冬の手前で、雪を待って
カワサキ シユウ
第1話
私は、本物の雪が降るのを待っている。
周囲を山に囲まれて同じ空気が循環し続けるだけの平和だけど退屈な町、この旭川で、私は、本物の雪が降るのを待っている。
特に用事もない休日は、よく窓の外を眺めて過ごす。旭川の道はまっすぐで、だから通りに面した私の家からは遠くの方まで見渡せる。川も橋も山までも、窓の向こうに見える。
私はあの山の向こうに行ったことがない。そこにある街を想像して私はよくうっとりとした気持ちになる。そこは私の知らない街だけど、私にとって思い出の街だ。
私はそうして窓の外を眺めながら、本物の雪を待った。
母は窓際でずっと外を見ている娘が退屈しているのだと勘違いをして、時折おつかいを頼んだりする。私は決まって不機嫌になるけれど、それを断ったことはない。その日も私は黙って引き受けた。買い物メモとお財布と自転車の鍵を持って家を出ると、私はますます不機嫌になった。旭川の町並みは、いつも灰色がかっていて、私を憂鬱な気持ちにさせる。自転車で走る石狩川の川沿いの道はただひたすらまっすぐで面白みがない。だからといって町中を走ろうとすると碁盤の目のように区画整備された道のせいで何度も信号に引っかかって酷く時間がかかる。だから私はいやいやながらも何かの試練みたいに長いこの道を淡々と走るのだった。
駅の近くまでやってくると人の数は急激に増加する。旭川は広いのに狭い町だ。そこに住む人の数はきっとそれほど多くもないのに、だだっ広い土地が人々に割り当てられ、その結果、駅の周りにいろんな施設が集中して建てられている。駅から遠い場所にまで多くの店を展開するほどの需要は今のこの町にはなかった。そういったところには小さなスーパーやコンビニや個人経営の小汚い商店なんかが点在するだけだ。町の人々は点と点を結ぶように広い町の中を移動する。その二つの点以外はすべてただ通り過ぎるだけの無用の土地だ。そんな無用の土地が視界いっぱいに広がるばかりの退屈な町に、私は住んでいた。私の家だってほとんどのこの町の住民にとっては無用の土地の一つに過ぎない。そんなことを考えるとき、無性にこの町を出ていきたい衝動に駆られる。この町は私には広すぎる。
私が本物の雪を待つのは、そのせいかもしれない。
電車が東に走り去っていくのに遅れて駅ビルから人々がわらわらと吐き出されていった。札幌から来たのだろうか。
遠くからやって来た人々を見ていると私はあの人のことを思い出す。あの人は電車で来たのではないのにと、私はおかしく思う。あの人は山を越えて、南からやって来たのだ。本物の雪を見たあの日、あの人はそう言っていた。
あの人と出会ったのは酷く寒い雪の日だった。
私はその日、本物の雪を知ったのだ。本物の雪は白く輝いて、そして、燃えるようにあたたかい。
けれどもあの人が南に帰ってしまってから、本物の雪は私の目の前からさっと隠れてしまった。灰色で重苦しく冷たい塊だけが町中に無残に取り残された。取り残されたばっかりの塊を見渡した時のどうしようもない寂寥感を私は今でも覚えている。
それ以来、本物の雪は一度も降らなかった。
買い物を終えて部屋に戻ったとき、ハンガーに掛けたばかりの黒いジャケットに小さな白がゆらゆらと輝くのを私は目にした。顔を近づけて見るとそれは一匹の雪虫であった。
――あぁ。
私はゆるゆると部屋の窓を開ける。
窓の外には遠くにそびえる雄大な山へと続く長い道が果てしなく伸びている。その道には一台の車も走っていなければ一人の人も歩いていなくて、それはまるで、まるで、誰かを待っているみたいだった。
開け放った窓から先程の雪虫がふらふらと飛び去っていった。
私は手をあわせて祈った。
今年もこの町に、冬がやってくるらしい。
冬の手前で、雪を待って カワサキ シユウ @kawasaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます