2.暗雲
土をならしただけの細い道に、上機嫌な歌声が響き渡る。木の陰に潜む獣たちが、なんだなんだと顔を出し、人の姿を見つけると、慌てたように去っていった。とはいえ、その人間たちには怯えもなければ害意もない。だから、人慣れした小鹿や野うさぎの中には、まだ興味深げに人間の様子をうかがっているものもいた。
歌声はまだまだ響く。一節が終わったところで、道を歩く三人のうち一人――彼らの中でもっとも大柄な、青い瞳の少年が、歌う少女に話しかけた。
「変わった歌だな、ゼフィー」
すると、少女は歌うのをやめて振り返った。茶色いふたつの三つ編みが、動きに合わせて空中に弧を描く。
「うむ。私の一族に代々伝わる歌なのだ。とはいえ、お祭りのときくらいしか歌わないのだがな」
少女の隣を歩いていた金髪の少年が、へえっ、という顔をした。
「お祭りのときにうたう歌ですか。どうりで、不思議な感じがしたんですね。厳粛、っていうんでしょうか」
「そうかもしれん。何せ、時の
その言葉を聞き、二人の少年が顔を見合わせる。お互い、驚いているというか、不思議そうというか、とにかく変な顔をしていた。
「竜へ歌を捧げるっていうことですか?」
「おもしろい慣習だな。初めて聞いた」
「私の一族は、変わっているのだ!」
少女、ゼフィアー・ウェンデルは、なぜか得意げに胸を張る。
ディラン一行が港湾都市カルトノーアを出てから、五日が経過しようとしていた。今は、国境を越えてデアグレード王国領内に入るべく、「マーテラ
「マーテラ旅道を抜けたら、確か、平原に出ますよね」
「平原は平原でも、端の方だけどな。細い川が見えるはずだ」
旅の経験があるレビとディランは、冷静な会話をしながら道を往く。ゼフィアーは、相変わらず楽しそうに歌っているが、二人の話もきちんと聞いているのだろう。今は口を挟む必要がないから、会話に入ってこないだけだ。そのことを察しているディランは、レビとの会話に意識を集中させる。
「で、その先は山岳地帯じゃないですっけ? 山越えしたかどうかは、覚えてないんですけど」
「いや……一応、細い横道みたいなものがあったはずだ。そこを通っていけばいいんじゃないかな」
「あー、そういえば、そうだったかもしれません」
幼い頃の記憶を懸命に汲み出そうとするレビに、ディランは淡々と助言をする。しばらくの間、こんなやり取りを繰り返していた。そのうちゼフィアーが振り返って、呆れたような視線を彼らへ注ぐ。
「二人とも、真面目すぎないか? もうちょっとこう、気楽に行ってもいいと思うぞ」
少女の言葉に、ディランたちは揃って首をかしげる。
「ぼくたち、真面目ですかね?」
「……さあ」
戸惑いを露わにする少年たちの前で、ゼフィアーは苦笑いする。琥珀色とも金色ともつかぬ瞳が、遠いところを見るように、空を流れる雲をなぞった。
「すっかり仲良くなったなー。真面目同士、気が合ったのか。ま、よいことではあるが」
呟く少女の姿は、妙に大人びている。
「そういうおまえは、カルトノーアを出てからこっち、だいぶ肩の力を抜いてるな」
ディランは思わず、ぼそりと呟く。彼女の態度を悪く言いたいわけではなく、ただ、まとう空気の変化に少し驚いたのだ。ゼフィアーは、にっこり笑って「そうだろう」といばるように返した。
ディランは思わず微笑をこぼす。そして、その理由に思い当たった。
カルトノーアを抜けて以降、黒装束は襲ってこない。それどころか、見られているような気配も感じなくなった。――本当に、ゼフィアーがかの街の大商人に届けようとしていた小包だけが、彼らの狙いであったのだろう。それを無事に届けることができたのだから、少しばかり気が緩むのも、当然といえば当然だった。それに、いつまでも気を張っていては疲れるだけだ。
「……あれ?」
ふいに、訝しそうな声が聞こえた。ディランは、すぐ横の少年を見下ろす。レビは足を止めて、遠くをじっと見ていた。
「どうした、レビ」
「いえ。あの……むこうの空、見てください」
レビは、不安げに遠くを指さす。ディランとゼフィアーは、小さな指を目で追いかけて――唖然とした。
マーテラ旅道も終わりへと差し掛かっていたらしい。遠くに、どこまでも続くかのような大地と小高い山々が、うっすら顔をのぞかせていた。けれど、彼らが注目しているのは平原の端でも山でもなく、その上の空だ。
「これはすごいな。引き返したほうがいいか?」
ゼフィアーがややこわばった声で言う。
遠くの空には、黒く分厚い雲がかかっていた。かなり大きな雨雲だ。このまま進めば、間違いなく嵐に遭うだろう。
「ど、どうします?」
レビが心細げに眉を下げてディランを振り返るが、人の手ではどうにもならない事態である。ディランは、少し考え込んだ。
「……今から引き返したところで、雨雲がこっちに来る頃には、旅道の真ん中で立ち往生だ。どうにかして、雨風をしのげる場所を見つけられればいいけど……」
呟きながら、ディランは自然と、前を歩く少女を見ていた。意見を求めるべく口を開く。けれどそのとき、ゼフィアーの様子がおかしいことに気づいた。
「ゼフィー?」
呼びかけてみるが、返事はない。レビと二人で、彼女の顔をのぞきこむ。
ゼフィアーの目は二人を捉えていなかった。雨雲をにらみつけ、いつになく険しい表情で、考えごとをしているようである。このままでは、考えごとが済むまでびくともしないだろう。そう思わせる目つきだった。
ディランはため息をついて――少女の三つ編みを、軽く引っ張った。途端、彼女は目を丸くする。
「ひゃっ!?」
「怖い顔してどうした。ぼうっと突っ立ってる暇はないぞ」
ディランが言うと、ゼフィアーは三つ編みをいじりながら振り返った。少し、不服そうだ。
「すまん。でも、髪を引っ張るのはやりすぎだ」
「――悪かったよ」
もっともだ。ディランは肩をすくめて、謝る。少年の渋面を見て気を取り直したのか、ゼフィアーはあっさり彼を許した。うん、とひとつうなずいて、前を向く。
「そうだな。屋根、とは言わないまでも、何かあるといいが。最悪、木の下で一夜を明かすか?」
「そうなるだろうけど、雷が鳴ってたら避けた方がいい手だな。落雷が直撃でもしたら、さすがに笑えない」
さらりと言うディランの横で、レビが青くなって棒を握りしめている。想像したのだろうか。
そんなやり取りから、少し時間が経った頃。道のむこうに、影が見えた。三人はとっさに身構えたが、影の正体が小さな荷馬車であることに気づいて、ほっと緊張を解く。また、荷馬車の方も彼らを見つけたらしい。少しばかり速度を上げて、近づいてきた。
荷馬車をひいているのは、若い男のようだ。そして、隣に付き添うようにして、同じ年頃の女性が歩いている。男の方が、ディランたちのそばで馬車を止め、手を挙げた。
「やあ、こんにちは。旅人さんかい? ずいぶんと若い人が揃っているみたいだけど」
「そうだ。これから、国境を越えてデアグレード王国領へ出ようと思っていたのだが」
ゼフィアーの返答に、若い男女は顔をしかめる。女性の方が、ためらいがちに口を開いた。
「……今は、やめておいた方がいいわ。あの雲、見えるでしょう」
「ああ。だから、これからどうしようかと、困り果てていたところなんだけど」
黒い空を振り仰いで心配そうにする彼女に、ディランが手を振って返す。危険を冒すつもりはないから心配するな、とばかりに軽い口調で。心配りが通じたのか、二人はあからさまにほっとした様子で、互いを見ていた。
「むむぅ、これからどうするかな。あの雲、どんどん近づいてきているし」
「流れも速いですね。やっぱり引き返した方が……」
レビが、
「僕らもデアグレードへ出ようとしていたんだけど、急にあれだからびっくりしたよ。――しかもね。昨日、近くの村で妙な噂を聞いたんだ?」
「妙な噂、か。どんなのだ?」
「うん。昨日の朝方、空飛ぶ大きな『何か』が、平原の方に
雨雲に背を向けながら、一行は男の話に耳を傾ける。ディランは、レビと一緒になって、そんな話もあるのか、というくらいの心持ちで聞いていた。
しかし――『大きな何かが墜ちた』というのを聞いた瞬間、ゼフィアーの顔色が変わった。
大きな目をさらに大きく見開いて、若い男をじっと見ている。それだけではない。中途半端に開かれた唇が、かすかに震えていた。
「……どうかしたのかい?」
少女の異変に気づいたのだろう。男が首をかしげた。ゼフィアーは表情を変えないまま、一生懸命、言葉をひねり出す。辛うじて出た声は、ひどく揺れていた。
「そ、その。昨日の朝に墜ちたものというのは、まだ……平原に、あるだろうか?」
「あると思うよ。この旅道を抜けてすぐの、小川のあたりだろう、って言ってた気がする――って、ちょっと!?」
言い終わりに男が素っ頓狂な声を上げた。ディランとレビも、驚いた。
ゼフィアーは、いきなり反転すると、そのまますさまじい勢いで平原の方へ駆けだしたのである。あまりの豹変ぶりに唖然としてしまったせいで、ディランは一瞬、反応が遅れた。
我に返ったときには、ゼフィアーの姿はかなり遠くにあった。空が暗くなりつつある。ディランは舌打ちして、同行者の後を追った。
「馬鹿、ゼフィー! ひとりで行くな!」
ありったけの声を振り絞って叫んだが、ゼフィアーは反応しない。そこへ、レビが追いついてきた。ディランは少年の姿を視界の端に捉えて、目をみはる。
「ついてきたのか」
「よ、よくわからないけど! ゼフィーが心配ですから!」
「わかった。離れるなよ」
「はいっ!」
前を向いたまま会話をして、二人はそのまま速度を上げる。
そうかからないうちに、視界が開ける。マーテラ旅道を抜けたようだ。「平原」と呼ばれていても、川が近くにあるおかげか、まだ緑が多い。ただ、迫る雨雲のおかげで、あたりは不気味に暗かった。
普通の人であれば、このあたりですでに進むのをやめるはずだ。しかし、ゼフィアーは全く躊躇うことなく、夢中で走り続けている。何がそこまで必死にさせるのか、足の運びがかなり乱れているのが見て取れた。
まわりが見えていない。ディランの中に、焦りが生まれる。
「ゼフィー!」
「おまえ、どこまで行く気だ! 戻れ!!」
レビの必死の呼びかけに続き、ディランはありったけの怒声を叩きつけてみるが、少女はやはり止まらない。
ディランは眉をひそめた。先ほどまでより距離を詰めたおかげで、彼女が何か呟いているのが聞こえてきたのだ。
そして、時間の感覚があやふやになるほど走った後に、ようやくゼフィアーが速度を緩めた。二人もほっと胸をなでおろし、走るのをやめる。そこで、レビが目を瞬いた。
「あれ? なんでしょう。何か、落ちてますね」
「本当だな。動物の死骸か?」
ぽつぽつと生える、丈の短い草の上に、大きな何かが横たわっている。かすかに漂う
直後、前をふらふらと小走りで進んでいたゼフィアーが、そこで崩れ落ちた。ディランとレビは驚く間もなく、少女に駆け寄る。
とうとう、雨が降ってきた。
肌を濡らす水滴を感じながら、ディランはまっさきにゼフィアーへ追いついた。座りこんでいる少女の肩に手を置く。
「ゼフィー。どうしたんだよ、一体。おまえらしくもない」
「…………た」
「ん?」
少女は、かすれた声で何かを言う。聞きとれなかった。ディランは顔を近づけ、優しく聞き返す。すると、今度は、振り絞るような叫びが返ってくる。
「……っ、また……間に合わなかった……!」
悲痛な声に胸を突かれ、ディランは息をのんだ。
その言葉の意味を確かめなければ。頭の奥でそんなことを考えて、恐る恐る顔を上げる。目に飛びこんできた光景に――彼は、凍りついた。
「――な」
疑問の声は、言葉にすらならない。
雨が、強くなっている。だというのに、雨音はやけに小さく聞こえた。
「ディラン! 一体どうした、んです……」
追いついてきたらしいレビの呼びかけが聞こえる。けれど、それすらも尻すぼみに消えた。足音が止まり、息遣いだけが大きく響く。
「どういう、ことですか? これ――」
ややあって、消え入りそうな問いかけが、少年少女の背中を打つ。ディランは答えなかった。答えることなど、できるはずがない。目の前の、生きていたものを見つめるのが精いっぱいだった。
目の前のものは、噂通り、とても大きかった。そして本来、とても美しい見た目をしていたのだろう。
体を覆う、輝くばかりの青い鱗。深海、あるいは藍玉を
それらは今、すべてが赤黒い血の中に沈んでいる。鱗は黒ずみ、目は光を失い、翼には細かい傷がついている。そして、巨体には大きな穴が三つほど開いていた。
もはや二度と動くことがないそれを見て、ディランはようやく、呟いた。
「……竜、が……死んでる?」
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