第19話
家を出るまで、少女は一度も後ろを振り返らなかった。
母は少女の自室にこもったまま、完全に我を失っていた。うつむいたまま、顔を上げようともしなかった。少女を黙って見送ることにしたのか、それとも見限ってしまったのか、それは分からない。
ドアを開けた先は陰鬱な灰色だった、時刻は夕方に入ろうとしている。正直、これからあの屋敷に向かうには怖い時間だった。
だけど、動かないという選択肢はもう存在しない。
少女はケータイを取り出し、連絡帳を開いた。元々知り合いなんて少ないのだ、目的の名前は、開いてすぐに見つかった。
「え……車?」
電話から出たお嬢様は、少女の要求に素っ頓狂な声を上げた。
「えっと、今からですか? もう夕方ですよ? というより、一体どこに……」
「昨日の屋敷。確かめたいことがあるの」
「お屋敷ぃ⁉︎ しょしょしょ正気ですの⁉︎ あんな怖い所はもううんざりって言ったばかりじゃありませんでした⁉︎」
「説明はちゃんとするから。それに私、もう外だから。このままじゃ凍えちゃう」
「ぅ……そ、それを言うのは反則じゃありません? なんですの、家出? まさかあそこで養ってもらうおつもりでしたら、是が非でも私の屋敷に−−」
「お願い。私は、どうしても今動かなきゃいけないの」
「ああもう分かりましたわ! すぐ向かいますわ−−ホラ、聞いてました⁉︎ 私の大事なお友達の御用命ですわ動きますわよ!」
少女の有無を言わせぬ強い口調に、お嬢様は数限り無い言葉を飲み込んで、願いに応えた。
十数分後には、お嬢様の車が少女を迎えに来てくれた。
運転手の男が車から出ると、少女を見ておどけたように肩をすくめて見せた。そのまま彼が後部座席のドアを開けると、腕を組んだお嬢様が、むっつりと拗ねた顔で座っていた。
眉間を寄せて目を瞑り、唇をつんと尖らせる。
「……私から言わせれば、温度どうこうよりも、あなたのその厚顔無恥な所の方が大きな問題の気がしますわ」
「う……ごめん、ね?」
「別に怒ってませんわ。さ、お乗りになって。色々と聞きたいこともありましたし」
お嬢様は少女の緊張を解させるために朗らかに微笑むと、後ろにずれて座席を指し示した。
灰色の空は、徐々に白から黒へと色を開け渡そうとしている。車は先を急ぐように発進した。
無理を聞いてくれた事に重ねて感謝をして、少女は事のあらましを……メアリを含めた全てを打ち明けた。
「湖の幽霊……あの屋敷で、あなたはそれが見えていたのですね」
少女の言葉を黙って聞いていたお嬢様は、そう言ってはぁと溜息を吐き出した。
淡々とした反応に、一番驚いたのは少女だ。
「えっと……自分で言うのもアレだけど、信じるの?」
「だってそうじゃなければ、あなたが理解不能かつ不規則に行動する変人になってしまうじゃありませんか」
「う……」
「というか! あのお屋敷、もうほんとにほんとに怖かったんですから! あなたの行動も色々と不可解極まりありませんし⁉︎ もうこの際幽霊のせいにしたいくらいでしたから結果的に問題ないのですよ! あえて言わせてもらいますけど、私はどうしても嫌なとっても怖いお屋敷に、あなたのよくわからない心境を真剣に慮って、あなたの無茶なお願いの為に向かうんですからね!」
「ご、ごめ、ごめんなさ……あうっ」
半ばやけくそのような感じで、お嬢様は昨日の怒りと怖さを露わにした。少女のほっぺたを物凄い勢いでつんつん突ついてくる。
少女が謝っても、お嬢様はぷりぷりとほっぺたを膨らませている。
「全くもう、こんなことするのは、あなたがお友達だからなんですからね!」
「ご、ごめんなさい」
「しっかり感謝もしてくださいね!」
「う、うん……ありがとう」
「今度一緒に都会のショッピングモールに行きますからね!」
「うん……え?」
「やったわ私言質をいただきましたわ! すぐにスケジュールの調整をいたしましょう! 頭の上からつま先に至るまで人を惹きつけてやまないコーディネートを施して差し上げます!」
「え、え?」
まるで時間が飛んだように、お嬢様は怒りの表情を収めて、光るような笑顔を浮かべた。車の座席で器用にぴょんぴょんと跳びはねたお嬢様は、少女の鼻先にぴんと指を突きつける。
「私、もっとお高い女性なんですからね! 今回は特別に、それでチャラにしてあげます。破格の対応であることを自覚してくださいましっ」
そう言って、つんと上を向いて腕を組む。快活できらびやかなお嬢様の仕草に、自然と少女の顔もほころんでいた。
「ありがとう……すごく楽しみ」
「そう言っていただけると幸いですわ。それに、この一件は私も無視できなくなってきていましたから」
「どういうこと?」
少女が問い直すと、お嬢様は神妙な面持ちで、座席に座り直した。先ほどの軽口が嘘のように、重苦しく口を開く。
「実は私も、あれからちょっと調べていましたの」
「……何を?」
「あのお屋敷ですよ。人が住んでいるのに怪談話が流れていてはかわいそうでしょう? これ以上噂が流れないようにしつつ、一番最初に言いだした不届きな人をお叱りしようとしたのです」
お嬢様はいかにも高飛車そうに鼻を鳴らす。
怪談が流れることの迷惑や老婆がかわいそうなんて、少女は思いつきもしなかった。スケールの違う気遣いを、さも当然の役目のように行っているのだ。それが彼女の不遜な態度の中にあるものであり、彼女の人柄の良さなのだろう。
しかし、後部座席で腕を組んだお嬢様は、重苦しく言葉を吐き出した。
「顔と名前は、すぐに見つかりましたわ……警察に捜査願いが出されていましたからね」
「え……?」
「それ以外にも数人、肝試しに行ったとされる人たちが行方知れずになっているみたいなんです」
お嬢様の顔は彫像のように強張っている。しかし思考は冷静なまま、顎に手を当てて思考する。
「もちろん、私たちのように普通に肝試しをして帰ってきた人もいますわ。小さな噂話とはいえ、元は私たちの学校にも流れていましたから、同学年の片も肝試しに行って、帰ってきていました。だけどその一方で、姿を消した人もいる……」
そこでお嬢様ははたと顔を上げて、少女の目を見た。
「ねえ、ひょっとして、あなたの言う幽霊の仕業ではなくて?」
「え?」
「帰ってきた人と、そうでない人の違いが、幽霊を見たかどうかだとしたら? どうでしょう」
お嬢様は真剣な面持ちで、少女の顔色を伺う。もしそうなら、今ここで止めなければ、という真摯な思いを強く感じる。
「考えてみれば、そのメアリとやら御人……御霊? が、あなたに危害を加えないなんて保証はありませんわ。助けてと言っているのも、あなたの優しさに付け込んで誘い込む為とは思えませんか?」
「それは……違うと思う」
ふるふると首を横に振ると、お嬢様は拗ねたように眉を寄せた
「むぅ、随分ハッキリと言うのですね。何か根拠がおありでして?」
「目」
「……ほぇ?」
「私と同じ目をしているの。だから、騙してるとかじゃないと思う」
「……あの、それはあなたの主観的観測であってですね? ああいえでも幽霊ですからあなたの観測以外に証拠なんてないんですけれども……」
「はいはい、ちょっといいかな。話している所悪いけれど、大人の僕から言っておくことがある」
張りのある声が、二人の会話を止める。運転手の爽やかな目が、バックミラー越しに少女を捉える。
「さっきから聞かせてもらっているけれど、君の話にはやっぱり説得力はない。幽霊に導かれた、なんて本気で言ってるし、本来ならすぐにでも目を覚まさせたい所だよ。だけど事実として、何だかきな臭い出来事が起きている。君の言葉が単なる狂言とは言い切れないし、そのお屋敷が安全かどうかも保証できない」
空は日没への準備を始めている。車は速度を上げて、目的地へと急ぐ。
「いいかい? 現実として人が行方不明になっている。その現場が今から向かうお屋敷である可能性がある……つまり君は、殺人事件の現場に飛び込むんだよ? それは分かっているのかい」
「……そう言えば」
はた、と少女は目をぱちくりさせる。まったくもう、とお嬢様が頭を抱えた。
運転手は溜息を吐き、握ったハンドルを指で叩いた。
「呆れた、という言葉は飲み込もう。どうやら大変な事情があるみたいだしね。ともかく、これは幽霊なんかよりよっぽど怖くてタチが悪い、現実的な問題だ」
運転手の言葉で、少女はようやく、自分が何をしようとしているのかに思い至った。メアリは決して架空の存在ではない。過去に起きた陰惨な事件の被害者なのだ。
「これはもう幽霊よりも警察が出るべき事態だ。だからいいね、僕たちは事件が起きた証拠を見つけることだけをする。それを持ち帰るなり写真に収めるなりして、警察に渡す。後は警察が方をつけて、そこで何があったかを明らかにしてくれるだろう。もちろん現場には僕も同行して、決して危ない目はさせない。それが、引率者としてできる最大限の譲歩だ」
異論を許さない芯の通った声。隣で腕を組むお嬢様がフンと鼻を鳴らした。
「ここぞという時に大人の顔をして。私は、あなたの引率なんて必要はありませんけどね」
「この車のハンドルを握っているのは誰かな? 僕だって好きで君のお父様の大目玉を喰らってる訳じゃないんだ。今この瞬間の、門限違反の外出だってカンカンに怒っているんだ。これ以上怒りの種を蒔かれちゃ困る」
「う……し、仕方ないじゃありませんの! 大事な友人の頼みですもの!」
腕を組んでぷりぷりと怒るお嬢様の顔は、ほんのり朱に染まっていた。
怖くてしょうがないのに、衝動に突き動かされて無茶を聞いてもらって申し訳ないのに、少女は今この場にいる事が、楽しくて嬉しくてしょうがなかった。
そして、その心強さが、少女の背中を押した。目的の獣道に停車すると、少女はドアを開け、一目散に飛び出した。
「っ先に、行ってます」
「ちょっと、お待ちになって!」
「やれやれ、言った側から」
開け放たれたドアからお嬢様が飛び出して、運転手が車に鍵をかけて追いかけてくる。
成人男性が通るには獣道はいささか小さく、少女とお嬢様が先んじて屋敷に到着した。顔を上げると、空は既に薄暗く、屋敷が今にも倒れかかってきそうな、黒々とした巨大なシルエットとなって二人を見下ろしていた。
「うぅぅ、もう二度ときたくありませんでしたのにぃ」
お嬢様が弱音を吐き、ぎゅっと胸の前で拳を握る。
気をつけなければ足元を取られそうな暗さ。だが、屋敷には明かりが灯っていない。あの老婆は外出しているのか……いや。あの窓のほとんどは、ホステルのような一人用の寝室だったはずだ。明かりをついていない方が普通の窓達だろう。それに、メアリを生み出すような屋敷が、普通に明かりを灯すなんて思えない。
二人は目配せをして、できる限り足音を殺して駆け出した。背の高い草が足を撫でて、露を乗せてくる。
「さむ……!」
お嬢様が体をかき抱く。原因は恐怖が先行するこの環境ばかりではない。はぁと吐いた息が白い。夏が終わり、初めてのことだった。
黒い屋敷の周りを辿りながら、どろどろと粘性の高い空気を吸い、白い息を吐き出す。少女は白い息を吐きながら、白いワンピースの姿を探す。
……ダメだ、見つからない。それも当然だろう。関わらないでと言われたのだ。愛想を尽かされていてもしょうがない。
「……それでも、いいよ」
闇そのものの脇道を通りながら、少女はつぶやく。ぬかるみが弾けて、ぬちゃっという嫌な水音を立てた。
そう、それでもいいのだ。
彼女を放っておけない。前に進みたい。
全て、自分の感情で、自分の決意だ。
そしてそれが、彼女の為になると信じている。そう確信している。
だから、動くのだ。他でもない自分のために、彼女を放っておかない。
やがて二人は、屋敷の裏手に到着した。
まるで火山の火口のような、窪地。今日は月がなく、水草の浮かぶ水面は夜と同じ色をしていた。
身震いをしながら、お嬢様は窪地の奥。屋敷の排水溝を見つめる。
「……あそこ、ですの?」
「多分、そう」
「き、気をつけて下さいね。怪我などなさらないように」
「うん、ありがとう」
お嬢様の声に強く頷いて、少女は足を踏み込んだ。無温のまま、濡れた感覚が足に絡みついてくる。
やっぱり、あの白い幽霊の姿はない。でも、見つけてみせる。
水を掻き分けて、排水溝の前に立つ。改めて見ても、傷だらけの排水溝には屋敷側からゴミが堆積し、水の流れを停滞させていた。
「……よしっ」
少女は勇気を振り絞り、膝までの高さの水の上に、うつ伏せで寝そべった。生臭い水が全身を浸して、口や鼻に入りこんでくる。きっと、飛び上がるような冷たさもあるのだろうが、それは気にしなくて済む。少女は体を排水溝にぴったりと寄せて、隙間から手を突き込んだ。
−−ぬちゃ。
「うぇ……!」
表現したくもないおぞましい感触がして、ぬるぬるしたものとぐずぐずの何かが纏わりつく。顔をしかめながらも、少女は更に手を突き込み、搔き回す。
どれだ……どれなんだ?
焦り、不安、混乱。どこかから見られているかもという恐怖。身を焦がすような焦燥感を抱いて、少女はがむしゃらに腕を突っ込み、ヘドロのようなゴミを搔き回す。
その手が、誰かに触れられた気がした。
指先をそっと握りこむような、小さな赤ん坊の手のような感触。少女は夢中で、指先に触れたそれを掴み、引きずり出す。
ずるぅ、といくつもの腐ったゴミを引き連れながら、それは外の自由な空気に触れた。
月のない夜の暗闇でも、その不気味な白は、少女の網膜にありありと焼き付いた。
−−大腿骨。
少女の手のひらに収まるようなそれは、明らかに赤ん坊のものだった。
瞠目し、取り落としてしまいそうになる。慌ててそれを、両手で大事に抱え込む。
メアリの片足は、赤ん坊のものだった。
やはり。やはり。そうなのだ。やはりここが、メアリの……いや、『メアリ達』の−−ッ!
−−ほぎゃあ。
その時、赤ん坊の声を聞いた気がした。
なぜかそれが、何かを警告しているように聞こえた。
だけど振り向いた時には、全てが手遅れだった。
爛々と輝く老婆の瞳が、すぐそこにあった。
「ばぁ‼︎」
悲鳴すら上げる間も無く、少女の首は鷲掴みにされ、水の中に叩きつけられた。信じられないような凄まじい力が、少女の体を水に叩きつけ、空中に持ち上げた。
飛び出すほどに見開かれた眼球が、狂気と一緒に少女を睨みつけていた。その頬には、何者のかもわからない、新鮮な真っ赤な血。同じ人間とは思えないものが、そこにいた。
「ああ〜〜〜。ああぁぁ〜〜はははぁ!」
「か、ぁ……⁉︎」
涎の滴る口腔から、底知れない奇怪な声がする。メキメキと首が鳴り、少女の頭が爆発しそうになる。
狂気の目に見られながら、少女は思った。
……ああ、そうか。メアリは昨日ここで、助けてくれたのか。
溺れさせることで、手遅れになることを止めていたんだ。
何かを見つけてしまい、こうなってしまわないように。
「あはははぁ。あはははははぁ。くひっ、くひひぃ」
「ぃ……ぁ、ぐっん……!」
奇怪な笑い声が少女の耳を犯す。少女は必死で老婆の枯れた腕を掴み、両足をバタつかせる。それでも首を絞める力は緩まない。
酸素の供給が止まり、脳が苦しげに唸る。首がもげ、頭蓋がひしゃげてしまいそうだ。力がどんどん抜けていき、視界が暗く、狭くなっていく。
ぐわんっ。少女の体が踊る。首を掴まれたまま重力がのし掛かり、少女の意識が弾き飛ばされた。次の瞬間、少女は水面に叩きつけられる。
その瞬間、自分が人間であることを忘れた。卵のようにひしゃげ、バラバラになった気がした。体は糸が切れたように動かず、指先がぴくぴくと動き、水が無作法に体に入り込んでいく。
生臭い水に体が沈んでいく。その足が持ち上げられ、水の中を乱暴に引きずられていく。
−−だから、言ったのに。
寂しげなメアリの声が聞こえて、ずるずると遠ざかっていった。
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