(14)傍らに在る人

「ただいま」

「お帰りなさい。今、食事を温め直すから、少し待っていて?」

「ああ」

 その日の夜。秀明の帰宅はかなり遅い時間になっていたが、いつも通り待ち構えていた美子は、手早く夕飯を出した。


「はい、どうぞ」

「いただきます」

(最近、連日帰りが遅いのよね。あちこち大変だろうとは思うけど……)

 桜から聞いた話を思い出しながら、美子が夕飯を食べ始めた夫の様子を窺っていると、その視線を感じた秀明が箸の動きを止めて不思議そうに声をかけてくる。


「どうした?」

「ううん、何でもないの。……あ、そうでも無いんだけど」

「どっちだ」

「ちょっと待ってて。時間が勿体ないから、食べながらで良いから聞いて欲しいの」

 そう言ってバタバタと慌ただしく食堂を出て行った美子を、秀明は「何だ?」と訝しんだが、彼女はすぐに薄い冊子を手にして戻ってきた。


「これなんだけど」

「……加積美術館設立計画書? 何だこれは?」

 並べられた食器の横に置かれた冊子の表紙を眺め、益々怪訝な顔になった秀明に、美子が説明を始めた。


「加積さんのお屋敷に、日本画のコレクションがある事を知っていた?」

「いや、初耳だ」

「訪ねる度に玄関や廊下に飾ってある絵が違っていたけど、それらはほんの一部で、奥の保管庫に完璧な保存状態でしまってあるのが、ざっと二百から三百点あるのよ。一度中に入れて貰った事があるんだけど、個人所蔵としては凄いのよ? さすがに国宝級は無いけど、重要文化財の指定を受けている作品が何点もあるし、それ以外でも著名な画家の逸品がごろごろしているの!」

「俺は美術品に関してはからきしだから、説明を受けても分からないだろうな。それで?」

 興奮気味に語って聞かせる美子を微笑ましく思いつつ、秀明が苦笑いで続きを促すと、最初は勢い良く喋っていた美子の口調が、徐々に重い物へと変化してくる。


「その作品全てと、建築費と運営に関わる費用を捻出する為の資産を、公益財団法人に寄付して美術館を作る事になったんだけど、その財団の理事に就任してくれと言われて。実は……、軽く説明を受けた後で……、今日色々と、署名してきちゃったんだけど……」

 そこで一度話を止めて自分の顔色を窺ってきた美子に、秀明は(またあっさりと口車に乗せられたのか)と、盛大な溜め息を吐いてから小言を言おうとした。


「……あのな、美子」

「で、でもっ! 本当にちゃんとした美術館みたいだし! 前々からあのコレクションを、じっくり鑑賞してみたいなって思っていたし!」

「分かった。もう良いから」

 途端に焦った調子で弁解してきた妻に、秀明は説教するのを諦めて宥めた。しかし美子はそのまま力説する。


「設立場所もあの町だし! 町内在住者は入館料は特別割引にして、大人二百円で小人は無料って太っ腹で採算度外視な設定になっているし、やっぱり子供の頃から本物に触れさせるのは、情操教育上」

「あの町に作る?」

「え、ええ……。そこに書いてあるけど」

 何やら急に顔付きを険しくして尋ねてきた秀明に、美子は少々驚きながら冊子を指差した。すると箸を置いた秀明が早速それを取り上げて、中身の確認を始める。


「なるほどな。あの妖怪じじい……」

「どうかしたの?」

 苦笑いしてボソッと呟いた秀明に今度は美子が声をかけると、秀明が顔を上げて彼女に確認を入れた。


「これに書かれている日付を見ると、各種の申請手続きが始まったのが、じじいが亡くなる少し前みたいだな」

「ええ。桜さんもそう言っていたわ」

 するとここで、秀明が予想外の事を言い出した。


「実は……。最近、町の方がゴタゴタしていてな」

「あら、どうして?」

「あの町は、この数年で周辺とは比べ物にならない位、急激に発展してきたから、利権狙いの連中や甘い汁を吸おうとするろくでもない奴らが、色々寄って来ているんだ」

「確かにそういうハイエナもどきは居るかもね。相当厄介なの?」

「今の所、それほど問題にはなっていない。目先の欲に捕らわれた、馬鹿な親父やくそジジイがポロポロと出てきてるが、良治達に旨すぎる話には乗らない様にきちんと言い聞かせているし、桜査警公社の研究研修センター経由で逐一情報を集めて、その都度手を打っている」

 それを聞いた美子は、少し驚いた。


「そう言う理由で、あそこを作ったの?」

「二次的な利用法だがな。だが正直に言うと、これまでは俺の背後にあの妖怪じじいが居ると思われて、物騒な筋からは積極的に手出しされなかったのが大きい」

「それって……、下手にあの町に手を出したら、加積さんが黙っていないと思われていたって事?」

 美子が推測を述べると、秀明は素直に頷いた。


「そういう事だ。だがあのじじいが亡くなった後、早速ごそごそ動き始めた連中が居て、正直うざかったんだ。だがこれで、少しは大人しくなるかもしれない」

「どうして?」

 その理由が全く分からなかった美子は不思議そうに尋ねたが、何故か秀明は冊子を指で軽くつつきながら、おかしそうに笑った。


「この公益財団法人の理事長は加積夫人で、お前を含めた八人衆が全員理事になっているだろう?」

「八人衆って何? 勝手に名前を付けないでよ」

 そこで憮然とした美子には構わず、秀明は説明を続けた。


「あの町に『加積』の名前が付いた美術館を建てて、その理事に加積の各事業を引き継いだお前達が、揃って名前を連ねる。この意味が分かるか?」

 そう問われた美子は真剣な表情で考え込み、一つの結論を導き出した。


「それって……。あの町に手を出したら、加積さんが亡くなった後でも、私達全員が黙っていないと分かる筋には分かる様に、暗に脅しをかけているって事?」

 それに秀明が深く頷いた。


「そういう事だ。その威光も何十年も保つ筈はないが、二十年。いや、あと十年、変な手出しをされなかったら、盤石の体制にできる。白蟻どもに食い荒らされるのは、真っ平御免だからな」

「だから秀明さんの為に、これの設立を?」

「……じじいのちょっとした気まぐれだろうがな」

「もう、あなたったら」

 素っ気なく言った秀明に窘める視線を向けた美子だったが、それを受けた秀明は、滅多に見せない柔らかな笑みを浮かべながら言葉を継いだ。


「忙しくてこの前の百箇日法要には顔を出せなかったが、一周忌には必ず出席するからな」

「分かったわ。お互い、予定はしっかり空けておきましょうね」

 秀明の台詞が、彼なりの最上級の感謝の言葉であると分かっている美子は、満面の笑みで頷いた。そして冊子を食卓に置いて再び食べ始めた秀明を眺めながら、さり気なく問いかける。


「ところで、あなた」

「何だ?」

「さっき町の方でゴタゴタしている話を初めて聞いたんだけど、最近他に、私に隠している事は無い?」

「何も無いが?」

「……嘘ばっかり」

 例の記事に関して尋ねてみたものの、予想通りしらを切った秀明に、美子は苦笑いしながら軽く文句を言った。すると秀明が僅かに眉を顰めながら、先程の言葉を繰り返す。


「本当に、何も無いぞ?」

「はいはい。そういう事にしておきましょうね。本当に困ったさんなんだから」

 呆れた口調で美子がそう言うと、秀明は明らかに気分を害した様に言い返してきた。


「あのな。お前だって、俺に話していない事があるだろう?」

「例えば?」

「そうだな……。どうして俺のイメージが兎なんだ?」

 何気なく手元を見下ろし、目に入った箸置きから連想した事を秀明が口にすると、美子が笑って言い返す。


「あら、もう何年も使っているから今更の話だし、実はそれが気に入らなかったの?」

「そうじゃないが。前々から、理由が気になっているだけだ」

「理由ね……」

 そこで美子は、正直に理由を告げようかと首を傾げて考え込んだが、やっぱり秘密にしておいた方が面白そうだとの結論を出し、笑って答えた。


「やっぱり秘密よ」

「……もう良い」

 相手に全く吐く気が無い事を瞬時に見て取った秀明は、少々ふてくされて箸を取り上げて食事を再開したが、そんな彼を美子が宥めた。


「そう拗ねないで。ここの所、随分忙しくしていたみたいだけど、あと四十年は擦り切れてぼろ雑巾になられたら困るから、今日は命の洗濯をしてあげる」

 にこやかにそんな事を言い出した美子を見て、秀明は溜め息を吐いてしみじみと言い出した。


「お前って女は……。本当に見かけによらず、人を使うのと転がすのが得意だな」

「それは、秀明さんに限っての事だと思うけど?」

「俺以外にも、ごろごろ居るだろうが」

「確かに、色々便宜を図ってくれる人はいるけど……」

 僅かに困惑した顔つきになった美子だったが、ここで彼女の手を秀明が左手を伸ばして掴みながら提案してきた。


「よし、それならこの際明日は休んで、本格的に命の洗濯を」

「役員待遇の部長様が、何を言っているの。ちゃんと出社しなさい」

 途端に左手をペシッと叩かれて秀明は苦笑したが、全く恐れ入る事無く交渉を続けた。


「分かった。ちゃんと出社して、仕事をする。その代わり、今夜はしっかり構ってくれ」

「お腹の子供が驚かない程度にね?」

「分かってる」

 どうやらそれで完全に機嫌が直ったらしい秀明が、黙々と食べ進めるのを眺めながら、美子は笑いを噛み殺した。


(全く。頭は良すぎる程良いのに、変な所で馬鹿なんだから。こんな面倒な人を他の人に任せたら、誰でも手を焼くに決まってるわよね)

 そんな事を考えながら一人で笑っていると、秀明から怪訝そうに問われた。


「どうした、美子。何か面白い事でもあるのか?」

「ううん。単なる思い出し笑いだから、気にしないで」

「そうか」

 そして再び食べ始めた夫を見ながら、美子は約束の五十年後には、きっと秀明とあの町で暮らしているだろうと確信していた。


(完)

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半世紀の契約 篠原 皐月 @satsuki-s

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