第18話


 かまくらの中にいた時のことを思い出していた。

 冬が来て、世界が真っ白に染まって、世界も凍り付いてしまったみたいに、耳が痛くなるほどの静けさが包む冬のこと。


 少女にとって冬は死の季節だ。気づかない内に少女から体温を抜き去ってしまう、白くて静かな死神がうろつく季節。だけど、そうでない時もあったのだ。

 世界全部が真っ白に染まってキラキラと光っている光景は、とても綺麗だった。長靴を履いて、しゃくしゃくと音を立てながら、その真っ白な地面に足跡を残す事が楽しかった。ぎゅっと握りこむと、みしりと音を立てて固まる雪の感触が好きだった。


 世界が白くなる。かつてその白は、少女の心を躍らせていた。

 だけどあのかまくらを作った日を最後に、心躍る冬はなくなった。


 かまくらの中には、楽しさだけがあった。お父さんとお母さんと一緒に作った、大きな大きな雪のお部屋。三人でお話をして、一緒にご飯を食べて、雪の上に寝そべって色んなお話をしてくれた。

 楽しかった冬の季節が脳裏に鮮明に蘇ってくる。

 寝そべった視界には、真っ白でつやつやしたかまくらの天井。左を見れば、柔和な笑顔を浮かべた父が慈しみの目を向けている。


 --楽しいかい?


 父の声に、少女は元気いっぱいに頷いた。どうしてだろう。どうして、今こんなことを思い出しているのだろう?

 楽しかった光景は流れていく。右を見れば、同じように穏やかな母の微笑があった。


 --一緒にいれば、あったかいわね。


 その時、母は確かにそう言った。

 今はもう聞くことのない優しい母の声が、少女の胸を打った。

 温かい。少女は、それは理解できない。父も母も、少女のそれを理解してはいなかった。

 握られた手も、かまくらの中の空気も、昔も変わらずに『無』でしかなかった。

 でも幼い少女は、母の言葉に元気いっぱいに頷いていた。


 理解できないけれど、無意識に感じていたのだ。これが温かいのだと。温かいとは、こういうものだと。

 だから、少女は闇の中のかまくらに足を運んだ。あそこには、楽しくってしょうがない『温かさ』があったから。

 でも、そこに『温かさ』はなかった。暗くて静かで、無慈悲な死神だけがいた。

 それ以来、冬は白くて静かな死神が現れる死の季節になり、『温かさ』は少女の手の届かない場所に消えていった。



 温かさとは、一体何なんだろう。少女は分からない。何も感じられない。

 だけど、幼い少女は知っていた。それは幸せで、胸が満たされるようなものなのだと。

 じゃあ。それなら。

 温かさは、一体、どこにあるのだろう--?


 コチ、コチという規則的な音。

 時計のリズムに合わせ、少女は階段を上るように段々と、眠りの淵から意識を取り戻した。意識がはっきりしてくるにつれ、しゅんしゅんと湯気立つ音もする。そして、なんだか左手がじんわりと温かい。

 ゆっくりと目を開ける。見なれた天井が見えた。


 いつもと変わらない、自分の部屋だった。白い天井。ふわふわのベッド。肌に感じるのは、シーツと布団の無温の感触だけ。

 左手だけが、いつもと違っていた。布団から伸びた左手が、誰かに握られている。触感から、両手でぎゅっと握りこまれているようだと察する。


 そこで、ふと思う。

 さっき、私は左手が温かいと思わなかったか?

 不思議に思い、少女はついと首を回す。目に涙をいっぱいにためた母が、自分の左手を胸元で握りしめ、こちらを見つめていた。


「……おかあ、さん?」

「ああっ……良かった!」


 少女が呼ぶと、母は感極まって崩れ落ちた。椅子に縛り付けられたようだった体から力が抜ける。


「どうしたらいいのかわからなくて、どうしようもなくて、私、私っ……ああ、生きててよかった……!」


 母は少女の左手を額に寄せて、そのまま泣き崩れた。無温の雫が、握り込まれた手のひらを伝う。

 何故だかそれを直視できなくて、少女は視線を彷徨わせる。

 少女の胸に湧き上がったのは、戸惑いだった。目の前の光景が、うまく受け入れられなかった。その思いが、疑問になって口をつく。


「お母さん、どうして……」

「夜中、どうしても気になってあなたのことを見に行ったの。そうしたらあなたは寝室にいなかった。家中どこを探してもいなかった。どれだけ探しても、どんなに名前を呼んでも、あなたは見つからなくて……湖で倒れている、びしょ濡れのあなたを見つけた」


 その時の事を思い出してか、母の声が震える。一睡もしていないらしい目には、深い皺の上に広い隈が浮かび、涙で赤くなっていた。


「あの時と同じだと思った……凍る寸前のあなたをかまくらで見つけたあの時と。今度こそダメかと思った。本当に、怖かったの……」


 少女はただただ困惑していた。母はいつも、自分を疎ましそうに見ているばかりだった。それが今は、少女を包む手は年相応の皺を刻み、触れれば折れてしまいそうに心もとない姿をしていた。

 こんな母は見たことがない。少女は弱り切った母に対して、返す言葉を持たなかった。


「抱きかかえたあなたの体、氷のように冷たくて、ぐったりしてた。一体どうして……なんであそこにいたの? こんなになるまで……」


 母はただただ悲しみに暮れていた。うなだれて震える母を、少女は静かに見下ろす。


「ねえ……お母さんは、私が死んだら、悲しいの?」

「っ悲しいに決まってるじゃない……! あなたはたった一人の、私の子供なのよ」

「……”こんなのでも”?」


 ぐっと唇を噛んで、少女はそう言った。劣等感が吹き上がり、さっきまで凍えていたらしい体を強張らせる。

 母が驚いて顔を上げた。泣き腫らした顔が驚愕に歪む。


「ダメよ、やめて、そんなこと言わないで。例えどんな人でも、あなたは私の、大切な……!」

「例えどんな人でも、か……そう、そうだよね。やっぱり、お母さんも無理してるんだよ」


 少女は自嘲気味にはにかんだ。

 自分自身がふっきれたからだろうか。それとも、普通の人間以上でない母を認識したからだろうか。胸の奥にずっとつっかえていたのが外れたような気がした。

 悲しくて、虚しくて、どうしようもなく苦しいけれど。それでも心は晴れやかだった。久しぶりに、母と繋がれたような気がした。泣きたくなるぐらい悲しい言葉は、それでもするりと喉を通り抜けていく。


「我儘かもしれない。私の身勝手な思い込みなのかもしれない……それでも、私はこの家族の重荷にしか思えない」


 母が目を剥く。引き結んだ唇が震えたが、言葉になることはなかった。少女はさらに言う。


「私はずっと、消えてしまいたかった」


 包まれていた左手が解ける。少女は自由になった左手でシーツを掴み、そこに恐れと悲しみ込めて耐えさせる。


「何をしていても迷惑をかけた。欠陥だって言われて、思われて、いじめられたし距離も置かれた。お母さんとお父さんは、いつも家族でいようとしたけれど……私を殺さないように、家族という形を保っていただけにも思えてしまう。それがますます私をみじめにさせた。無理して家族でいるのなら、最初からいなかった方が良かったんじゃないかって」


 例えようもない感情に硬直する母を、少女は真っ向から見る。顔には微笑を浮かべていた。


「私ね、普通になりたい。温かさも冷たさも知らない自分にそんなこと無理だってわかってる。自分が普通じゃないのは何度も思い知っている。でも、こんな生活を生きてるって呼びたくないの」

「……私も、父さんも、あなたがいてくれれば、それ以上は要らないわ。それじゃあダメなの?」

「私は生きているだけで誰かの重荷になる。そんなのは嫌なの。だったら、生きている意味なんてない。私は……誰かのためになりたい」


 言いながら、自嘲する。なんて過ぎた要求なんだろう。なんて分不相応な願いなんだろう。普通じゃないことは自分が一番よく分かっているのに、未だに普通に固執するなんて。

 俯き自責していた少女は、だけどと首を横に振る。


「助けられる人ができたの。自分にしか手の届かない人ができたの。だから私は、その人を見捨てたくない。何に変えても……」


 例え自分の命に変えても、と言おうとした口が、引き結ばれる。メアリの鬼気迫る形相が、目を閉じた暗闇から浮かび上がる。

 殺されかけた。生きたいという自分の欲求を看破された。

 殺す気だった異形の目。血にまみれた、生臭い暴力の香り。今でも鮮明に思い出して、卒倒しそうになってしまう。

 それでも、少女は笑うことができた。少女はメアリの目をよく知っていたからだ。

 どうしようもなく寂しいのに、助けを求めたくて堪らないのに、他人を突き放してしまう苦しみの目。やっぱり、メアリと少女はどこか似ていた。


「ごめんね。多分私も意固地になってる。産まれて初めて、放っておいてって言われちゃったから。私が普段言っている事を言われて、なおさら放っておけなくなっちゃった」


 あの時、自分は確かに嘘を吐いた。自分はメアリにはなれない。なりたくない。どんなにみじめでも、やっぱり生きていたい。

 自分はどうしようもない欠陥を抱えたただの自暴自棄で、無謀で、そのくせ生きることへの欲求だけはある情けない人間だ。

 だけど、それでもやはり、このまま生きていたくはないのだ。


「私は普通にはなれない。だけど、あの子がいてくれたら。あの子が一言『ありがとう』と言ってくれたなら……私は、私を誇りに思えると思う。それはきっととても怖いことだけど、私に今日まで生きていた意味を与えてくれると信じてる」


 少女は笑って、自失している母の手を取った。左の手の平の上に母の手を乗せ、その上から右手を重ねる。

 夢の中で、そこに『温かさ』のようなものを感じた。かつて本当に感じていて、もう見失ってしまった、無温の中にある何か。

 今はどうだろう? ……何もない。少女の手のひらは、乾いた母の手のひらをなぞるだけだ。

 だけど、いつかは。

 少女が少女として在れるようになった日にはきっと。『温かさ』は、そこに戻ってきてくれるはずだ。



「心配しないで。私はまだ、死にたくはないから……だから、私は絶対、何を言われても止まらないよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る