越える必要があってな」

「おおっ」

 ゼフィアーが質問に答えると、男は目をみはって、手をあげて、大げさに驚いたしぐさをする。

「そりゃまた、えらいことだね。西はただでさえ年中寒いそうだから、レッタにいるだけでも大変だろ?」

「ほんとに。俺、溶けてなくなりそうだもんよ」

 トランスがうんざりした様子で言う。まだまだ、暑さには慣れないらしい。本当につらそうな彼を不憫に思いつつ、ディランはふうっと息を吐いた。その様子を見てか、男は突然、自分の顔を指さして、口を開いた。

「ならさ、ならさ。日よけの外套と、大きめの水筒、うちで買ってけよ。安くしてやるぜー?」

「なんだ。おまえさん、商売人だったのか?」

「そうよー。君らみたいな無謀な人を相手に商売してんのっ」

 だらけきった狩人姿の男とは対照的に、浅黒い肌のレッタ民は白い歯を見せて、明るく笑う。無謀な人よばわりされた子どもたちは、顔を見合わせ、苦笑した。ディランも、けっこうしたたかな人らしいな、と感心をこめて彼を見ていた。

 結局、この男の誘いに乗って、ディランたちは砂漠を越えるのに必要な道具一式を揃えることになる。トランスいわく、彼のような誘い方をしてくる人にはぼったくりも多いようだが、彼は本当に安く売ってくれた。

「向こうの砂漠は、雨水とか湧水とかが溜まってできる水場が、ちょいちょいあるからねー。そこで水を補給すれば、わざわざ重い水を大量に持ち込むことはない。レッタだって、砂漠の端の水場を囲ってつくられた、まあ、オアシスみたいなところだからさあ」

 四人が品物を選んでいる間にも、彼は口をよく動かして、町について解説していた。先に買い物を済ませてしまったディランが、それとなく周囲を観察していると、確かに、遠くの方に泉のようなものが見えた。

「不思議ですよね。ついこの間まで、代わり映えしない景色だったのに」

「うむぅ、やはり、炎竜の影響……なのか?」

 外套を選びながら、ゼフィアーが別のことで首をひねる。ディランも、つられて首をかしげ、考えこんだ。竜の力が自然に影響を及ぼすことは、とっくに証明されているようなものだが、砂漠も暑さもまた、火の竜の力が及んでいるせいなのか、と。

 彼らの会話を鋭く聴きとったのは、やはり売り手の男だ。彼は、ぱん、と手を打つ。

「そうだねえ。本当のところは俺も知らないけどさ、砂漠に行って戻ってきた連中の中には、赤い竜を見た、って騒ぐ奴らがけっこういるよー」

 軽い調子で放たれた言葉に驚いて、四人は手を止め、お互いを見た。彼らは思った。

 言い伝えは案外、真実味のあるものかもしれない、と。


 男に礼を言って別れたあと、四人は件の建物に入った。予想通り、そこは宿屋だったようだ。主人は最初、変わった奴らが来たといわんばかりの目つきをしていたが、ディランたちがとりあえず一泊するというと、快く泊めてくれた。

 たまたまあいていた大きめの部屋に、ひしめき合うようにして四人が集まる。町の宿に比べれば粗末だが、きれいな寝具がのべてあった。砂が入ってくるからなのか日光対策なのか、小さな窓に布が垂らしてある。おかげで部屋は薄暗く、ひんやりとしていた。

「あのー。トランスさん」

 寝具の上に腰をおろし、水を飲んで人心地ついたあと、レビが声をあげた。

「なんだい、レビ」

「さっきみたいな噂って、その、どのくらいが本当なんですか?」

 レビにつられて、ディランとゼフィアーも、トランスを見た。三十年近く竜狩人を追い続けているという男は、腕組みをして考えこんだあと、慎重に口を開く。

「だいたい、五分五分ってところかね。竜みたいなでっかい生物が空を飛んでるってこと自体珍しいから、近くでそれを見たっていう目撃証言ならわりと当たる。けど、遠くからだと、鳥を見間違えることが多い。あと、最初からほら話って場合もあるし」

 可能性をあげればきりがない。ディランは考えこんで、小さな窓を見上げた。白い光が薄く差し込んできている。

「でも、火の竜でも持ち出さないと、この気候に説明がつかないんだよな。砂漠の周辺だけだし」

「そこなんだよな」

 トランスが言って、頭をかいた。それから、そばに置いていた矢筒から矢を一本引き抜いて、ながめると、それを磨きはじめる。

 そのとき、ゼフィアーが大きな紙を床に広げはじめた。がさがさとやかましい音にひかれて、ディランとレビはそちらを見る。

「このあたりの地図だ。さっき、宿屋の入口でもらってきた」

 広げられた地図に記されているのは、だいたい、レッタからゼノン山脈までの範囲らしい。ゼフィアーがゼノン山脈の位置に指をあて、顔をしかめる。

「どうしました?」

 レビが問うと、ゼフィアーはうなずいた。

「うむ。ゼノン山脈、とはいえ、まずはどこの山を探るか、決めておかねばならないと思ってな」

「確かに。やみくもに探すなんて、それこそ無謀だし」

「どのへんにいるんでしょうね、イグニシオ……」

――とりあえずは、山脈に竜がいると仮定して話を進める。けれど、地図をながめていてもいい案が浮かぶわけではない。三人の気分が沈みこんできたところで、すべての矢を磨き終えたトランスが、言った。

「ゼフィーならわかるんじゃないのか?」

「そ、それはそうなんだけども。ゼノン山脈に近づいた時点で竜がいるかどうかがわかっても、どこにいるかまでははっきりとわからない。どこかの山を少しでものぼってみないと」

「……ま、しかたねえか」

 言いながら、トランスが足を組みかえる。伸びをして、あくびをもらす彼を見て、ディランはため息をついた。

 結局この日は、結論が出なかった。また明日、どこの山に行くかだけは決めようということになって、その日は全員が休むことにしたのである。



――しゃん。

 耳元で、音が鳴った気がして、ディランは暗闇の中で目を開いた。すぐ近くに何かの気配を感じる。飛び起きて、あたりを見回してみたが、何も変なものはいなかった。隣では、レビが気持ちよさそうに眠っているだけである。気のせいか、と息をついて、寝なおそうとした。けれど、どうにも落ちつかない。

 間違いなく、何かがいる。奇妙な気配が町を漂っている。

 そわそわしはじめたディランは、結局、外に出てみることにした。いつもの上着をはおり、念のため買った外套を手にして、腰に剣をさげてそっと部屋を出る。と――

「ディラン? どうした?」

 横から声が聞こえた。ディランは振り返る。

 ゼフィアーが、戸口に座りこんでサーベルの刃を研いでいるところだった。少年を不思議そうに見上げた少女は、たちまち、心配そうな顔になる。

「もしかして、また変な夢を見たのか?」

「い、いや。っていうか、なんで知ってるんだ」

「トランスが」

「――ああ、そう」

 ディランは驚いたのち、男の名を聞いて頭を抱えたくなった。自分が倒れたときに、しかたなしに打ち明けたのだろう、ということくらいは、何も知らない彼でも想像できる。無言のままの彼を見て、どう思ったのか、ますます眉を下げるゼフィアーに対し、ディランは軽く手を振ってこたえた。

「今日はそういうのじゃないから、大丈夫。ただ、目が覚めたんでな。ちょっと、外の空気を吸ってくるよ」

 穏やかな声音に安心したのか、少女は肩の力を抜いた。

「そ、そうか。気をつけてな。レッタの夜は冷えるらしいから」

「ああ。ゼフィーもいいところで切り上げて、寝ろよ」

 ディランはそっけなく言い残すと、ゼフィアーに背を向けて、宿を出た。

 砂漠が近いからか。確かに、レッタの夜は冷えるようだ。昼間の暑さが嘘のように、芯まで冷えそうな夜気が、体を突きぬけていく。ディランはぶるりと震えたあと、外套をはおった。

 小さな町を進んでゆく。娯楽のひとつもない町は、夜になると、死んだように静まり返る。人の姿も、明りすらもなく。上を見れば、瞬く星がよく見えた。

 静寂の中、一人の靴が砂を踏む音だけが響いた。ディランは無言で、水場のそばにまでやってきた。彼が来たせいか、かすかに揺れた水面みなもをながめたあと、虚空に目をやる。

「――隠れてないで出てこい。何者だ」

 風が吹く。夜が深くなる。

 耳が痛くなりそうなほどの沈黙のあと――空中に、光が灯った。

 いきなりのことにひるんで、ディランはとっさに目を覆うと、後ずさりした。そうっと、顔から手を外して見てみれば、丸い光は彼の反応などどうでもいいとばかりに、ふわふわと浮いている。奇妙な光景だ。

「は? なんだ、これ」

 ディランはぽかんとして光を見上げる。何かに化かされたような気分になって……直後、頭が冷えるのを感じた。前にも同じように思ったことがある、と気づく。

 ディランが答えに辿り着く前に、どこからか声が響いた。

『やあ、久しぶりだね。不思議な人間』

 声変わり前の少年のような声。そして、大きな丸い光。忘れろという方が無理なほど強烈な記憶を刺激されて、ディランは思わず叫んだ。

「お、おまえ! 森の……」

『ふふ、正解。覚えていてくれたんだね。嬉しいよ』

 光が、かすかに揺れる。すると、やはり、しゃん、という、鈴に似て非なる音が鳴った。

 リフィエ村を出てから、入った森。黒装束を切り抜けた日の夜に出会った、光の群。その中心にいたのが、このいっとう大きな光球だった。けれど、今日は、光はひとつだけだ。

「こんなところで何してるんだ、不思議生物」

『旅、さ。言っただろう、僕らは世界じゅうを巡っている、と。ここで君に会うのは、予想外だったけど』

「俺だって予想外だよ」

 ディランが吐き捨てると、光は何がおもしろいのか、彼のまわりをくるくると回り始めた。少年がそれを冷めた目で追っていると、突然、光が顔のそばで止まる。

『ここにいるってことは、君たち、イグニシオに会いにきたんだろう?』

「なんで知ってるんだ?」

『それは内緒』

 光は調子よく言ったあと、しゃんしゃんと体を鳴り響かせながら、言った。

『いいことを教えてあげよう。

イグニシオと眷族たちは、今、ゼノン山脈でもっとも標高の低い、ロンズベルクという山のあたりにとどまっている。ロンズベルクをのぼっていけば、会えるはずだよ』

 ディランは息をのんだ。

 光に対する不信感が、じわじわと胸を満たしていく。なぜ、イグニシオの居場所を知っているのか。こちらを騙す気はないのか。いくつかの思考が、頭の中で渦巻いて、弾けたあと、ディランは一言を吐きだした。

「……おまえ、いったいなんなんだ」

『いずれは知る時が来る。前に、そう言ったはずだよ』

 光はまたしてもはぐらかす。それから、宙に舞い上がった。

『でも、そうだね。お互いに名前だけでも知っておきたいね。

――僕は、クレティオというんだ。せっかくだから、君の名前も教えておくれ』

 光ことクレティオの言葉に、ディランはいらだちのあまり目を細める。けれど、すぐにいろいろとあきらめて、ため息とともに名乗った。

「ディラン」

 すると、光が小さく鳴った。

『へえ、そう。ディラン、か。いい名だ』

「そりゃどうも」

 ディランは投げやりに言った。

 瞬間、クレティオはいっそう高く舞いあがり、急に見えなくなってしまう。それでも、なぜか、声ははっきりと聞こえた。

『また会おう、ディラン。君たちが、あの堅物と話せることを祈っているよ』

 それを最後に、何も聞こえなくなる。町を覆っていた奇妙な気配は引き潮のように消えていって、町の静寂があたりに戻ってきた。ディランは、鏡のような水面をながめて、呟く。

「毎度、意味がわからない奴だな」

 そうぼやく彼の脳裏には、「ロンズベルク」という山の名が強く残っていた。

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