第9話

 次の日には沢瀉の家に行って、荷物をまとめたが、ほとんど持っていくものはない。

 荷造りは早々に終わったものの、祖母――沢瀉壬子ミズコへの挨拶が長々しくてなかなか戻れない。

 相棒――造龍寺もその場にいるが、退屈そうにあくびをかみ殺している。

 壬子は無地の着物を着て、まるで何かに感激するように顔を緩めた。


「倫之助。お婆はこの日がくるのをどれだけ待っていたか……。このお国を守るため、これからも精進するのですよ」

「あー……はい」


 すでにこの言葉は5回ほど繰り返されている。

 最初ははっきりと返事をしていたが、もう5回もなれば曖昧だ。


「壬子さま」


 襖の向こうから、半蔵の声が聞こえてくる。


「お入りなさい」

「失礼します。あのう、壬子さま。そろそろ、お時間ですが」

「ああ……もうそんな時間? では、造龍寺さん。倫之助をよろしくお願いいたしますね」

「ええ」


 頭を下げた後、さっさとここから出て、自室に戻った。

 自室は完全な和室だからか、収納場所がほとんどない。

 だから必然的に物も最初から少ないのだが、ダンボール三つほどで収まってしまう事に造龍寺は驚いていた。


「おまえ、荷物これだけか?」

「ええ、まあ……。特に、思い入れもないし」

「ふーん。別にいいけど」


 部屋に積んであった三つのダンボールを庭に停めてある車に積む。

 半蔵と造龍寺、倫之助でそれぞれ持ったからか、すぐに終わってしまった。

 祖母に挨拶したし、ほかにもうすることもない。

 父親はどうせまたすぐ顔を合わせることになるのだから、挨拶も何もないだろう。


 倫之助は自らの生家を振り返ることなく、まっすぐに車へと乗り込んだ。

 ――だが、車の中には半蔵が当たり前のように乗っている。


「半蔵、どうしたんだ?」

「俺も坊ちゃんと一緒に寮に入ることにしたんですよ!」


 嬉々として笑っている半蔵は、邪気も何もない。

 まるで当たり前だとでも言っているかのようだ。


「は? でも、家は……」

「いったん暇を頂きました! 大丈夫です。坊ちゃんのお世話はさせていただきますから!」

「何が大丈夫です、だよ……。いいよ、別に」

「まあまあ、そうおっしゃらず!」


 いつの間にか車が走り出していた。

 運転しているのは造龍寺で、呆れたような顔をしている。


「……ん?」


 何分かたった時、造龍寺が不審そうに目を細めた。

 都心から外れた場所――住宅地とは言えない、しかし工場が建ち並ぶ場所で車を止める。


「どうしたんですか」

「ああ」


 運転席から降りていく造龍寺の後をついてゆくと、当然のように半蔵もついてくる。

 薄暗い廃工場が並ぶ場所は、梅雨だというのにどこか肌寒い。

 灰色の風景のなか、造龍寺がまっすぐ奥へと入ってゆく。


「……このにおい」


 思わず鼻に手を当てた。

 なにかが腐ったようなにおい。

 これは間違いなく、人間の肉が腐った臭いだ。


 工場の一番奥まった場所。倉庫に使われていたのだろう、それでも所々さびて茶色に変色してしまっている。

 鉄の扉はすでに開いていて、中から強烈な腐臭が漂ってきていた。


「……いるな」


 ぼそりと造龍寺がつぶやく。


「坊ちゃんはここで」

「……いや。俺も行く」

「いい度胸だ。じゃ、行くぞ」


 にいっ、と笑うと、倉庫内に足を踏み入れていく。

 強烈な臭いからすると、犠牲者は5、6人だろう。それも、かなり前から行方不明になっていたはずの者だ。


 暗い倉庫の奥から、確かに陰鬼の気配がする。

 血か肉か、すする音さえも聞こえてきた。

 だが、それも――すぐに止まる。こちらに気づいたのだろう。


 かさかさと、まるで虫が這うような音がした後、倫之助は目を見開いた。


「………」


 天井。

 ひどく高い天井に、それ・・はいた。

 巨大な甲虫。黒く、硬化した健翔。どこからどう見ても、甲虫だった。

 だが、その顎からは血が滴り、倫之助たちの足元に落ちてくる。


「……来るぞ」


 ぶん、と膜質の裏側にある翅を羽ばたかせ、こちらにまっすぐ向かってきた。

 血をあたりに巻き散らかしながら。


 あまりにも速すぎた。


 倫之助の真っ赤な眼鏡を弾き飛ばし、そのまま体が思い切りコンクリートの地面に打ち付けられたのだ。


「坊ちゃん!」


 半蔵が叫び、風彼此――六連星を握りしめた。

 しかし、甲虫はすでにそこにはいない。倫之助はのろのろと起き上ると、頬をシャツの袖でぐいっと拭う。


「まいったな……」


 ぽつりとつぶやくと同時に血の臭いがする方へ、ふたたび甲虫が飛び込んでくる。

 それは正確性がなく、あまりにも予測できない。


これ・・は、試験じゃないんですよね。造龍寺さん」

「そのはずだが。まあ、いい機会だ。おまえの力をちっと、見せてもらおうか。俺と半蔵は手を出さない。その方が手っ取り早いだろ? 糸巻さんには俺からきちっと報告しておくさ」

「何を勝手なことを……」

「半蔵だって、何回もテストしただろ。これはお決まりのパターンだ。安心しろ、危なくなったら助けるから」


 半蔵はしぶしぶ頷くと、倫之助から一歩、足を引いた。

 甲虫の羽音が耳朶に響く。


 倫之助の手には、すでに楊貴妃が握られていた。

 刀身は赤く染まり、天井の近くに割れたガラス窓から入ってくる陽の光に反射して、よけい赤く見える。


 甲虫はその光に誘われるように、まっすぐこちらに飛ぶ。

 ぎらりと鈍く輝く楊貴妃を携え、その甲虫に切っ先を向けた。

 瞼と頬を切られ、血が出ているがその痛みは今はない。

 ただ、瞼を斬られたせいで片目は使い物にならない。


「――……」


 半蔵と造龍寺はそれをじっと見つめている。

 勝てる見込みは、分からない・・・・・

 かなりの年月をともにした半蔵でさえ、倫之助の本気はまだ分かっていないのだから。

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月牙の剣 イヲ @iwo000

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