第17話


 少女はじっと、息を澄ませるようにして夜を待った。

 どんよりと空を覆っていた雲はいつの間にか晴れて、月はこれ以上ないほどに瞬いて夜を照らしていた。

 メアリが呼んでいる。月を見て、少女はそう感じた。

 自分の欠陥に意味を与えてくれた少女が、あの仄かに青い湖畔の底で、陰鬱に佇む屋敷の中で、自分に何かを語ろうとしている。

 きっと、ずっとあの湖にいたのだ。あの継ぎ接ぎだらけの少女は、あの湖で、誰かが気づいてくれるのをずっと待っていたのだ。


 余りにも遠すぎる死の淵から、語りかけ続けていた。

 何を? ……その疑問には、向き合って、対峙する他にない。

 自分は、向き合う必要がある。自分だけが、それに唯一気づく事ができたのだ。

 一部が欠落しているからこそ、助けれる存在がいるのだ。それは、普通から逸脱して死すら思うようになった少女にとっては、何にも代えがたい救いだった。


 --あなたは普通じゃないの


 母の言葉は、今も頭の中に渦巻いていた。

 けれども今、その言葉は少女にとって、湖に足を運ぶ勇気を与えるものになっていた。

 普通であろうとすることに、最早何の思い入れもない。


 湖には、今日も満点の月が浮かんでいた。水面は寡黙で大人しく、今日も変わらない表情で少女を出迎えてくれる。

 水が反射する空の色は、辺りを包む夜と違う、仄かに青い色をしている。まるで、夜の世界にぽっかりと空いた穴。その穴の縁に立つ少女は、迷いない足取りで穴の中央へと向かう。

 踏み出した足が水面を捉え、ちゃぷんと水しぶきを立てた。温度のない、無感動のヴェールが足を包む。ボートを使おうとは思わなかった。訪れるかもしれない危険は歯牙にもかけなかった。何よりも、メアリに近づきたかった。


 踏み込む足取りに、ためらいは一切ない。一歩、一歩と進むたびに、得も言えない感触が体を登って、全身を包み込む。

 腰まで水が上がってくると、足取りがぐっと重くなる。足に絡みつく抵抗感は、やめろと言われているような気がした。嫌だ。止まってたまるものか。自分は知りたい。自分しか知りえない、自分にしか助けられない少女のことを。前のめりになって、乱暴に飛沫を上げながら進む。水面が少女の進軍を受けて大きく揺らいだ。

 肩まで沈むと、足がふっと楽になった。がむしゃらにもがいていた足を止めて、少女は大きく息を吸い込み、頭を沈める。

 無温の膜が少女を包み、全てから解き放たれたような気がした。柔らかな揺らぎが、少女の心を鎮めさせる。少女は足を折って、体を丸めさせた。


 ふと思う。もしも生まれる前の記憶があったのなら、母の羊水とは、きっとこのような感じなのだろう。意識などない未成熟な体を守る、柔らかで優しい水の膜。

 きっと自分は、そこで一度死んでいるのだ。生まれる時に、羊水の中に一つの感覚を置いてきた。あるいは、未だにその未成熟な魂から、抜け出せていないのかもしれない。だとしたら自分は、いるべくしてここにいるのだ。死んだ場所に、帰るために。


 丸めていた体を戻して、少女は泳ぎだした。

 疲れや不快感は、いつの間にかどこかに消えていた。どれだけの時間泳いでいたかわからない。まるで滑るように、誰かに手を引かれるように、少女は湖の中央へと進んだ。

 住み慣れた家のようにも感じられた。何もない水の中はどこよりも居心地が良かった。進む方向が間違っていないと、確信することができた。


 果たしてメアリは、泳ぎ着いたそこで静かに少女を待っていた。

 血は流れておらず、継ぎ接ぎの体は鞣されたようなすべすべの艶を持っていた。昼間見たおどろおどろしいものではなくて、少女はつい安堵する。

 体を下に沈ませて、少女に近づいていく。メアリも滑るように水の中を移動して、少女と目線を合わせた。色の違う瞳は、心なしか気落ちしているようにも見えた。


 --来た、んだ。


 淡々とした声が、頭の中で木霊する。少女は静かに頷いた。


(教えて欲しいの。メアリのこと。あそこで、一体何があったのか)


 まっすぐにメアリを見て、少女は言った。


(私、あなたの力になりたい。あなたを助けたい)

 --どう、して?


 メアリは首を傾げて、そう聞いた。

 少女は少しの間考える。少女を突き動かしているのは、漠然とした使命感と、「あなたは普通じゃない」という母の言葉だった。それを言葉にするには、なんと言えばいいのだろう。

 一拍の間を置いて、少女は返した。


(あなたが、私に似てるから)

 --似てる?

(そう。私は、一部が死んでいる。だから、普通には生きられない。欠陥を持って死んだまま生きる、異常な存在)


 少女は瞳を伏せ、心の奥底の感情を、水に溶かしてメアリに届けた。

 普通に生きられない。生きることを求められていない。自分が将来どうなろうと、誰も知ったことではないのだ。

 だから。


(生きる理由が欲しいの。……誰かのためになりたいの。だから、あなたに会いにきた)


 心配も、憐れみも、異質なものを見るあの目も、もう沢山だった。

 少女は一人になりたかった。『一人の人間』になりたかった。そして、それを証明されたかった。例えその相手が、人ならざる死者だとしても。



 しかし、少女の心からの思いに、メアリは静かに首を振った。


 --ダメ、だよ。


 信じていたものに裏切られたようだった。少女の目頭にぐっと力がこもる。


(っどうして……⁉︎)

 --メアリは、言った。あそこでずっと。来ちゃダメ、来ないでって。


 屋敷に現れた血まみれのメアリを思い出す。裂かれた喉から血を吹き上げて、声にならない絶叫を上げていた。あれは、自分に警告をしていたのだ。ここにいてはこうなると、自分の惨状を以て。

 メアリが目を細める。哀れむような目だった。


 --それに、あなたはメアリじゃない。

(分かってるよ。私はあなたじゃない。だけど……)

 --このままだと……


 抑えがたい怖気に、少女は言葉を失った。メアリの継ぎ接ぎの体を見て、自分の体がその一つになる様を錯覚する。


 --メアリは、おしまい。メアリは水の中で、おしまいになった。みんなみんなメアリになった。

(……)

 --あなたはメアリじゃない。あなたはメアリになっちゃダメ。


 突き放すようにそう言って、メアリは少女に背を向けた。そのまま、遠くに消えて行こうとする。

 少女は泣きそうになりながら、水を掻き分けてメアリを追いかけた。嫌だ。ダメ。行かないで。

 あなたがいなければ何も残らない。私はただの異常になってしまう。

 生きているだけで迷惑をかける。誰の為にも生きられない。

 私が私で生きていい理由は、あなたしかいないのに。


 無我夢中で、がむしゃらに、水をかき分ける。ぐぅぅっと喉が収縮して、頭が破裂しそうになった。溜まらず水面に上がり、顔を上げる。ぜはぁっと喉が野太い唸り声を上げた。こんなことをしている場合じゃないのに。あの子を追いかけなければいけないのに。それなのに体は苦しくて、無様に生きようとする。それが本当に、惨めで情けない。

 泣きそうになりながら、少女は再び体を沈める。メアリはまだそこにいた。だけど、遠い。見えなくなってしまう。消えて、突き放されてしまう。手を伸ばして彼女の姿を求める。気づくと心が勝手に叫んでいた。


(っ--死ぬのなんて、怖くない!)


 メアリの動きがピタリと止まった。

 少女の言葉が、メアリの感情に触れた。心のままに、少女は叫び、泣く。


(死んだっていいよ。どうせまともには生きられない。生きていていいことがあるなんて思えない。なら死ぬのなんて怖くないよ!)


 生きるだけで迷惑をかけるならば、生きなければいい。

 それは呆れるほど単純で、少女が幾度となく自問自答した、目を覆いたくなる現実だった。


(このまま生きたくなんてない! お母さんのあの目も、みんなの態度も、全部全部うんざり! だったら……私は、あなたと一緒がいい!)


 涙を湖に溶かしながら、少女は叫んだ。

 もう自分がわからなかった。何をすればいいのか。何が欲しいのか。何も見えない。何も分からない。未来なんて描けない。幸せなんて想像もつかない。自分はすでに、自分の手のひらも見えない暗闇に投げ出されているのだ。

 我儘かもしれない。未熟な少女の現実逃避かもしれない。だけど、メアリは自分にとって、確かな救いだったのだ。




 --ほんとう、に? 


 ……その救いが、牙を剥いた。

 ゆっくりと振り返る。メアリの目は人間のものではなかった。恐怖・怒り・憐憫・絶望。そんな負の感情が全てを支配した、負の感情そのもののような目をしていた。

 人ならざるものの目が自分を射止める。一瞬で、心臓を鷲掴みにされたような気がした。

 言葉を失う少女の眼前にメアリが恐ろしい勢いで詰め寄る。継ぎ接ぎの体が、死そのもののような双眸が、心を恐怖のどん底に叩き落した。


 --じゃあ、メアリになってよ。

(っ……!)


 メアリは少女の首を鷲掴みにした。メキ、と首の骨が悲鳴を上げる。肺から空気が勝手に抜け、水面へと上がっていく。

 もがく腕が、どろりと絡めとられる。水はいつの間にか、血のような真紅に変わっていた。いや、それは血そのものだった。ドロドロとしたおぞましい感触が体にまとわりつき、腐った肉の匂いが鼻腔を蹂躙する。

 無数の悲鳴が聞こえた。夥しい血が意志を持つように、少女の聴覚を滅多打ちにした。男の声。女の声。そのどれもが幼く、甲高い声で痛々しい絶叫を張り上げていた。それはまさしく絶命の悲鳴であり、少女が考えうる限りの痛みと絶望を心に刻みつけさせた。


 声すらあげられない。少女の悲鳴は全て気泡となって儚く消えた。メアリは首を絞める力をますます強め、首をへし折ろうとしている。

 空気を失い、体が酸素を求めて勝手に暴れだした。がむしゃらに血の海をかき分け、何かを求める。血の海が少女のもがきを包み、無駄なことだと嘲笑う。

 死ぬのだ。自分はメアリになるのだ。体を包む、残酷でおぞましいこの血に溶けてしまうのだ。


(嫌だ……嫌だ、嫌だ。嫌だ!)


 腕を振り回す。力一杯頭を振る。メアリの腕に手をかける。全てが無駄なあがきだった。苦しい。死ぬ。死ぬ。苦しい。苦しい苦しい苦しい怖い怖い怖い怖い!


(嫌だ、助けて……死にたくない!)


 心が泣き叫ぶ。その瞬間。自分を包んでいた恐怖は消えた。メアリの手が離れ、血の海は元の透明度を取り戻す。

 メアリの体が、静かに離れていく。少女の命は限界を迎えていた。体が石のように硬く、泳ぐ力を失っていた。水が、ゆっくりと少女を持ち上げていく。




 --ホラ、ね。


 少女を見つめるメアリの目は、今にも泣き出しそうなほどに揺れていた。


 --あなたは、メアリになっちゃダメなの。


 その言葉を最後に、少女の意識はぷつりと途絶えた。

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