第14話



 ーーそれから、動き出せるようになるまで数分。


「ふぇぇん……もう嫌ですわぁ、怖いのも気持ち悪いのもこりごりですわぁぁぁ……!」


 泣いてぐずるお嬢様を背中に、少女は廃墟への道のりの戦闘を歩かされていた。

 予想していた通り、怖がりどころか森への耐性もないようだった。すっかり心が折れてしまったお嬢様は、少女の肩に手を置いて、ずぅっと下を向いて震えてしまっている。


「ね、ねえ。帰らない? 私、別に今日じゃなくても……」

「……」


 心配半分呆れ半分で少女は尋ねるのだが、お嬢様は無言のまま、両肩を掴む手がぐいぐいと少女を前進させる。どうやら、引き返す気だけはないみたいだった。


(……変なの)


 お嬢様は、どうしてそんなに自分と友達になることにこだわるのだろう。

 友達って、なんだっけ?

 もやもやしたものが浮かんだけれど、少女は嘆息でそれをごまかして、押されるままに前進する。

 思ったより長い道のりを経て、二人は森のトンネルを抜け出た。屈めていた姿勢を直して、背伸びをする。

 洋館は、少女の目の前にひっそりと鎮座していた。


「……わ」


 その建物は、少女も思わず声を上げてしまうほど、物々しい雰囲気を纏っていた。

 年季を感じさせる、大きな木造住宅だった。薄黒い木の板はあちこちが割れたり穴が開いたりしていて、苔や蔦が無作法に生い茂っている。横に幅広い二階建てで、十字格子の窓が横に六つ並んでいる。その内三つほどのガラスが割れていて、ちぎれた汚いカーテンがゆらゆらと揺れていた。赤煉瓦で作られた煙突が、自分の存在を忘れたように苔に覆われている。

 あちこちが腐食して、家としての役目はすでに終えているようだった。隙間風だけが木を軋ませ、カーテンを揺らしている。

 世界から置いてけぼりを食らったような、家としての役割の消失。時間の停滞。それでいて元がいい家なのか、作りはしっかりしていて、まだ人がいてもおかしくなさそうに見えた。

 死んでいるのに、まだ家として残っている。それがまるで死者が自分を手招きしているようで、少女は背筋を撫でられるような心地悪い感覚を覚えた。


「ふぅ……さぁーて! ようやく目的地に到着ですわ!」


 トンネルを抜けて、お嬢様は復活したみたいだ。大仰に両手を仰ぎ、くるくると回る。


(あ、でも顔が笑ってない)

「さあさあ、本番はここからですわよ! 聞くところによると、ここには誘拐され殺された子供の幽霊がいるらしく、自分を探しに来てくれた親を求め、あるいは遊び相手を求め、入ってきた相手を問答無用であの世へ引きずり……こんで、し、しまうという……」


 自分の台詞で恐怖が湧き上がってきたのか、お嬢様はみるみる意気消沈していく。と思いきや、ぶるぶると首を振って、再びお嬢様の背中を押す。


「さ、さあ行きましょう! 今回のメインはあなたなのですから! 心ゆくまで怖がっていただきますわ!」

「エスコートは?」

「目的地に到着したのでおしまいなんですっ!」


 息巻くお嬢様に笑みをこぼしながら、少女は押されるままに前進する。

 生い茂るシダの中に、屋敷へと通じる一本の道が開かれていた。地面を見れば、いつできたかも分からない石畳が敷かれている。屋敷の周囲は芝生が伸び放題になっていて、いくつかの遊具やボールが打ち捨てられていた。死に絶えた子供の遊び道具に、少女もちょっと怖気を覚える。


「ここ、元はなんの建物だったんだろう?」

「さ、殺人鬼の秘密の隠れ家なんて呼ばれてもいるようですわ……普段は温厚な住民を装って、遊びに来た子供を殺してしまうとかそうじゃないとか」

「それで子供の幽霊か……なんか、言いたい放題だね」


 あの子供用の遊具から発展して、そんな憶測を生んでいるのだろう。少女の視界の端で、腐って茶色くなったサッカーボールがころんと転がった。

 玄関のドアは、屋敷の右端にあった。三世帯くらいは楽に住めそうな屋敷は、近くにくるとかなりの凄みを感じさせる。

 お嬢様はもうずっと少女の背中にしがみついて震えている。少女も息を飲んで、屋敷のドアに手をかけた。

 禁断の箱に手をかけるような緊張感。しかしノブは回ったものの、引こうとするとしっかりと抵抗があった。


「……鍵がかかってる」

「そ、そうなの? 廃墟なのに?」


 それで拍子抜けしたのか、お嬢様は少女の背中から離れ、きょろきょろと辺りを見回しだした。

 左を向けば、壁のようにそびえ立つ黒い木が並んでいる。家全体から、腐葉土の息が詰まる匂いがした。


「あーん、もう! ここまで怖い思いさせておいて空振りですの⁉︎」

「うん……怖いのはここからのはずなんだけどね」


 出鼻をくじかれ、二人は屋敷の前で一息つく。

 ひゅうと風が吹いて、森がざわめいた。お嬢様が身を縮める。


「なんだか、寒くありません? 一気に冷え込んだような……」

「そうなの?」

「そうなのってあなた……あ」


 それに気づいて、お嬢様は言いかけた口に手で蓋をした。お嬢様の目が、申し訳なさで濁る。

 少女も、ふいと顔を背けてしまった。一気に、気まずい空気が二人の間にわだかまる。どうしてもこうなるのかな、という落胆が滲んできた。

 気にしないで、と。そう一言言えれば済む話かもしれないのに。自分の狭量さも思い知らされて嫌な気分になる。


 うつむきかけた、その時だった。少女の肩に、ふわふわしたものが覆いかぶさってきた。見れば、自分の背中に仕立てのいいダッフルコートがかけられている。

 驚いて後ろを振り向けば、気恥ずかしそうに明後日を向いたお嬢様が、腕組みして胸を張っていた。


「それ、使ってくださいな。ここはなんだか冷えますから、温かくしてくださいまし」

「え……でも」

「私の両親、過保護なんですの。今の時期、私にこんな厚着は必要ありませんから」

「……」

「仲良くなりたくてあなたを連れてきたのは私。なら無事に返すのは私の義務ですわ!」


 言葉を無くす少女に駄目押しのように言って、お嬢様は笑った。大胆不敵な、でも花のように綺麗な笑顔だった。得も言えないものが胸の中に沸き、コートを掴む手にぐっと力をこもらせた。


「……うん、ありがとう」

「当然の義務ですわ。ささ、ともかくこのまま帰るのは癪ですわ。これだけ古びているんですもの。どこかに抜け穴があったりしないかしら」


 お互いが見える場所にいることを約束して、二人はまず正面から調べることにした。

 屋敷は近くで見ても相当な年季を感じさせたが、人が潜れるような大穴は空いていない。窓はガラスが割れているものもあったが、全てに十字の木枠ががっちりとはまっていて、外せそうにもない。

 少女は家壁をそっとなぞる。湿ってざらざらした不快な感触がして、指に黒ずんだ苔がこびりつく。苔の剥がれた中に、壁のように硬い樫の木が見えた。


 奇妙な違和感を感じた。施錠された玄関に、格子のはまった窓。生きている気配が一つもないのに、しっかりと外部との関係を遮断している。

 これを廃墟というのは、なんだか憚られる。

 廃墟というには、何だかしっかりしすぎているような気がした。


「うーん、穴はあるけど、通れるのはせいぜいネズミさんくらいねぇ……ねえ、あなたは何か見つけました?」


 玄関周りを調べていたお嬢様が、そう聞いてくる。

 答えようとして振り返った、少女の表情が凍りついた。

 心臓を直にわし摑みにされたような衝撃。肌が一気に粟立って、少女の足をすくませた。

 玄関前にしゃがみこんだまま、こちらを向いているお嬢様。その奥。

 白いワンピースを着た子供が、ぐっしょりと濡れた髪から雫をこぼしていた。

 左半分だけ浅黒い顔。厚みのある黒い右腕。赤ん坊の片足。ちぐはぐのパーツを無理やり繋ぎ合わせた、できの悪い人形のような子供。


(メアリ⁉︎)


 時間が丸ごと止まってしまったみたいだ。少女は息すらできず、目を見開いて凍りつく。


「……な、何ですの? 何かいましたの⁉︎」


 お嬢様が大慌てで振り返る。しかしその視線は、メアリを素通りしていくばかりだ。

 慌てふためくお嬢様の背後から、びしょ濡れのメアリが色の違う左右の瞳でじっと少女を睨みつけている。

 メアリは、静かに白い方の腕を持ち上げた。

 胸元にナイフを突きつけられたみたいに、体が緊張でぎゅうっと膨らむような気がした。心臓が飛び出しそうなほどに跳ね上がり、体中の血管が膨らんでいる気がする。

 ゆっくりと持ち上がった手は、少女の目をまっすぐに指さした。両目に宿った静かな狂気は、それだけで自分を殺してしまいそうな気がした。


「~~~~っもう! あまり怖がらせないでくださいまし!」

「え? わっ、わぁ⁉︎」


 鬼気迫る少女の表情に耐えかねてか、お嬢様が飛びついてきた。真正面からの突進を受けて後ろに吹っ飛ばされる。

 尻餅をついた少女の至近距離から、お嬢様は軽く涙目の目をきつく尖らせてみせた。


「ま、ま、ま、まったくもう! そういうのは人間の底が見えるんですからね⁉︎ お、お願いですからそういうのは控えていただけると……」


 少女は息巻くお嬢様の後ろを確認する。あの白いワンピースの姿は、嘘のようにかき消えている。その代わり、今度は背後に得も言えない悪寒を覚えた。

 振り向くと、遠い屋敷の角にメアリが立っていた。

 不揃いの足で佇んでいたメアリは、ふいと横を向くと、地上を滑るように、屋敷の裏手の方へと消えていった。

 誘っている。その意識が、少女を立ち上がらせた。引き寄せられるように、メアリの消えた方へと足が動く。


「ま、まだ続けますの? ねえ、ちょっと?」


 戸惑ったお嬢様の声が投げられたが、それに返事も返さず、少女は無作法に生い茂る草を踏みしめる。

 屋敷の角を曲がると、細いあぜ道が家壁と森に挟まれていた。そこは空の光をほとんど遮断して、おどろおどろしい暗闇を抱えていた。腐った木の壁は黒々とそびえ立ち、今にも少女に倒れかかり、飲み込んでしまいそうに見えた。

 そして、その細くて黒い道の向こうに、またメアリがいる。どれだけ離れていても、鋭い視線は、確かに自分に突き立ったままだ。


 皮膚が粟立って、先に待つものが良からぬものであることを警告していた。そっと首筋に触れると、冷や汗が滲んで不快な湿り気を帯びていた。

 森は息絶えてしまったのかと思うほどに静かだった。踏みしめる土の水っぽい音だけが耳を揺らす。ぬかるみに何度となく足を取られかけて、酷く緩慢に足を前に出す。視線はメアリ一点だけを注視して、他の事を考えることができなくなっていた。


 −−メアリは水の中。


 湖にいる幽霊だったはずだ。本人もそう言っていた。それなのに、なぜここにいるんだろう?

 子供の幽霊が出る、とお嬢様は言っていた。根も葉もない噂だと思っていた。だけど、本当なのだろうか? メアリが子供の幽霊? だったら、どうして家の裏手の湖にいたのだ?

 進むにしたがって、白いワンピースを着たメアリの姿がどんどん大きくなっていく。あと少しで辿り着く−−そう思って目を瞬いたら、その瞬間に彼女の姿はかき消えていた。


「……もうっ」


 遊ばれているような気がして、少女は思わず悪態を吐いた。

 彼女のことをもっと知りたい。あの日からずっとそう思っているのだ。こうなったら、とことん付き合ってやる。そう意気込んで、畦道を抜ける。

 屋敷の裏には小ぶりの湖があった。鬱蒼とした木々に囲まれたそれは、少女の家の裏手に比べれば、赤ん坊みたいに小さい。

 奇妙な圧迫感を感じて、振り返る。屋敷の壁がせり上がるようにして少女をすくみ上がらせる。

 違和感の正体はすぐに気づいた。窓が縦に3つに増えている。地下1階もあって、実は裏に行く際に緩やかな傾斜を降りていたらしい。長い間水にさらされた、黒ずんだコンクリートの分厚い壁が見えた。


 屋敷の裏の地面は、なんだか不思議な形をしていた。屋敷の裏だけ五〇センチほど陥没して、円形状に縁取られた窪地のようになっている。家の裏側に、局所的に大きな地盤沈下が起きたみたいだった。

 窪地のへりの部分から見下ろすと、水田みたいに薄く水が張っていた。背の高い水草がぼうぼうに生えていて、でろでろとしたよく分からない緑色のぶよぶよもある。正直汚らしい。屋敷の裏手には鉄格子のついた大きな排水溝があって、そこからちょろちょろと水が流れていた。

 水はゆっくりとした流れをつけて、奥にある小さな湖に流れているらしい。どうやら、屋敷の排水はここに流れるようにできているみたいだ。


(あれ……排水……?)


 ふと、その言葉にひっかかりを感じた時だった。頬に鈍い痛みを感じて、首がぐるりと横を向く。

 目にいっぱいに涙を溜めたお嬢様が、自分のほっぺたをつねっていた。左頬をつねって首を回させて、空いていた右頬もむんずとつまむ。


「っ〜〜勝手に行かないでって、言ったじゃありませんのよぉぉ……!」

「あぅ……ご、ごめっ、ごめんなひゃい……」


 慌てて謝るけれど、お嬢様はかなり怒って……いや、怖がっているみたいだった。顔は真っ赤に上気して、気丈に吊り上げた目はうるうると揺れている。

 威嚇する子猫みたい。そう思ったけれど、お嬢様はつねったまま、少女のほっぺたをぐにぐにと上下しはじめる。


「ほんとに! ほんとに怖かったんですからね! 黙ってフラフラ歩くんですから一体どうしたんだと気が気でなくですね!」

「い、いひゃっ、いひゃぁ……」

「ふ、ふたりで一緒に来ているのに私を放り出してしまって! 私のエスコートはどうしたんですのよ!」


 お嬢様の威厳なんて、もうどこにもない。すっかり立場が逆転してしまっていたが、それを指摘することもできず。しばらくされるがままになって、ようやく少女のほっぺたは解放された。


「まったく。体質だけに飽き足らず、あなた自身も随分と不思議ちゃんなんですわね。思うにあなたはもっと人とのコミュニケーションというものを大事にしないと、そのうち社会で……」


 くどくどと高弁を垂れるお嬢様に話半分に耳を傾けながら、少女は裏庭をぐるりと見回す。メアリの姿は、どこにも見当たらなかった。

 メアリは確かに、自分をここに誘っていた。ここに何かがあるのだろうか?

 雲は一段と濃くなって、空間全てを薄暗い灰色で包んでいた。不穏な空気はますます色濃くなる。

 このまま帰れってこれないような気さえする。気のせいだろうか。ダッフルコートをぎゅっと握っていると、不意に肩を叩かれた。


「ねえ。ここの窪地はアレですが、向こうは綺麗な湖じゃありませんこと?」


 お嬢様が指し示す。確かに、小さな湖は、怪談が流れるような環境とは正反対に綺麗だ。浅いのか、底までよく見通せる。もし子供がいたのなら、ここで泳いだりしていたのかもしれない。

 好奇心旺盛なお嬢様がいち早く駆け寄り、そっと手を触れる。


「ひゃっ、冷たい……もうそんな季節なのね。それとも、上流だからかしら」

「上流?」

「ホラ、小さい小川ができていますわ。もしかしたら、湖のつながりの中でも始まりの方かもしれませんわね」


 そう言って指し示す先には、確かに細い小川が見えた。木々の囲いが、その1箇所だけ開かれている。

 どこかの湖に繋がっている……ふとある考えが少女の脳裏に浮かび、お嬢様に問いかける。


「ねえ。ここって、何区かな?」

「え? ××区ですから……先ほど通った、あなたのお家と同じ地域ですね」

「……」


 いくつかの湖が繋がっている事は、そう珍しい事ではない。地図に記されないような、すごく小さい川だってあったりする。

 ……繋がっていたり、するのだろうか。少女の家の湖と、ここが。

 であれば。ここがメアリの……


 ーーこぽ。


 不意にあの音がして、少女は顔を上げた。湖を見回す。

 視界の端で、ふわりと揺れるワンピースを見た気がした。何かがいるという存在感が、自分の脇をするりと通り抜けていく。

 振り向けば、腐敗して黒くなった屋敷がそびえ立っていた。薄暗くおぞましいその姿が、自分をじっと見下ろしている。

 止まっていた冷や汗が、再び頬を伝った。なぜだろう。なぜ、こんなにも見られているような感覚がするのだろう。

 気配は窪地の中へと入り、屋敷の排水溝へと向かっていった。表現できない予感のようなものが、少女にそう確信させる。いてもたってもいられずに、少女はお嬢様からもらったダッフルコートを脱ぎ、手渡した。


「え? 急にどうしました?」 

「ありがとう。すごく、うれしかった」


 目を白黒させるお嬢様にそう言って、笑う。心から感謝の言葉を言えたのは、初めてかもしれなかった。


「でも、汚すと悪いから」


 言い残して、少女は迷いなく、水の流れる窪地に踏み込んだ。膝頭までが水に浸かり、べったりと張り付く気持ち悪い感触を伝えてくる。

 お嬢様の制止の声が聞こえた。それに返事も返さず、窪地の奥へざぶざぶと進んで行く。粘っこい浮き草が絡みついて、非常に気持ち悪かった。

 地下一階部のコンクリートは、長年水にさらされたせいか、表面がくろずんで脆くなり、非常に頼りなく見えた。壁にそっと触れてそう見立てをつけて、少女は排水溝に視線を移した。

 大きな排水溝には、重厚な鉄格子がかけられて、そこからちょろちょろと水が溢れ出している。やけに上の方から水が溢れているので確認すると、屋敷側にゴミが堆積し、穴の下半分を完全に塞いでいた。ゴミは水に浸かっていたせいで腐敗し、形状のないヘドロのようになってしまっている。


 排水溝は、近づくとひどく獣臭い匂いがした。顔をしかめて目を逸らそうとして、少女はある事に気づく。

 排水溝の周囲のコンクリートが、他に比べて異様に脆くなっていたのだ。例えば硬貨のような硬いものを執拗に擦り付けたような、そんな細かい傷が、夥しい数見られた。

 傷は排水溝にも無数にあり、錆び付いた赤銅色の一部をへこませる程に至っている。周囲を留めるネジ金具も、所々がコンクリートから剥がれかけていた。

 少女は言いようのない怖気を覚える。どう考えても、自然にできるものではなかった。誰かが何週間にも渡り、この排水溝をこじ開けようとした。そのおぞましい執着心が、ありありと浮かんでいた。

 動機が激しくなり、呼吸が荒くなる。嫌な予感が絶え間なく全身を駆け巡っていた。


 確信する。目の前に見ているのは、間違いなく『禁忌』だ。

 戦慄したその時、ふと視線を感じて水面を見下ろす。

 爛々と輝く色の違う瞳が、少女に狙いを定めていた。


(メアリ……っ!)


 口が三日月型に吊り上がる。黒と白の手が伸ばされ、水面を突き破って、少女の小さな頭を鷲掴みにした。凄まじい飛沫が上がり、少女は恐ろしい力で水中に引きずり込まれた。

 空気が肺から抜け出し、水疱のシャワーが耳を叩く。無温の水は、なぜだか異様に気持ち悪かった。口内に飛び込んできた水は、何かが腐った味がした。見えない力が自分の頭を押さえ込み、体を水が絡め取る。

 恐怖と混乱で、少女はパニック状態だった。悲鳴を上げようとした口にくさい水が飛び込んでくる。もがく両手両足は、水面を掻こうとした瞬間に、見えない力に阻まれる。透明な大蛇に絡みつかれているようだった。食べられる? 死ぬ? 混乱の中で、そう錯覚する。

 もがく。水が跳ねる。気泡が爆ぜる。恐怖と音で、酸欠に陥りそうな思考がかき乱される。そんな状態の中、少女は声を聞いた。


 −−メアリは、水の中。メアリは、もうおしまい。


 酷く寂しげで儚い声が、脳内に木霊する。

 体を回して、水面を睨む。曇り空を映す水面はひどく遠くに感じ、二度とその天井には辿りつけない気がした。多くの水を飲み、気道が詰まる感じがする。何かが腐った味が、魂まで染み付いていく気がする。

 声は淡々と、少女の頭に入り込んできた。


 −−みんなも、そうだった。みんな水の中にいた。そして、みんなそれでおしまいだった。


 視界がちかちかと明滅し、そして段々と暗くなっていく。水面から、誰かが自分を見下ろしていた。

 水面が揺らめき、誰かの手が伸びてくる。酷く萎びた、乾いた手。終わりだ−−。どうしてか、そんな言葉を思う。


 −−みんなみんな、おしまい……だから、水の中はおしまいなの。



 今にも泣き出しそうな声が頭を横切って、暗闇が少女の意識を支配した。


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