白い海

浅野 紅茶

海、余白、その一輪の花。

海に沈んでるようだ。

息苦しくて、重たくて、暗い。この街に俺の居場所はないのかもしれない。あるいは見えてないだけなのか。いずれにしろ、この世界は俺には丸く見えない。いくら地球が丸くて青くてもこの世界は人を閉じ込めるための真っ黒な箱だ。でも、そこに一つでも穴があったなら、もしも一筋の光が差したなら。俺はそこに手を伸ばすのだろうか。彼女の手を掴むことができたのだろうか。


「知ってる?海の青は空の青じゃないんだって。映して他からその色を借りてるわけじゃなく、自分で青く光ってるの。それってとても美しいと思わない?」

中学3年生のころの話だ。真っ白な病室。壁際のベッドで体を起こしている彼女は開いた窓から流れてくる風に髪をなびかせている。それが心地いいのか、目を細めながら窓の外を見ていた。青い空が一面に広がっているというのに、それでも彼女は海を語る。海が愛おしい、まるでそう言っているように聞こえる。

小さな街の小さな病院。俺と彼女はそこで出会った。この病室に入れられた当日のことだった。彼女が海をみたいと言ったのは。でも、この街に海はない。四方を山に囲まれ、周りに見えるのは木々と山々のみ。夏のシーズンを過ぎたこの時期ではテレビでも海の中継などはされない。もともと3チャンネルしか映らないこともあるが、海に関する情報はほとんどない。そもそもこの街の住人で海に行ったことがあるのはせいぜい十人程度ではないかと思う。だから彼女が一体どこで、なぜ海に憧れるようになったのかはわからない。ただ彼女はそれでも息を吐くように毎朝、海をみたいというのだ。

俺が知っている彼女の情報は黒川 冬華という名前と病院食のほとんどを毎回残すこと、そして海に憧れていることだけだった。なぜ彼女が病院にいるのか、家族構成はどうなってるのか、年齢、誕生日、血液型は何も知らない。ベットを並べて、毎日寝て、飯を食って、テレビをぼーっとみて、たまに彼女と話す。四六時中、彼女と一緒にいるというのに何も知らないのだ。それがなぜか虚しくて胸につっかえる。そんな思いをした。幸いというべきなのか、ただの骨折で入院してた俺はそんな消化不良のまま1週間で退院をし、松葉杖での生活をした。小さな街だ、彼女ともどこかで会うだろうと思いながら病室を出たのを覚えている。それでも俺が彼女に出会うことはなかった。病室にいるかもしれないが、お見舞いをするような仲でもないし、そこまで彼女に固執していたわけでもない。一か月も経てば、それはただの想い出となり、一年も経てば記憶として保存されて思い出すこともなくなった。

それでも時々、ほんとたまにふと思うのだ、今彼女はどこで何をしているのだろうかと。俺のことを覚えていてくれているのかと。


コラ、と怒る声が教室に響いた音で目が覚めた。怒られていたのは俺ではなかった。数学の授業、非常に退屈だと思う。わからないうえに、この内容を大人になっていつ活用する機会があるのか、ないならばなぜやるのか。不思議で仕方ない。学生ならば誰もが思っていることだろう。先生が黒板に文字を書く音も、それを生徒が書き写す音も、隣の席のやつがヒソヒソ話す声も、それになんの価値も見出せない。ただ髪を撫でる心地いい風を浴びながら、外を眺めた時だった。また彼女を思い出す。最近としては本当にしばらくぶりだと思う。二か月、いや三カ月ぶりだったろうか。目を細め気持ちよさそうに笑う彼女がいた。

「ちょっと、夏樹!さっきからちゃんと授業聞いてる?」

後ろからシャーペンで肩を叩かれる。俺は無言でシャーペンをあしらうとムキになってか、幼馴染の春香は執拗に肩を揺らしてきた。鬱陶しい。

「あんたただでさえ、テスト危ないんだから授業くらい真面目に受けなさいよ!」

小さな声で喋ってるはずなのに覇気が強い。嫌な圧力を感じつつも、適当なことを言って流すのが賢明だろう。

「東京の大学を志望して、それを叶える学力も財力もある優秀な春香さんとは違ってここに骨を埋めようと思ってる俺には、勉強は必要ないんだよ」

「学力はちゃーんと勉強してるから、財力だって奨学金をもらうつもりよ」

「そこまでしても大学に行きたいっていう気持ちが俺にはない。したがってそれに準じる勉強もする必要はない」

俺の発言に春香がため息をついたのがわかる。それもそうだ。この街は小さいあまりに皆、それぞれの家庭が農家や商店、小さいな会社などをしてそれを継ぐ先がある。中には春香のように上京しようと思っているやつらも近年は増えているようだ。しかし、俺にはそのどちらも保証がない。理由としては単純に親がいないから。親の仕事も継げなければ、東京に出る財力もない。仮に金があったところで別に東京に行きたいとも思わないけど。つまりはそんな状況なのだ。春香が心配してくれるのはありがたいし、その気持ちも他人事のように言えば、わからないこともない。でも、だからと言って向かっていく夢や理想もなければ、こんな狭い場所でやりたいこともないのだ。それに対する惜しみない努力とか以前の問題なのだ。小さな世界に身を預けてるからこそ、それに縛られて大きな世界が見えない。わかっていても、それがわかっているつもりなのか、本当にわかっているのか自分ですらもわからないのだ。

「とにかく、今は勉学以外はげむことがないんだから。やっとけばいいじゃないの。なんでそんなにやりたがらないのか私にはわかんない」

「俺からすれば、こんな退屈なものに時間を裂こうとするお前の気持ちの方がわからねーよ」

「私には看護師になりたいっていう夢があるの。そのためなら、このくらいなんでもないわよ。東京の受験生ならもっとやってる。私なんてやってない方よ」

結局、夢があるからできるんじゃないか。

前提が違うことを春香はなにもわかっていない。モチベーションが違うのだ、俺が同じことをやってうまくいくとは思えない。

「看護師になりたいなら、俺のことなんて心配してないで先生の話を聞けばどうだ?」

「あんたね、私は夏樹を心配して...いえ、なんでもないわ。勝手にしなさいな」

諦めたようで諦めきれてないように、春香は頬を膨らましている。しかしそういいながらも、また俺がサボっているとガミガミといってくるのだ。余計な御世話というべきか、ありがたいお節介というべきか。とにかく幼馴染というよしみで春香はなにかと俺をかまってくる。別に俺だって抗いたくて抗っているのではない。ただ、ないのだ。夢というもの、目標というものが。

それにできることも少ない。いままでスポーツをやってきたわけでも、何かを極めてきたことも興味を抱いたこともない。学生として季節が移っていくのを幾度も眺めてきただけなのだ。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が去って、また春が来る。18年間生きてきて学んだことと言えばそのくらいのもんだ。

そういえば、彼女はどうだろうか?海をみたいという夢は叶えられたのだろうか、それとも未だ山に囲まれて生きていて海に憧れ続けているにだろうか。

そう思った時、3年間も放っておいたことが急に気になり始めた。彼女は今どこでなにをしているのか。名前しかわからないけど、小さな街だ。まだいるのなら探すのは然程むずかしくない。町の外に出ていたら諦めるだけだ。その程度の好奇心だったのだ。帰りに病院に寄って、彼女と自分を担当していた看護師にでも聞けばわかるだろう。その時はそう思っていた。

けれど、状況は思っていた以上にシンプルで、思ってた以上に深刻だった。

下校時に病院の前を通ってみた。別に誰かに言い訳しなければいけないわけではないのに、たまたまそこを通りかかったという建前を頭の中で繰り返してた。病院は正直嫌いだ。消毒液のにおいも妙に薄暗いのも、あたりが真っ白なのも、なんとなくだが気味が悪い。そう言ってしまうとお世話になった病院だというのに失礼ではあるが、苦手なのだ。どうしてもあの空気には馴染めない。今思うと短い間ではあったが、病院の一室に留まることができた過去の自分を称賛したくなってくる。

二重扉を潜ると、受付に見知った看護師さんと目があった。

「あら、夏樹くんじゃない。どうかしたの?また、骨折?」

「骨折だったらこんなとこに平気そうな顔で来ませんって」

白いナース服に身を包んだ彼女は薄く笑って、それもそうねと言う。あれから三年は経つが、この看護師さんとはよく会う。狭い町に住む宿命とでも言うのだろうか。

「それで?怪我でもなく風邪でもなさそうだし、なんの用なのよ」

「いや、それが...。ほら、覚えてます?俺が入院してたときに一緒の病室だった。なんとなく、今どーしてんのかなーとか思いまして」

「あー、黒川さんね。そうか、夏樹くんはあの時同じ病室だったっけ?そうか...」

その時、少しばかり看護師さんが怪訝そうな顔をした気がした。

「どうかしたんですか?」

「いえ、なんでもないの。彼女ならあなたのすぐ後に退院してしまったわよ。今はなにをしてるかわかんないわ」

帽子からはみ出た前髪を焦ったように直しながら、仕事が残ってるからと、彼女は足早にその場を去って行った。普段ならば、なにも思わないのだろう。あ、そうなんだと思って終わるところだ。けれど、なぜかその時ばかりは胸騒ぎというほどのものでもない、だけど確かにあるかすかな違和感を感じとってしまった。看護師さんの言うことを信じてなかったわけではない。それでもなんとなく、違和感にしたがって俺は元いた病室へと向かった。苦手だった白い壁と深緑色の廊下を抜けて、奥の方にある病室を見つける。扉を開く前、鼓動が跳ねた気がした。そして、思う。

やっぱり。

白い病室。窓からもれる風に髪をなびかせて、彼女はそこにいた。

「あら、お客様?」

彼女が薄く笑う。


「ごめんなさい。騙すつもりはなかったの。ただ、彼女たっての希望なのよ。彼女のことは彼女に関わった者に秘密にするって。夏樹くんの場合、たった一週間だったし関わったって言えばいいのかどうかわからなかったから、迷ったんだけど...。一応ね。患者の守秘義務も看護師の仕事だし、ごめんね」

あの時感じとった違和感はその迷いだったのかと思う。

「いえ、仕方のないことですよ。だいたい、三年も経って訪れようと思う俺もどうかしてましたし」

「そう言ってもらえると助かるわ。あ、これお詫びというか、ただのコーラだけど。好きだったわよね?」

そう言って彼女はペットボトルの冷えたコーラを並んで座っているベンチの上に置いた。

「いただきます。それにしてもよく覚えてましたね。俺がコーラばっか飲んでたこと」

いやなんというか、と彼女は前髪を再びいじった。

「職業病ってやつ?病院に勤めてるとさ、病院食のあれが嫌いだとか、味が薄いだとかのクレーム多くてさ。私が作ったわけでもないのに」

愚痴をこぼすように口を少しとがらせる。勉強を嫌がる俺と一緒なのだろうか。大人でもこういうことを感じてると思うと少しホッとする。

「だから覚えちゃうんだよね、自然と。それに夏樹くんとは結構会ったりもするし印象強いっていうか」

そんなものなのか、と思いコーラを仰ぐ。渇いた喉を通る炭酸はやっぱ格別というか最高に美味い。不意に大人がビールを飲むのはこういうことなのだろうかなんて思ったりもする。看護師さんもビールとか飲むのだろうか。意外とタバコなんかも吸いそう。なんというか、こういうできる美人ってプライベートでは意外とラフで格好いい生き方してそうなイメージがある。仕事終わりに疲れたとか言いながらシャワーをサッと浴びてビールでも片手におつまみを食べてそうだ。そう思うと彼女の睫毛が長く鼻筋の通った綺麗な顔も笑えてくる。

「ていうか、夏樹くんって私のことちゃんと覚えてるの?」

「はい...。え、どうしたんですか急に」

「じゃー、問題です!私は誰でしょう!」

質問に彼女のガサツさが垣間見た気がしたのは忘れることにしよう。

「...か、看護師さん?」

「ぶっぶー!やっぱ覚えてないじゃないの!」

彼女は手を胸の前で大きくクロスさせて怒った顔でこっちをみる。

「夏樹くんったら、黒川さんのことばっかでかかりつけの看護師のネームタグすらみてないんだから。ほら、ここ」

そういうと自分の胸元についたプレートを細長い指でさした。

「飯塚...さん?」

「そっ、飯塚 秋穂。仲良い人には秋ちゃんとか呼ばれてるけどね。でも、私としてはちょっとババくさい名前だからあんま気に入ってないんだよね」

「そうですか?いい名前じゃないですか、なんかこう秋の夕暮れに少し冷たい風が吹いて稲穂が揺れてるようなゆったりとしたイメージで俺は好きですよ」

そういうと彼女は少し俯いて顔を隠す。

「そ、そんな褒めたってなにも出ないわよ。あっ、もう休憩時間終わりだから!またね!」

そう言って彼女は駆け足に去っていった。廊下の角を曲がる直前、彼女は振り向いて、ほんとにごめんね、と廊下に軽く響く程度に言った。返事に代わりに頭を軽く下げると、秋穂さんは角を曲がって行った。そのあと、病院のロビーにあったソファーに腰をかけた。壁にあった時計が19:00をちょうど示している。学校が終わった時間を考えると二時間くらいいたことになる。結構いたな、と思いながらも体感はもっと短かったように思う。

時は遡るが、病室に入ったあと、俺は彼女にいくつか質問を受けた。

「とりあえず、座ったらどうですか?」

そう言って彼女は自分のベッドの脇に置いてある椅子を指差した。俺は、軽く頷いて座る。久しぶりに見る彼女はまた少し細くなったようにも思ったし、一段と綺麗になったというか大人っぽくなったような気もした。

「あなたは、なんというお名前かしら?」

「新谷 夏樹って言います」

そういえば、入院した時、自己紹介をしなかったのを思い出す。病室の表札をみて、彼女の名前は認識していたが、なんとなく名前すら認知されていなかったのが悔しい。

「それで、ここへはなにをしに?」

急に答えにくい質問がきたと、答えを探す。名前も覚えてないのだ。3年前にこの病室にいて、今日は会いに来たと言っても不審がられるだけだろう。咄嗟に嘘をつくことにした。

「...びょ、病院には友達のお見舞いにきて、この部屋の扉の隙間から綺麗な人が見えたもので、扉を開けてしまいました」

って、なにを言ってるんだろうか、俺は。嘘にしても無理があるし、何より恥ずかしい。これではナンパまがいではないか。

嘘だとばれたのか、彼女はクスクスと笑い始め、そうなのね、と明るい声で言った。嘘だと気づいても見逃してくれたのだろうか。これじゃ、嘘つき損かもしれない。

「それじゃあ、私のお見舞いっていうわけではないのね」

本当はそのつもりなんだけど。俺は咄嗟に見舞い用に買ってきた林檎の入った袋を彼女の見えないように足でベットのしたに追いやる。

「質問の続き、あなたは高校生?年はいくつ?」

こんなに話す人だっけと思いながらも西高3年、18歳ですと答える。

「そうなんだ。じゃあ、一つ私の方がお姉さんなのね。あ、でも私の誕生日は冬だし数え歳的には二つ違うのかな。ところで、そこにある林檎はお見舞い用じゃないの?」

しまった。仕方なく、俺は足元の林檎を取り出し彼女に手渡す。

「いいの?お友達のじゃ」

「別にいいですよ。お見舞いなんて所詮気持ちなんですから」

袋をたたみポケットに突っ込む。まあ、初めからあなたのために買ってきたんですけど、と心で呟いてみる。

「ありがとう。わー、綺麗な林檎。あとで美味しくいただくわね。それと、最後の質問!あなたは海を見たことがある?」

やはり、海に対する憧れは健在か。

「いえ、ないです。冬華さんこそ、見たことあるんですか?」

こんな安易に聞いたことを俺は後悔することになる。彼女がなんで憧れているのか、憧れて続けているのかも知らないのに、安直すぎた。ただ、気になって口に出てしまったものは戻すことはできない。

さりげなく目を逸らし、チラッと彼女を伺う。すると困ったような顔をした彼女がいた。それでもゆっくりと口を開き、言葉を紡ぐ。

「わかんない。私ね、記憶が1日で消えちゃうの。昨日何を食べたかも、なんのテレビがやってたのかも、担当の看護師さんの名前も、私が何をして何でここにいるのかも、何もかも忘れてるの。記憶喪失の類らしいんだけど、私の場合、それが毎日繰り返されるの」

その言葉に俺は息を飲んだ。急に俺のことを覚えてなかったのも、関わりがある者と会いたがらないのも合点がいった。彼女は自分が覚えてないことで、相手を傷つけたくないのだ。

「でも、毎朝起きると海の映像だけが波のように頭に流れこんでくるんだ。そこに私の記憶のヒントがあるんじゃないかって思ってるの。だから見たことあるかどうかはわかんないけど、見てみたい」

「行ったらいいじゃないですか。そんな遠くないと思いますよ?なんなら俺が案内しましょうか?」

そういうと彼女は申し訳なさそうに笑って、静かに首を振った。

「私が入院してる理由はね、記憶がないのともう一つあるの。入院の理由としてはこっちの方がメインみたい」

そういうと彼女は自分足にかかった布団を勢いよく剥いだ。すると上半身に纏ったパジャマと同様の模様のパジャマを履いた細くて白い足があらわになった。そして彼女は言葉を発する。

「今、私は、足を動かそうとしています」

しかし、彼女の足は動かないどころかピクリともしない。

「下半身がね、麻痺してるんだって。ほら」

そういうと彼女は自分の横にある棚を指差した。正確にはそこに貼った無数のメモのうちの一つ。そこには今から約5年前の日付と彼女の下半身が麻痺をしている内容が丁寧な字で記してあった。

そこで思い当たった話が一つあった。俺は入院中、彼女が立ち上がるのを見たことがない。就寝中に立っていたとしてもトイレなどはどうしてたのだろうか、と思ったところで答えに行き着いた。彼女が食事をほとんど口にせず残してた理由。思えば、飲み物すらほとんど飲んでいなかったように思う。

「私、記憶がない分、人を見る目に長けてるみたいでね、夏樹くんは察しがいい子だと思うの。でも、女の子のそういう内容のこと、あんまり嬉しくないな。察しがよすぎるとモテないみたいよ」

「すいません...」

「いいわよ。仕方のないことだもの。でもね、私は記憶のことも足のことでもなるべく他の人には迷惑をかけたくないの。だって、覚えてない人に助けてもらうってとても失礼なことじゃない。だから、できることは自分でやりたいし、できないことなら最小限にしか手伝ってもらわない」

それだから、それゆえに彼女は海にも行かないで、ずっと海に憧れを抱いたままなのだ。メモだってきっと彼女なりに頑張っているのだろう。毎朝起きて、記憶がないことすら覚えてないこと知る。そして、無数のメモに書いたことをその日だけのために暗記する。考えるだけで疲れるし、実際それをやっている彼女の努力はすごいと思う一方で、同情する思いもある。でも、こういう場合同情とは失礼なことなのだろう。

しかし、どんな言葉をもってしても彼女の言葉は今日の彼女でしかない。性格と記憶がどの程度人間を形成する上であるのかは知らないが、つまりはその差によって彼女は多重人格にでもなってしまうのだろうか。

「すごいです。俺、冬華さんのこと素直に尊敬します。とても真似できないですよ」

「そんなことないわよ。したいことをやってるだけだから。でもね、いつかこの足が治って、自分の足で海を見に行きたいっていうのはただのわがままなの」

そういうと彼女はちょっと悲しそうな顔をした。

「一生かなわないかもしれないけど」

そしてまた笑った。

察しがよすぎるとモテない。けれど察してしまうのは仕方のないことだと思う。彼女のが笑うのは、遠くにあるであろう海に憧れる時、自分が忘れてる人が病室に来た時、自分に気を使って人が嘘をついたのわかった時、夢がかなわないかもしれない時。彼女は自分が悲しいとき、つらいときに笑う。そう思ってしまった。胸が急に締め付けられるように痛くなる。悪魔にでも心臓を握られているかのように。彼女のことを思うと、その努力があまりにも健気で、それに対する自分の無力さがあまりにもダサくて。まだ出会って二回目、真剣に向き合って話したのは初めてと言っていい。けれど、どうしよもなく彼女に惹かれている自分がいた。彼女のために何かしたい。

「冬華さん。俺にできることはありませんか?なにか俺にも...」

「いいの、本当に。気持ちだけ受け取っておくわ。でもね、私のために誰かに迷惑をかけるのは私自信が許せないの。だから、ごめんなさい」

その後、言葉をかぶせることはできなかった。俺にはきっと彼女の気持ちも思ってることもわからないし、できることだってないのだろう。毎朝、起きるたびに自分が誰かすら忘れている。そんな恐怖を俺には理解する事すらできない。それでも、何かをしてあげたかったのは事実だし、それがエゴだってこともわかっている。きっと今、俺がいることで彼女は申し訳ないと思う気持ちでいっぱいなはずだとすら思う。ここにいても彼女を苦しめるだけかもしれない。

「あのね、そんな顔をしないで。私は大丈夫だから」

よほどひどい顔をしてたのだろうか、逆に心配をかけてしまった。でも、彼女は笑っている。なぜ、そんなにも強いのだろう。記憶がないだけでも不安で仕方ないはずなのに。

「ほら、これを見て」

そういうと彼女は一枚のメモを俺に渡してきた。

『新谷 夏樹くん、年下の男の子。西高校の三年。林檎を持ってきてくれた』

まだまだ余白が多かったが、今日俺について知ったことを書いてくれた。彼女は棚の上にあったセロテープでそれを棚の見やすい位置に貼り付け、できた、と満足気に言った。

「夏樹くんが今日、なんで私に会いに来てくれたのかはわからないけど、それでも今日の私は嬉しかった。入院して以来、メモに残ってないってことは私に会いに来てくれたのは君が初めてだったから」

家族は、友人はいないのだろうか?そんな疑問が浮かぶ前に嬉しさが溢れてきた。

「俺、またここに来ていいですか?このメモに入り切らないくらい、俺のことでいっぱいにするために。覚えてくれなくてもいいし、メモだって毎朝見て覚えてもらわなくたっていい。ただ、俺が来たいから来るだけ。どうせできることもありません、気を使う必要もないです。ただ、毎回初めましての人として、俺と会ってくれませんか?」

気づくと手には汗をかいていたし、椅子からも立ち上がっていた。彼女は驚いたように目を見開いてこっちを見ている。一瞬のことであったはずなのに三分は時間が止まっていたかのように思う時間が流れ、融け始める。今日、初めて本当に彼女が笑うのをみた気がした。

「夏樹くんっておかしな人ね。また来てくれたら私は喜ぶと思うわ。ううん、絶対に嬉しい。なにも覚えてないけど、こんなに嬉しいと思ったのは久しぶりな気がするの」

恥ずかしそうに目を細めて、自分の手を擦り合わせている。頬が薄紅色に染まって、唇が艶やかに光っている。まるで一枚の絵にでもなりそうで、美しいと思った。真っ白な病院に咲く一輪の花。まだ色もわからなし、形もわからない。まだ蕾なのかもしれないけど、それを美しいと思ったのだ。

俺はロビーのソファーから腰をあげる。何かが始まる予感をしながら一歩を踏み出す。扉を開けると、生ぬるい風が頬を撫でた。夏が来る。そう感じさせる温かみのある風だった。

そして、思い出す。またね、と言ってくれた彼女の言葉を。その一輪の花を。

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