第二部 人と竜
第一章
1.こころ
悲鳴のような風の音が、灰色の空を切り裂いた。
雲の流れが早くなる。人が見れば、恐ろしさに心が冷えていくであろう空模様だった。けれどこの時分、怪しげな山岳地帯に人はいない。
いるのは、風を切り、空を駆ける『彼』だけだ。『彼』は下に広がる茶色い山々を目の端に捉えながら、頭の中ではまったく別のことを考えていた。
『急がなければ』
わずかに開かれた口の奥から、人のものではない言葉が漏れる。藍玉のように美しい瞳が、冷たい光を帯びていた。
『彼』は、東の海で出くわした同胞を思い出す。
彼らは、ぬぐい切れぬ不安と、不満と、憎悪を溜め続けて、今にも暴れ出しそうになっていた。その上、彼らを束ねる
翼で強く空を打ち、『彼』は飛ぶ速度を上げた。一気に山岳地帯を抜けると、眼下にぽつぽつと緑が見える。けれど『彼』は喜ばず、むしろ不信感に目を細めた。
平原の端の川べりに、不自然な影がある。『彼』は一目見ただけで、影の正体がわかった。
人間。それも、武装した人の集団だ。
『人間? 流浪の民ではなさそうだが、あんなところで何を……』
『彼』は強く警戒をしつつも、無意識のうちに飛行速度を落としていた。
その瞬間――人の集団が、銀色に輝いた。
いや。正確には、彼らが取り出した銀色の矛が、陽光を反射して光ったのだ。
それの意味するところを悟り、『彼』は目を見開く。再び翼で空中を叩き、人間たちから逃れるように飛ぶ。けれど、人間たちは『彼』が逃げだすより早く馬を駆っていた。
『気づかれていたかっ……!』
速度を落とすべきではなかったと、
その後しばらく、『彼』と人間の競争は続く。お互いの命と信念をかけた戦いの、明暗を分けたのは、風だった。
突然、前方から突風が吹きつける。空を飛んでいた『彼』は、風にあおられ、低空で止まらざるを得なかった。風がやむと同時に進もうとしたが――そのときにはもう、『彼』の真下で人間が武器を構えている。
下から撃たれた数多の石つぶてが、『彼』の翼を傷つけた。頑強な『彼』といえども、絶え間ない痛みによろめく。地面との距離がさらに近くなった。
しくじった。そう思ったときにはすべてが手遅れ。
青い瞳に、鋭い刃の光が映りこむ。
時の流れも、自分の動きも、何もかもがゆっくりになった。その中で彼は――妙に冷めた頭で、どこにいるかもわからない主のことを考える。
優しかったあの方が。共存を、誰よりも願っていたあの方が。今の私の姿を見たらどう思うだろうか。眼下で憎しみと怒りをたぎらせる人間たちを見て、何を感じるだろうか。
――きっと、とてもとても、悲しむのだろう。
『誓いを果たせず、もうしわけ、ありません』
謝罪の言葉に続けて、『彼』は主の名前を呼ぶ。
けれど、それが外に放たれることは、なかった。
※
流れ者たちにとって、酒場は情報の宝庫である。上から下まで様々な身分の人たちが集まり、彼らの世界の話を世間話や愚痴というかたちで落としていくからだ。しかも、大抵の客は酒に酔って、気分も口も、ついでに財布のひもも緩んでいる。
小さな宿場町、民家の一階を利用している酒場もまた、酒と仲間と情報を求める人々が集まる場所だった。もとより人が暮らしている場所とあって、外観はきれいだし、中も掃除をしてある。ただし、すぐに客が汚すので、その清潔な様は長くはもたないのだった。
日が傾いて、客の入りが増えてきた。やかましくなってきた店の端、西日の射しこむ窓際で、二人の傭兵は杯を掲げた。もう、何度目になるかわからない。それでも彼らは潰れることなく、陽気に会話を進めてゆく。話題は、仕事のこと、とりわけ武勇伝や依頼人の悪口に終始した。
しかし、酒場がほぼ満席になった頃、傭兵のひとり、剣士の男ががらりと話を変えた。
「なあ、おまえ知ってるか? この間、近くを竜が飛んでたらしいぜ」
「竜だあ? どうせただのほら話だろ」
いきなり飛び出てきた非現実的な言葉に、剣士の向かいで飲んでいた弓使いが、大げさに顔をしかめる。竜が人の目につくところを飛んでいることなど、全くと言っていいほどない。それに、そもそも、今の時代に竜が実在しているかどうかすら怪しいところだ。
けれど、弓使いがそう言って馬鹿にすると、剣士は急に真剣な顔つきになった。
「それがよ。でたらめってわけでもなさそうなんだ。町の奴も同業の連中も、山岳地帯で竜を見たっていうんだよ。それも、結構な数の目撃証言がある」
「おいおい、それホントか?」
「嘘じゃねえ。多分、この酒場にもそういう奴がいるんじゃねえか?」
剣士の言葉をきっかけに、二人は揃って、笑い声と怒声が響く酒場をぐるりと見回した。期待と、得も言われぬ不安とをないまぜにした視線でもって、無意識のうちに同じ噂の持ち主を探す。喧騒の中に意識を向けていた二人は、自分たちのもとへ近づくたった一つの足音に気づかない。そして、新たな一人が彼らの前に立った。
「なあ、若いお二人さんや」
新たな一人は、ことさらに明るい声で二人の気をひいた。彼らはかなり驚いて、立ち上がりながら振り返る。二人ともが椅子を蹴倒しそうになっていた。突然の乱入に警戒する二人へ、相手は笑いながら両手を振る。
「そんなに怖い顔しなさんな。取って食うわけじゃあないんだし」
へらへら笑う
彼らに突然話しかけてきたのは、長髪の男だった。少しばかり日焼けした顔には皺が目立つ。四十くらいかと男たちは思ったが、ふざけた笑顔のおかげで、もう少し若く見える気もした。
背中に矢筒、手に弓、腰には短剣を差している。狩人のようないでたちだ。
驚きからさめた男たちは、椅子に座りなおしてぶっきらぼうに口を開く。
「ったく、いきなり話に入ってくんなよ」
「なんの用だ?」
「おーおー、最近の若者はぴりぴりしてて、いかんなあ」
意識して刺々しい敵意を向けても、男はちっとも動じない。それどころか、おもしろそうに二人を見ていた。その態度に彼らはますます神経を逆なでされる。怒鳴ってしまいたい気持ちを押さえ、相手の答えを待った。
すると、男は、急に笑みを引っ込めて――二人に顔を近づけた。
「さっきの話、詳しく聞かせてくんないかな。――竜は、どこを飛んでたって?」
思いもよらない言葉に、傭兵たちは口を開いて固まった。
男は、酒を口にしないまま酒場を出た。財布の重みは変わっていない。竜の話を若手の傭兵たちから聞き出して、情報料の銀貨を少々渡しただけだからだ。しかし、心の奥底には鉛のような重みがのしかかってきていた。
いつの間にか日が落ちて、街は夜の紫紺にのまれている。男はふと足を止め、静まり返った通りを見つめる。酒場の壁の灯火が、彼の険しい顔を浮かびあがらせた。
「山岳地帯、ねえ。ここから南東の方ってことは、デアグレードとの国境のあたりか?」
男の横顔は真剣そのものだ。おどけた笑みはどこにもない。切れ長の目がさらに細められていた。
「行ってみるしかねえな」
ひとりで考え込んでひとりで結論を導き出した男は、言うなり夜の街を歩きだす。自然と、腰の短剣に手を伸ばし、金属の鞘を叩いていた。冷たく硬い感触が、武器の存在を教えてくれる。それは同時に、普段は忘れている熱い激情を鮮やかによみがえらせるのだ。
「今度こそ――今度こそは、絶対に逃がさねえ」
男は雲の多い夜空を見上げて、挑戦的にささやいた。その言葉がどこの何者に向けられたものなのか――知るのは、たった一人だけである。
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