第2話
「ここですかね、」有子と高山は峰岸家に近づいていた。「確かこのあたりだと・・・ここです」、有子が指差す家を見上げると、裕福な生活がすぐに想像できた。ピンポーンとチャイムが大きく鳴り響く。しばらくして一人の中年の女性が出てきた。
「お聞きしてます。旬の担当の精神科の先生ですね」向こうから話を広げてきたその女性こそ、旬の母親の陽子であった。
身だしなみも綺麗にしている夫人風の女性は静かに自宅内へと案内してくれた。有子は少し緊張気味に高山の後ろについていった。
「おじゃやまします」高山は礼儀正しくそう言ったかと思うと、応接間にある花瓶や大切そうにしまわれているグラス等をまじまじと眺めだした。
「先生、失礼ですよ」
有子は高山の肩をたたいた。高山は「すいません」と得意の髭を触り、はにかむと、大きな黒いソファーに腰掛けた。陽子はコーヒーを入れると、チョコクッキーと一緒に並べて運んできた。「これ、もらいものですけど」と接客の代表名詞が陽子の口から飛ぶ。
高山は陽子が開けたままにしているドアの向こうを見ていた。
「奥さんは、本がお好きなんですね」。
高山の唐突なモノ言いに少し驚いた表情をみせながら陽子は答えた。
「どうしてそんなことを?」
高山は指をさし、「ほら、あの部屋の棚にぎっしりと文庫本が綺麗に整理されている」と髭を触りながら言った。
有子は「先生、失礼ですよ」と制止しようとしたが、高山の腰はソファーからすでに浮いていた。
「最近、本を読みだしましてね。興味があるんですよ。少し見せていただけませんか?」高山の足はドアの奥の居室に向かっていた。
「すいません」有子は陽子に謝ると、高山の背中を追っていった。
「これは、哲学書ですね、これなんて有名な本ですよね。」高山は一冊の本を手にとった。その瞬間、陽子の右手が無意識に動いた。
「それは・・・・」陽子はそれ以上は何も言う事ができないかのように右手をひっこめた。「先生、もういいでしょ」有子は高山のスーツの袖をひっぱり、部屋を後にした。
「用件は何ですか?」少し声の震えた陽子が2人に聞いてきた。
高山は「旬君の担当をすることになった挨拶にきただけです」と得意の愛想笑いをすると、クッキーをほうばった。
有子はそんな高山を見ながら陽子に会釈した。
「旬のこと、よろしくお願いします」陽子は母親らしい言葉を投げかけた。
「先生、あれで何か収穫はあったんですか?」
有子が夕方の通勤ラッシュの車内で小声で高山に話しかけた。
高山は「あったさ」と答えると、次の旬との接見曜日を確認した。
「次は、来週です」有子が答えると、返事もなしに吊革につかまりながら居眠りを始めてしまった。有子は高山の鞄をそっと持った。
「おはようございます。この資料は前回、先生から頼まれていたものです」と少年院の職員がA4サイズの茶色の封筒を大切そうに持ってきた。高山はそれを受け取ると、早速読みだした。
「そうか・・・」10枚以上はある書類を読み終えると高山は窓から見える青い空を眺めた。今日はやけに空が青い。
「やあ、旬くん」4回目の接見で高山が馴れ馴れしく声を掛ける。そんな親近感を抱いている高山に反するように旬は目も合わさない。
まだ、何か?とでもいいたそうな雰囲気で体を前後に揺する。
「お母さんに会ってきたよ」
高山のこの言葉に予想どうり、椅子の音は消えた。
「そうですか」旬は表情を変えることなく答えた。「毎週、君に会いにきていると警備員さんが教えてくれたよ、母親ってのはいいもんだよな」、高山は自分に問いかけるように話し始めた。有子は見逃さないように耳と目を少年に向けていた。
旬は「女の大胆さにはびっくりさせられますよ、母は父の後ろをついていくような人だったのに、父がいなくなってからは格好も派手になって・・・」と珍しく文章らしいものを話した。
高山は「女の大胆さ・・・か」と呟くと、
「そろそろ自分に向き合ってみないかい?」と意味のわからない言葉を発した。
「自分に向き合う?」旬は椅子をカタカタならしながら、オウム返しをした。「自分でも気がついていない試練ってあると思うんだ」高山は言った。
「試練?」一瞬馬鹿にするように旬は高山を見た。
「幼少時代からの君が知りたい。覚えている事でいいから話してほしい」そう言うと高山は椅子を前にずらし、旬に近づいた。
「君は、、いや旬君はいつも父さえいなくなったら全ては上手くいく、と言うけどいつからそんな事を思いはじめたんだい?」やけに優しい口調で話を続ける。旬は高山の顔を一瞬見上げ、答えた。
「もの心ついた時からにきまってるだろ」。
「それは君じゃなく、誰かの言葉じゃないのかな?」高山は意味深に言った。
旬は体の動きを止め、「僕も母もみんなそう思っていたんだよ」と言った。
「母も?」高山は待っていた言葉がやっと出た、とでもいうようにくいついた。
「君のお母さんが、君の前で、あの人さえいなければ・・・・」と言っていたんだね。旬は弁解するように声を荒げた。
「父はお酒を飲むと、母に暴力を振るうんだ。そんな事をされていたらそう思っても当然だろ?」旬は15歳という子供っぽさを初めて見せた。有子はそんな彼にほっとした。
高山は「君のお母さんはお父さんに暴力を振るわれていたんだね。そんな事も君がお父さんを殺害した理由の一つだよね」ゆっくりと
会話を切った。旬は黙って下を向き、いつもよりも早く体を前後に揺らし始めた。
「じゃあ、今日はこの辺で」高山は白衣を脱ぎ、スーツの上着を羽織ると、背中越しに少年に挨拶した。「またな」と。有子は旬に会釈し、ドアを開けた。
そんな2人に旬は今日も言葉を掛けた。
「強くなる為の悪だよ、僕が犯罪を犯したのは強い自分になる為さ」と。高山はその声には反応せず、部屋を出た。
「先生、今日は進展しましたね」有子が嬉しそうに声を掛けた。高山はなんだか険しい表情を浮かべている。「強くなる為の悪、か」
高山は何度かそう呟くと足早に帰路についた。
旬は自室に帰ってから、高山との会話を思い出していた。そして右手親指の爪を噛みながらニヤリと白い歯を見せた。
「先生、最近は本当に読書にはまってますよね」有子が高山に話しかける。高山は古本のような文庫本から目を話す事無く、愛想のない返事をしていた。前にも増して、本の折り目が増えている。
☆☆☆
「次の少年との接見はいつだったかな」高山のいつもの言葉が飛ぶ。有子は手帳をめくり「来月の一週目の水曜日です」と丁寧に答えた。
「そうか・・・」高山は何かを思うような表情で返事を返した。そして呟いた。
「その前にもう一度彼女に会っておかなければならないな」と。
☆☆☆
「やあ、久しぶりに感じるね、旬君」高山の声が少年院内に響く。旬は相変わらずの表情と動作で高山と有子を迎え入れる。
「今日で残すところ君との接見もあと2回だ。なんだか寂しいな。」高山は本心なのかそんな言葉を発した。
「君のお母さんとお父さんは職場で知り合ったみたいだね。すぐに結婚し君を出産している。同僚からはスピード婚と言われていたそうだ」高山の話しの意図が分からない有子は溜息を一つついた。
高山は急ぐかのように話を続けた。「お母さんにはお父さんと出会う前に結婚を約束した人がいたらしい。お母さんはその人の事を心から愛していた。幸せになるはずが、その相手は結婚を目の前にして自殺してしまった。知り合いの会社の保証人になっていたが、その会社が倒産寸前に追い込まれ、取り立てに悩んだ挙句に自殺を選んだ。きっとお母さんに迷惑をかけたくなかったのだろう。そして、皮肉なことにその会社は持ち直した。お母さんは心に傷をおったまま、一人で生活を始めた。そして、君のお父さんと結婚した」
「そうですか?」旬は何も感じないかのように真っ直ぐ高山を見た。
高山は話を続けた。
「つごうのいい解釈・おしゃべりな人は隠している・強くなるための大胆さ、」高山はそういうと、鞄から一冊の本をそっとりだした。「君も大好きな本だろ?ニーチェの本だよ。善悪の彼岸だ」こう言うと、折り目のついたページを開け始めた。
「君は、、旬君は、僕に毎回ニーチェの言葉を託していた。初めは気がつかなかったよ。もしかすると、君、いや旬君も無意識に発していた言葉かもしれない。習慣という恐ろしい日常のせいで・・・」
有子は意味が分からず、高山と旬を見ていた。旬は体を前後に揺らすことなく、ニャリと微笑んだ。
「君のお母さんは、君に日常的にニーチェの言葉を君に読み聞かせしていた。そして、あの人さえいなければ・・という呪文もね」高山は椅子から立ち上がると、狭い面会室内を歩きだした。そして、ドアに手をかけた。
「旬・・・」そこには陽子の姿があった。
「お母さん・・・」旬の子供らしい声が狭い空間に響く。高山は陽子を自分が座っていた椅子に案内すると、座るよう促し、話を続けた。高山はそっと文庫本を陽子に返した。
「これ、だまってお借りしていました。すいません。もう、自分しか証人のいない試練は辞めませんか?」と優しく声をかけた。
旬もすかさず、声をかぶせた。
「自分しか証人のいない試練・・・・」と。陽子は泣き崩れた。
「旬、ごめん、ごめんね、あなたを・・・・・」嗚咽で言葉が出ない。
有子は陽子の肩をさすりながらハンカチを差し出した。
旬は下をむいたまま微動だにしない。感情が読み取れない、と有子は思った。
高山は深呼吸すると、ゆっくりと言葉をつづけた。
「お借りしていた本の一番最後のページに陽子・謙二、とありました。あれは、婚約していた男性の名前ですね。そして、自殺に追い込んだ会社の社長、すなわち保証人を強要した知人こそが峰岸 博・・・」一瞬、室内の空気の気温が下がった。高山は、背筋を伸ばすと旬の方を見ながら続けた。旬は不気味な笑みを浮かべている。有子はぞっとした。
「お母さん、いや、陽子さんは婚約者を自殺に追い込んでおきながら、のうのうと裕福な生活をしている峰岸を許せなかった。そして、悩んだ挙句、峰岸に近づき、心を殺して妻となることを選んだ。殺害の方法の手段として、
旬君、あなたを生んだ。お酒があまり得意でない峰岸に毎晩お酒をのませ、飲んだら暴力をふるう癖を利用し、幼いあなたに自分が辛い思いをしている姿を見せ続けた。あの人さえいなかったら・・・と毎日のようにあなたにこぼした。いつか、あなたが峰岸を殺害してくれる事を祈って・・・。憎い男の子供を孕むことを選択した瞬間からあなたのことを
凶器だと思いこもうとしてきた。」
ここまで高山が話した時、旬は両手で顔を覆った。泣いているのか表情は良く見えない。
陽子はそんな旬に「ごめんね、でもね・・・」と必死で何かを訴えかけようとしていた。
「そうか・・・」と旬は陽子を上目づかいで見た。その眼には光る物がなかったように有子は思った。
愛する母の為に罪をおかしたのに、実はそうなるように、産まれる前から仕組まれていた事だなんて・・・。有子は一方的に同情しながらも旬の妙な落ち着きに不気味さを感じた。
「ちがうの、ちがうのよ」陽子は再び泣きくづれた。
高山は陽子を抱え、「旬君、お母さんは、やっぱり君のお母さんだったんだよ」と語りかけた。旬はコンクリートの地面にしゃがみこんだまま、うつむき顔を覆っている。有子の眼には白い歯が一瞬見えたように映った。
高山は「陽子という一人の女性としては恨みをはらせたのかもしれない。だが、どんなに心を殺しても、君を凶器だと処理できなかった。憎い男の子供かもしれないが、旬君は自分がお腹を痛めて生んだ大切な子供なんだよ。だから、事件が起こってからも毎週のように少年院が許すかぎりの面会におとづれ、自分を痛めつけるように飲めないお酒をのみ、君には派手な生活に見えたかもしれないが、全てはお母さんの苦しみの現れだったんだよ。
お母さんが君の心に刷り込みしてしまった、お父さんへの恨みや、ニーチェの言葉は後悔しても君の心や人生から抜けることはない。
それだけに、お母さんの罪は深い。」
高山はそう言うと、旬に声をかけた。
「君がお母さんを許せるようになるまで、相当な時間がかかるだろう。でも、そこからが、本当の母と子になれる。君なら、きっと旬君なら、乗り越えられると僕は信じる」、と放った。
☆☆☆
今回の接見の数日前、高山は一人で陽子の自宅をたづねた。
少年院側に頼んでおいた調べで、陽子の過去の恋愛が今回の事件に関わっているんではないかと疑い問いただしたのだ。
最初は否定していた陽子だったが、ニーチェの言葉で泣きくづれた。
婚約者の謙二といつも2人でよんでいた「善悪の彼岸」。
旬が高山の面会時に毎回メッセージのように放つ言葉がそこにはあった。
高山がそのメッセージに気がついた時から、旬の殺害には母親の執念があるように感じていた。
幼い時から、暴力を振るわれる姿を息子に焼きつけ、あの人さえいなかったら・・・、と呪文のように唱えつづけ、思春期と言う魔物を味方につけ、心底愛した彼を思いながら過ごした15年。
しかし、陽子は凶器として割り切って生んだはずの息子を、凶器と割りきれなかった。
長年の刷り込みを行った自分への自己嫌悪と、旬に対しての申し訳なさで押しつぶされそうになっていたのだ。
☆☆☆
高山はゆっくりと少年院の建物を外から見上げると、深呼吸をし、歩みを始めた。
これからどれほどかかるかわからない親子の修復。高山はその責任と重さを感じていた。
「先生、お腹すきませんか?」有子が高山に声をかけた。
「そうだな、焼き肉でもいくか」
高山は少し伸びた髭を触りながら答えると、
歩みを始めた。
有子も高山の背中を追うように歩みを進めた。
「彼が小刻みに体を震わせる行為は親からの自立願望の表れだと思う。彼は本心から精神の自立を望んでいたんだよ。でも、どうやっていいかわからない。その葛藤が体の揺れや含み笑いに表現されているんだと僕は思う」。
高山は唐突に切り出すと、有子に意見を求めるようなしぐさをした。有子は最近買ったばかりの文庫本を鞄から取り出した。
「それこそ、自分しか証人のいない試練、なんじゃないでしょうか。彼にも、お母さんにも、頑張ってほしいと思います。」有子はそういうと、その本を大事そうにしまった。
本には折り目がついている。
そのページには「つごうのいい解釈」とタイトルが記されていた。
次のページには「女の大胆さ」とタイトルが光る。
有子はニコッ、と笑うと大好きな彼の手をひっぱった。
「先生、お腹すきましたよね。何か食べにいきましょうよ」と。
これからの長い道のりを進みだしたかのように青い空が一段と光って見えた。
「先生、どうして陽子は自分で恨みを晴らす選択をしなかったのでしょう?」有子は心に秘めていた疑問をぶつけた。
「女を捨てた女、であり、捨てきれなかった女でもあるんじゃないかな。それと・・・」と高山は呟いた。「それと、なんですか?」有子はかぶせた。高山は文庫本を手にしながら、「僕は大きな間違いをおかしていたのかもしれない・・・・」と足元をみた。足元には一輪の綺麗な花が咲いていた。「もっと答えは近くにあったのかもしれないな」と。
一人静かな独房に戻った旬は、古ぼけた文庫本を持ち、「神は死んでいた・・・僕の心の深淵はすでにあの日にみたされていたんだよ」と満足気にニヤリと笑った。
ただ、単純に人を闇に葬りたい・・・殺人がしてみたい・・・という憧れを持ち続けていた少年の深淵は満足げに真っ赤に染まっていた。
おわり
少年Sの深淵 SOUSOU @yukiko
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