第一部 世界の脈動
第一章
1.放浪者、二人
彼にとって馴染みの深い道のりは、けれどこの日、いつもとは違う姿を彼に見せつけていた。
山に向かうようにしてまっすぐにのびる道には、白く四角い石が敷き詰められている。こぎれいに整備された道には違いなかったが、うらさびしい雰囲気を漂わせていた。いつもはこの先の小さな町を中心として、行き交う旅人や商人の荷馬車でにぎわっているのだが、今日は人の気配すらない。
静かな街道を一人の旅人が歩いている。青みがかった髪と藍玉の瞳を持つ少年だ。
――嵐が去って、彼はようやくミルデン地方に入ることができた。そこから数日かけて目的地の近くまで来たわけである。
彼は、街道の有様を見て眉をひそめた。
「こりゃあ……相当派手にやられたんだな」
険しい顔の旅人の口から、悲嘆のささやきが漏れる。海のような深い青色をした瞳が、街道の周囲の風景を映し出した。
不自然に中心から折れている木々と、めちゃくちゃに吹き飛んだ葉が目につく。いつもなら街道沿いに咲き乱れている小さな草花も、今はほとんどがつぶれていた。さらに、よく見れば、きれいに思える街道も石畳にひびが入ったり、一部が壊れて土がむき出しになったりしている。数日前にこの地方を襲った嵐の爪痕は、生々しく残ったままだ。
「ほんの少し町を離れてただけでこれとか、どうなってんだよ」
遠くそびえる山脈に目をこらす。見る限りいつも通りの青々とした山肌だが、場所によっては土砂崩れがあったというから恐ろしい。
ため息をこぼす少年の目に、ふいに影が飛びこんできた。地平線の向こうに見えるのは、高い城壁と屋根の影だ。とりあえず、町じたいは無事らしい。彼は、胸をなでおろす。
やがて少年は、町を囲む石壁の前へ来た。開け放たれている門をくぐる。すると、人の声と熱のこもった空気が押し寄せてきた。異世界へ足を踏み入れたかのようで、少年はつかのま怯んだ。
西の
注意して観察すれば、町にも嵐の痕跡は残っていた。多くの建物の壁が剥がれかけていて、中には屋根の一部が崩れてしまっているところもある。そうしたところには、得てして屈強な男たちが集まり、声を張り上げながら復旧工事に勤しんでいた。
野菜を売る男と、赤ん坊を背負った女が談笑している。どこかの店の下働きと思われる若者が、仕入れ品の詰まった籠を両手に抱えて駆け抜けていく横を、子どもたちがはしゃぎながら通り過ぎた。
常よりせわしいながらも平穏な風景をぼうっとながめ、少年はただひたすら歩いていた。歩調に合わせ、腰の剣が揺れる。
通りの半ばに差し掛かったとき、すれ違いかけた誰かに声をかけられた。
「お、ディランじゃねえか」
自分の名を呼ぶ野太い声に、少年は目を瞬きながら振り返った。見覚えのある顔がすぐそばにあって、驚く。
四十代半ばほどの男だ。日に焼けて黒くなり、しわの目立つ顔には、けれどいつも少年のように愛嬌のある笑みがたたえられている。町の片隅、小さな鍛冶屋で働いている彼は、ディランとはそれなりに長い付き合いがあった。
男はずかずかと歩いてくると、その大きな手でディランの肩を叩く。あまりの力強さに少年は顔をしかめる。そのことに気づかぬまま、男はまくし立てた。
「いやー、久し振りだな。今度は南の方に行ってたんだって? あっちは国同士やら移民やらとの小競り合いが絶えねえらしいが、大丈夫だったか? あと、この間の嵐には巻き込まれなかったか? 今ここにいるってことは、三、四日前にはこっちに入ってたんだろ。ああそれと――」
「分かった、分かったから落ちつけ!」
矢継ぎ早に投げかけられる質問を、ディランは両手を振ってとどめた。男はディランの言葉を受け止めると同時に、まるで人形のようにぴったりと口を閉じる。それから苦笑した。
「いやあ、すまん。こっちの方でも色々あったんで、ずっと心配してたんだ」
「うん。気持ちはありがたいけど……」
ようやく落ち着きを取り戻した男の笑顔に、ディランは肩をすくめる。それから彼の肩を軽く叩いてうながした。二人は並んで歩き、道行く人々に溶けこむ。遠くで聞こえる犬の鳴き声を気にしながら、ディランはひとつずつ質問に答えることにした。
「確かに南は物騒な感じだったな。そのぶん、仲介所には傭兵向きの危ない仕事がいろいろあった」
「へえー……って、おまえまさか、その『危ない仕事』に手ぇ出しちゃいねえだろうな」
「出してない、出してない。情報収集とか、割りのいい金持ちの護衛とか、その辺にしといたよ。傭兵稼業が旅の目的じゃないし、命は惜しい」
まるで親か何かのように心配してくる男に対し、ディランはきっぱり言い切る。男は「ならいいけど」と言いつつ、釈然としない顔をしていた。どうも信用されていないようだ。ディランは重ねて何か言うのを端から諦めて、強引に話題を切り替える。
「あと、嵐のことだけどな。ちょうどそれが理由で、一回長いこと足止め食らったんだよ。おかげで予定より帰ってくるのが遅くなった。それはいいけど……えらい惨状だな、これ」
ディランは、近くの建物を仰ぎ見る。頑丈なはずの石壁の一部は、強風で吹き飛んだのか、引きはがされて地面に転がる瓦礫と化している。元は何かの店であろう大きな家の一部は、風穴があいたようになっていた。
ディランの視線を男も追って、顔を歪めた。
「ドナはまだ被害が少ない方さ。山向こうのラスカなんかは、街中が水浸しらしい。二年に一回は来るんだよなあ、こういうやばい嵐が」
独白した男が、ふいに目を伏せる。よりいっそう濃い影が、心優しい彼を覆っているようであった。
「昔はそんなことなかったんだけどなあ。あの災害の後からか、こうなったのって」
ディランは眉をひそめる。
『災害』の後から気候が不安定になった。この国の者はよくそう口にする。『災害』というのは、二十年ほど前の豪雨のことらしい。が、それ以上に詳しいことを話す者はほとんどいない。その事実を
「――それより!」
空気を変えるように、男が大声を張り上げた。輝かせた目をディランに向ける。
「おまえは自分が無事なんだから、自分の心配をしな。そっちは進展あったのか」
いきなり水を向けられて、ディランはどきりとした。ためらいがちに言葉を返す。
「いや。何も、ない」
「……そうか」
眉を下げた男は言葉を探しているようだったが、結局、何も言わなかった。その代わり、ディランの肩を思いっきり叩く。
「痛いって! おまえ、そろそろ自分の馬鹿力を自覚しろ!」
「あ、悪い悪い。親方にも言われるんだよなあ」
気張らずにやれ、と、励まされたような気がした。
男と別れたディランは、一人で町をそぞろ歩き、頭の中で今後の計画を立てていた。
本当は、このままドナで食糧などを買い足して、明日にはまた旅立つつもりでいた。けれど、町の有様を見てしまうと、このまま立ち去るのは気が引ける。ドナは一応の拠点としていて、長く世話になっている町でもあるのだ。
悩んでいたディランはしかし、顔を上げると呟いた。
「とりあえずやれることはやってみるか。情報収集にもなるだろうし。まずはいつもの宿屋に荷物を置いて……と」
小声で自分の考えをまとめながら歩く少年は、しかし途中で足を止める。
困惑の色を映した人の声が、重なって聞こえる。近くで何やら不自然な騒ぎが起きているようだ。
道なりに少し行くと、町の広場に入った。国からのお触れが出されたり、集会が行われたりする場所だが、普段は町民の憩いの場である。
その片隅に、集団が見えた。軽めの胸当てや鎧をまとい、武器を持った屈強な男たち。おそらくは、
彼らの視線の先には――子どもがいた。
小柄だが、十五歳くらいだろうか。金色とも琥珀色ともとれる変わった目の色が印象的な少女だ。茶色の髪を二つにわけて三つ編みにしている。丈の長い紺色の上着と、緑のスカーフと、着古した
その彼女は、多数の男たちを前にまったく物おじしていない。背筋を伸ばし、きっと彼らを見上げた。
男たちは顔を見合わせ、それからもう一度、少女を見る。
「あー……嬢ちゃん。もう一度言ってみ?」
「うむ!」
少女は深くうなずくと、両手を顔の前で合わせた。
「私の護衛をしてもらえないだろうか! お金はきちんと用意している」
遠巻きにやり取りを見ていたディランは、よく通る少女の声を聞いて眉を上げた。歳の割に、ずいぶんと硬い口調でしゃべる少女だ。物騒なことではなさそうだし、そのまま通り過ぎようと思っていたのだが、風変りな子どもに興味をひかれる。もう少し、様子を見てみることにした。
男たちは眉をひそめて互いを見た後、苦笑した。
「おいおい本気か?」
「どうも、ただ世間知らずの娘って感じじゃねえけどな」
「でも、ガキはガキだろ。傭兵に払える金なんてたかが知れてる」
彼らはぼそぼそと言葉を交わし合う。それが聞こえてしまったのか、少女はすがりつかんばかりの勢いで男たちに迫った。
「た、頼む! 私一人ではどうにもできないのだ!」
少女の瞳は真剣だ。態度が堂々としているので動じていないようにも見えたが、その必死な様子を見るに、よほど追い詰められているらしい。ディランとしては同情心を刺激されるが、事情を知らない以上、安請け合いはできない。
頼みこまれる男たちの方もそれは同じだったのだろう。集団の中でいっとう大柄な、壮年の男が、大きな手で少女の頭をなでた。
「悪いな、嬢ちゃん。俺たちには先約があるんだ」
「そ、そうなの、か……」
「悩み事があるなら俺たちみたいな荒くれ者じゃなく、親切な町の人に言ってみることだ」
彼が優しく少女を遠ざけると、それに続いて他の男たちも広場から出ていく。ディランは彼らの複雑そうな横顔を見送って、ため息をついた。
先約がある、というのは、必ずしも悪意ある嘘ではないだろう。建物の再建、瓦礫の撤去に、臨時の警備員。彼らの仕事などそこらじゅうに転がっている。
どこもかしこも大変だ。考えていたディランの耳に、少女の声が聞こえてくる。
「町の人を巻き込むわけには、いかんというのに」
少女は広場の隅に座りこんでしまっていた。ディランは肩をすくめると、人のはけた広場の隅に歩を進める。人の接近に気付いていない彼女の、意外にたくましい肩を叩いた。
不思議な色の瞳が、大きく見開かれる。それは、痛いほどまっすぐに少年を捉えた。
一瞬、視線が絡み合う。形容しがたい沈黙を破り、ディランはあわくほほ笑んだ。
「今は町がこんなでな。地元の連中から仕事をたくさん頼まれてるから、傭兵も旅人も、よそ者の仕事を受ける余裕がないんだよ」
ディランがつとめて穏やかな声で説明すると、少女はしおれた花のようにうつむく。
「うむ……わかってはいるのだがな……」
そのまま動かなくなってしまいそうな彼女を見下ろした後、ディランは遠くに視線を投げた。町の北端には、ひとつだけ明らかに大きい建物がそびえている。ひびの入った看板を一瞥してから、いじける少女に目を戻した。
「せめて、こんな道端で人を捕まえるんじゃなくて、あそこに行け」
「あそこ?」
少女はようやく顔を上げた。ディランは北の方――つまり先程見た建物を指さす。
「仲介所。さっきの奴らみたいなのから商売人まで、仕事を受けたいって奴がたくさん集まってるはずだ。中の掲示板に依頼を張り出してもらって待つ、っていう手もあるけど時間はかかる。――って、君じゃどの道無理か」
説明している途中で気付いたディランは、顔をしかめる。仲介所に依頼を貼り出してもらえるのは、十八歳以上の人だけだ。報酬を払えるだけの経済力が保証できないからだろう。
ともかく、と彼は思考を切り替えた。
少女は少し黙り込んでいたが、どうも考えがまとまったらしく、勢いをつけて立ち上がる。それから、左の拳を胸に当てた。
「承知した。行ってみる。教えてくれてありがとう」
「おう、気をつけていけよ」
ディランは言って、そのまま少女の横を通りすぎようとした。が、すぐに足を止める。首をかしげている少女を振りかえった。
「もし誰も捕まらなかったら、町の東側の
少女は目をみはって呆然としていたが、ディランが「じゃ」と手を挙げると、深く頭を下げて駆け去ってゆく。少年は苦笑して、目的の宿屋の方へと足を向けた。
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