第31話 第七章・愛の色(5)
呼吸を整え、ようやく落ち着いて辺りを見た。
透き通るような、青い空が広がる街。人の楽しそうな話し声で、ラーラは今生きていることを実感した。口元を拭いながら、ぎこちなく息を吸う。
川の風が、濡れた服を冷やす。
「寒い?」
ヴィックの声に、ラーラは改めて顔を見る。小刻みに震える手で髪を耳にかける。
「いえ、あの……本当にヴィックさん?」
そう尋ねると、ヴィックは笑う。それだけで心臓が高鳴る。
「最初に聞くこと、それ?」
震える口ではうまく笑えない。ラーラは固い表情のままだったが、ヴィックもそうだと気がついた。よく足元を見てみると、震えている。
ヴィックだって、怖かったんだ。鉄の棒で人を殴ったのだ。あんな大男相手に。
「ありがとうございました」
そう言うと、ラーラは絵本を握った。水で滲んだが落とさず、ここまで持ってこられたのだ。そのとき、胸にしまってある短剣に手が触れた。そっと、その柄に手をやる。もう必要ないとわかっていても、つい気にしてしまう。
あれだけ会いたかったヴィックがそこにいる。ラーラはようやく、胸が熱くなった。もう、瞳は熱くならない。
視界に、ちらりと白いものがうつる。空を見上げると、ポプラの綿毛が舞っていた。
「事情はすべて聞いたよ。マヤさんから」
「え?」
事情とはなんだ? どこまで聞いたというの?
マヤは何を話したのかわからず、ラーラは何も言えなかった。
「君の一族のこと。毒を飲んだということを」
「どうして、そこまで」
第一、たまにしか村に下りてこない、顔も知らないマヤをどうやって見つけたというのだ。見つけたところで、話すはずがない。
「なんで、って顔だね」
少しおかしそうに、くすぐったそうに微笑んだ。先ほどよりは、柔らかい顔だ。あたりを見回して、男が来ていないか確認してから話を続ける。下手にどこかに隠れるよりも、人ごみの中にいたほうが安全だと感じるのだろう。けれど、びしょぬれの姿では恥ずかしい。
「あの男、誰?」
「わかりませんけど、私たちの一族や、ロクェのことを気にしていました」
「そう……」
もじもじと濡れた髪や服を気にしていたが、ヴィックも薄着だった。
「座って」
ふらふらのラーラは、橋の少し盛り上がった石に座り、欄干にもたれかかった。
人目から避けさせるようにラーラの前に座り、人々の楯になる。二人で、見詰め合う形になった。恥ずかしくてうつむいてしまう。
「しばらく、追ってこないか」
あたりを見回しながら言う。そうだろうか。あの恐怖はすぐには消えてくれないが、今はヴィックと一緒にいられることで軽減されていた。
あのね、とヴィックが口をひらく。それが心地よく耳に響く。
「僕はケガをしてから記憶がなくなって、そのまま亡くなった祖父の住んでいた、海の側の国で暮らしていた。そうしたら、君のことを思い出したんだよ。海の匂いをかぎながら。なぜ忘れていたんだと悔やみ、でも、祖父の事業の手伝いを父親としなくてはいけないから、およそ一年、帰ってこられなかった。それで、時間を見つけてようやくこっちに帰ってきたんだ。それからはずっとあの森の側に張り付いたんだよ。あそこにいれば、ラーラに会えると思って」
でも、会えなかった。ヴィックの呟きに、ラーラは顔が火照った。ケガをさせたのは自分だが。
「ケガをさせたこと……怒っていませんか?」
おずおずと言うと、ヴィックは大きめの声で笑った。
「バニラちゃんに聞いたよ。君が、そのことを異様に気にしていると。そんなことで、普通追いかけやしないよ」
恥ずかしい。バニラったら、勝手にそんな話を。
「まして、会えるかわからないのに森に張り付くなんて」
自分が旅に出たすぐ後から、ヴィックはあそこに立っていたというのか。そんなに、思ってくれていたのか。
「運よく、村の女性に会うことが出来た。マヤさんという女性に。それで、ラーラのことをなんでもいいから教えてくれと頼んだんだ。他言はしないという約束で。すぐに追いかけて見つけたけれど、逃げるから……」
めんどくさそうに話すマヤの姿を思い浮かべた。でも、ラーラのことを思って話してくれたんだ。
「ごめんなさい。勘違いするのが怖くて。あなたが、私のことを気にかけてくれているなんて思ったら、自分を抑えられないような……それに、そんな良いことがあっていいのかわからなくて」
ヴィックは初めて、まっすぐな瞳を地面に移した。
「一緒に海に出てみないか」
「え?」
「約束だっただろ? 二人で海を見に行くって。もう、その願いは叶えられるんじゃないのかな」
絵本みたいだ、とラーラは思った。それがまさか、現実になるなんて考えられない。
「無理です。私は……」
濡れた髪を手グシで整えながら言う。どうしたらいいのだろう。
「でも、薬を飲んだのだろう? もう、僕と一緒にいても平気じゃないか」
言うやいな、抱きつかれた。戸惑いしかラーラにはなかった。でも、ヴィックの吐息を感じ、どうしようもなく逃げたい気持ちになる。
「わかりません。薬の効力を確かめる方法などありませんから」
「もう、僕のことはなんとも思っていない? それならなおさら好都合じゃないか。それでも僕は、君の役に立ちたい」
体を離し、顔を覗き込む。ヴィックと目が合う。それだけで、嬉しかった。
「違います。私は今も……」
言ってから、もう顔が上げられなくなった。
「僕は、君になら喰べられたって構わない」
驚いて顔をあげる。本気で言っている顔だった。
「そんなこと、出来ません。出来ないから、私こうして旅しているんです」
周りの人は誰も見ていない。川からの強い夕陽の中で逆光となり、見えないのだろう。
ヴィックは胸元からのぞく短剣を奪い取り、ラーラをもう一度強く抱きしめた。声にならない悲鳴が喉の奥に響く。
「ラーラの手伝いをさせて欲しいんだ」
いいんだろうか。こんな優しい腕に抱かれて。
「できない……」
弱弱しく言うと、ヴィックは少しイラついた様子になり、耳元で声を荒げた。
「頼むから、もう僕のそばから離れないでくれ。離れるというなら、この短剣で死んでやる」
体を離し、短剣を首にあてる。ラーラはその短剣を取り返そうと必死になる。
「返してください!」
死んでもいいなんて、言わないで欲しい。しかし、ラーラの力では短剣を奪い返せそうに無い。
どうして、困らせるの。濡れた髪から流れる水をぬぐい、ラーラは悔しくなった。
「私だって、ずっとヴィックさんと一緒にいたい」
その気持ちは、同じなのに。
「だから、そんなこと言わないで。私の前から消えないで下さい。もう、いやです。あなたがいなくなるなんて考えるのは」
もう、恥ずかしいという気持ちはなかった。口に出さなくてはいられない、溢れ出る気持ちだった。
「私、最初は、あなたに手をかけたかと思って、本当に辛かったの……生きていてくれるだけでいいんです」
そう言うと、ヴィックはばつが悪そうに短剣をラーラに返した。
「ごめん。でも、大丈夫だよ。絶対に。怖がっちゃダメだ」
海。なんと魅惑的な言葉であろうか。
旅に出てもいいのだろうか。
薬を村のみんなに渡したら、ラーラは自由になるのか。いや、まだダメだ。
「私には、まだやることがあるんです。血を集めて、それから万能薬を探しに行かないと。ロクェさんの言葉が本当なら、愛するものがいない人に、この薬は効かないから」
「だったら、その作業もすべて手伝わせてくれ。万能薬を作るのなら、海に出たほうがいい。きっと、この国にはないものがあるはずだから。ひとりでなんでもやろうなんて、思わないで」
力強く、絵本を握る。
頭上では、ポプラの綿毛が雪のように飛んでいた。美しい街を彩る白。
怖がってはいけない。もう、幸せになってもいいのかもしれない。
「私を、連れて行ってください」
絵本が、膝の上に落ちる。ラーラから、ヴィックの体を抱いた。
*
いつの間にか夕方になり、綿毛はもう飛ばなくなっていた。
春の雪が舞う美しい街。
世界中には、きっとこんな素敵な街がたくさんあるのだろう。
一緒にあの綿毛を見たゼフィラの笑顔を思い出した。
未来の希望を夢見て、この思いはポプラの綿毛に乗せて、ラーラはきっと祈り続けるだろう。
一族の幸せを。
そして、この旅で出会った人々の幸せを。
海という広い世界を見に行く。そこにはきっと、未知数の、枯れることなき愛があるはずだから。
ひとつ、周りから遅れて綿毛が飛んでいた。
「ヴィックさん、あなたを愛して、はじめてよかったと思った。私が人を愛したら、悲劇しかないと思ったから。でも、悲しいことばかりじゃないのね。あなたに会えて本当によかった。たくさんの出会いをありがとう」
そういうと、ヴィックは顔を真っ赤に染めた。自分は散々、歯のとろけるようなことを言っておいて。でも、可愛らしいな、とラーラは思った。
「幸せになる」
綿毛に思いを託し、風に舞って空高く飛んでいった。本当に、ラーラの思いを乗せたかのように。
思いはきっと、届く。
空は、ラーラの瞳と同じ、マゼンタ色の空に移り変わっていた。
それは畏怖すべき狂気の色ではなかった。
人を愛するという崇高な気持ちを表した、強く、深い、愛の色。
了
春に咲く雪 花梨 @karin913
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