第15話
--ぴちょん。
--ぴちょん。
どこか遠くで、水滴の落ちる音がする。
断続的に響くその音はひどく寂しくて、まるで泣いているみたいだった。
うっすらと意識を取り戻した少女は、瞼を開けようとして気づいた。体が動かない。体を揺すろうとしたが、腕も足も同じだった。
金縛りだ、と、変に冷静な思考がそう結論を打った。自分にぴったり型どられた棺桶に入れられたみたいに、体が自分のものではなくなっている。
ぬめりのあるものが体に巻き付いている。服がじっとりと濡れていることに気づき、それで自分が溺れかけて意識を失った事を思い出した。どうやら固いベッドに薄いシーツを敷いた場所に寝かされているようだ。生乾きのシーツの感触が、背中をじっとりと包み込んでいる。同じように、じっとりと濡れたタオルが体にかけられているのも感じられた。
水に飲まれたあの時と、今の自分の環境とがつながらない。ここはどこで、自分は今どうなっているのだろう? 目は一向に開かず、聞こえるのは断続的に響く水の音だけだ。
他にできることもなく、否応無しに水の音に耳を澄ませる。頭を乗せたシーツの、更に下から聞こえてきているようだった。遥か下の方に洞窟でもあるような、不安に誘うような反響をしている。
--ぴちょん。
--ぴちょん。
耳を澄ませていると、次第に音は存在感を増してきた。夢を見ているように朧げだった音が、次第に明確なものになっている。
不意に、薄暗い地下でずぶ濡れの女が佇んでいるイメージが、鮮明に脳裏をよぎった。金縛りで動けない体に閉じ込められた魂が、恐怖に震える。
その瞬間だった。音が聞こえていた場所から、ざばぁという荒々しい水音。何かが水を掻き分けて、走り出していた。来るっ--そう感じ取るも、体は身じろぎすら許してくれない。
何かは水を上がるとけたたましい音を立てて床を蹴り、少女の所に突進していた。廊下を突き抜け、自分の元を目指して疾走する怪物の光景がありありと脳裏に浮かんだ。
本能が警告を鳴らして、懸命に体を起こそうと躍起になる。金縛りにあった体は、心を固く閉じ込める檻に他ならなかった。まるで、肉食獣の檻に放り込まれた生き餌だ。
足音は、一定の距離を置いて不意に止まった。部屋の入口で立ち止まったのかもしれない。痛いほどに突き刺さる視線が、自分と怪物の間を隔てるものが何も無いことをつたえていた。
餌の前に、怪物が姿を表す。動けない少女は成す術もなく、ただ息を顰めることしかできない。怪物はゆったりと近づき、自分に覆いかぶさってきた。
ぽたり、と頬に水滴が落ちてきた。何かは間近から、少女の顔をじぃっと、舐るように眺めている。
(……メアリ?)
何かの予感を感じて、少女はそう呼んでみた。時間が止まったかのような静寂が、少女の心を凍らせる。
返ってきたのは、獣の咆哮。
人ならざる絶叫が少女の魂を鷲掴みにした。びしゃびしゃと生臭いものが少女の顔に降り注ぐ。臓物の混じった血の滝だ。
夥しい血と凄まじい絶叫に、少女は断末魔に等しい悲鳴をあげた。
「きゃあああああああ! ……あ」
腹の底からの絶叫を上げて、少女は飛び起きた。がむしゃらに両手両足を振り回し、我に帰る。
見慣れない、古ぼけた木の壁に囲まれていた。苔生した空気が鼻腔を抜けて、思考を一気に冷静に戻した。
首を回す。ビックリするぐらい何も物がなかった。煤けた窓は隙間風を受けてカタカタと軋み、汚れの溜まったクリーム色のカーテンがゆらゆらと揺れているベッドの脇にある小さなタンスの上には、古ぼけた写真立てが置いてある。頭髪を剃り上げた黒人の男の子が、穏やかな顔の老女に抱かれて笑顔を浮かべている。そら寒い空気が漂う部屋の中で、その写真だけが、なんだか場違いに幸せそうだった。
身辺を確認すると、水気を拭われてはいたが、やはり体はひどく濡れている。体にかけてあったタオルとシーツも、水で濡れてぐっしょりとしている。
胸に手を当てると、心臓は未だ激しく胸を叩いていた。はぁ、と息を吐くのにも余裕はない。
推測するに、ここは屋敷の中なのだろう。屋敷の裏の水辺で意識を失って、運び込まれたのだろう。屋敷には鍵がかかっていたはずだが、一体どうしたのだろう。
それに、あれは何だったんだろう……顔にぶちまけられた血は余りにも生々しく、夢であることが未だに信じられないでいる。
ここに来てから、異質なことばかりだ。湖から抜けて現れたメアリ。誘われた排水孔。生々しく恐ろしい夢。湿り古ぼけた屋敷に言葉にできない不穏な空気を感じて、少女は息を飲んだ。
ふと視線を落とすと、見慣れたダッフルコートが無造作に床に投げ出されていた。ひょっとして、毛布代わりにかけてくれていたのを、起きた拍子に飛ばしてしまったのだろうか。
お嬢様はどこにいるのだろう。運転手の人を呼んで、もしかしたら救急車を呼んでくれているのかもしれない。
こうなったことも、お嬢様の制止に聞く耳も持たず飛び出してしまったのが原因だ。随分と心配をかけたかもしれない。
脳裏に母の顔が思い浮かんだ。心配をかけさせないでという、冷徹な目。冷水をかけられたように身がすくんだ。強い申し訳なさを感じて、丁寧にダッフルコートを手に取る。
その時、廊下を誰かが歩いてくる音がした。古い木床がギシギシと軋み、少女の振り向くと、見慣れない老婆が、ドアの影からぬるりと顔を見せた。窪んだ眼孔の下の瞳が、値踏みするような色を持っている。
「……起きたのかぁ。落ち着いたら、下に降りておいでぇ」
老婆は間延びする声で淡々とそう言うと、さっと身を翻して姿を消してしまった。ギシギシという音が遠ざかっていくのを、呆然と見送る。
今の自分がどんな状況に置かれているのかいよいよ分からずに、少女は恐る恐る立ち上がる。ふと振り向くと、写真の中の笑顔を浮かべた黒人の男の子と目があったような気がした。後ろ髪を引かれる思いをしながら、部屋を後にした。
外から見た通り、屋敷はかなりの広さを誇っていた。少女が眠っていたのは寄宿スペースのようで、板張りの長い廊下に、画一的な内装の部屋が並んでいる。突き当たりに出ると廊下はL字型に伸びていて、更に洗面所やトイレがあるようだった。その脇に古い階段があり、何やら話し声が聞こえていた。
廊下も感情も頑丈な作りをしていたが、全体的に黒々と汚れていて、表面の劣化が激しかった。漂う空気も古めかしく、湿り気の多い陰気な気をまとっていた。その空気から逃げるようにして、少女はギシギシと軋む階段を下る。
食卓にもなっているらしいリビングに出ると、お嬢様のきつい抱擁が待っていた。
「ご無事でしたのね! 本当に良かった!」
「う、うん……心配かけて、ごめんなさい」
頬を寄せるお嬢様の目に涙が溜まっているのを見て、少女は素直に謝罪をした。
お嬢様は早口気味に顛末を話してくれた。溺れかけた少女は、騒ぎを聞きつけて屋敷から出てきた老婆に引き上げられ、二人ともを屋敷に招いてくれたのだそうだ。
部屋に寝かされて、二〇分ばかり寝込んでいたらしい。少女が視線を移すと、老婆は机の対面に腰掛け、黒い瞳をじっとこちらに向けている。
「あの……助けていただいて、ありがとうございました」
「礼なんていいよぉ。元気なら、それでいいさぁ」
しゃがれた少し高い、間延びした声で老婆は返した。枯れ草のように薄く色素のない唇を三日月に引き上げる。笑っているという事を理解するのに時間がかかってしまった。
「そこのお嬢ちゃんから聞いたよ、肝試しに来たんだってねぇ。最近変な輩が増えていたけど、まさかこんな女の子まで来るとは……」
「す、すいませんでした。廃墟って聞いていて、まさか人が住んでいるなんて」
「仕方ないさぁ。ボロいのは事実だからねぇ。噂が立つのも、仕方ない、仕方ない……」
イッイッ、とえずくように老婆は笑った。
眼窩は落ち窪み、手足は干からびて枯れ木のようだ。見た目から年を判別できず、まるで何百年もここでひっそりと過ごしているようなイメージを浮かばせた。
部屋の奥から、ピィィとお湯の沸く音がした。老婆が静かに立ち上がると、隣に座っていたお嬢様が声を上げる。
「私が……」
「いいよぉ。座ってな」
有無を言わせぬ迫力があった。お嬢様は二の句を告げずに座り直す。
しばらくすると、老婆は湯気を立てるポットとマグを二つ持って帰ってきた。どちらも古びて薄灰色をしていて、相当な年月を感じさせる。マグには少しヒビが入っていた。
「それでぇ? そっちの嬢ちゃんは、どうしてあんな所で溺れかけていたんだい?」
ポットから紅茶を注ぎながら、老婆がそう聞いてきた。
少女は息を詰まらせ、答えられないでいる。見かねてお嬢様が口を開いた。
「え、ええっと。この子、何か光るものが見えたって言いましたの」
「光るもの?」
「そ、そう。元々は肝試しで来たんですけれど、中々高級そうな屋敷でしたから、このままトレジャーハント! みたいな? あ、アハハ……」
苦笑いを浮かべるお嬢様に、老婆はフンと鼻を鳴らして、湯気の立つマグを少女に手渡した。
「冷えるだろう。気をつけて飲みなぁ」
少女はおずおずとマグを受け取った。沢山の湯気がたっているから、きっととても熱いのだろう。直接触ることができず、手で覆ってそれを持て余す。
一言も話さない少女を、老婆は不審そうに見る。気まずい思いのお嬢様が、たまらず切り出した。
「あの、ここはどういう建物なのですか? お一人で住むには広いお屋敷のようですけど」
「……ここは児童養護施設だったんだよ。沢山の子供たちが、ここで生活していた」
「養護施設……? でも、聞いたことありませんわ」
お嬢様がそう言うと、老婆は物憂げに顔を上げる。
「……非公式のものだからねぇ、誰にも見つからないようにしていたのさ。ここにいたのは、世の中から必要とされていない子ばかりだったからねぇ」
そういうと、老婆はこの屋敷のあらましを説明いてくれた。地方豪族の夫と裕福な生活をしていたが、子宝に恵まれなかったこと。夫の死で多額の財産が残り、それでこの屋敷を建てたこと。
「親が死んで引き取り手のない子供や、路頭で寒さに耐えていたストリートチルドレンなんかを見つけると、皆ここに招いた。最初の子から、二十年にもなるかねぇ」
「それで、その子供達は?」
老婆は唇を引き上げて笑った。
「みんな成長して、どこかにいっちまったよぉ。今はもう、どこで何しているかも分からない。今じゃここは、家の持ち主であるあたし一人が静かに余生を過ごす場所さぁ。微かに残った、あの子たちの残り香を感じながら、ねぇ……」
老婆はにっこりとはにかんだ。その表情は、確かに過去の子供たちを思い出し、慈しむものだった。
不意にお嬢様が立ち上がり、口元を押さえて感動を露わにした。
「うぅぅ、素晴らしいですわっ! 行き場のない子供たちを何人も救ってきたのですね! この街にそんな素晴らしい方がいらっしゃるなんて、私も誇らしく思えますわ!」
「そんな大層なことじゃあないさぁ……単純に、子供が好きなんだよ。それこそ、食べてしまいたいくらいにねぇ」
そう言うと、老婆は横目で少女を伺った。少女は出された紅茶に口もつけずに、所在なさげに明後日の方向を見つめている。その目には、明らかな怯えが浮かんでいた。
「どうやら、お友達はまだ凍えてしまっているみたいだねぇ、早めに帰りな」
「あ、はい。お邪魔いたしましたっ」
「変な噂を流す奴がいたら言っておいてくれないかい? ここには婆さんが住んでいるだけって……子供だけで来る場所じゃないよぉ」
お嬢様は一礼して、携帯を取り出しながら玄関の方へと消えていった。老婆は立ち上がり、お嬢様の後を追おうとする。
未だ座って俯いたままの少女の背後に立つと、老婆はそっと少女の細い肩を掴む。
老婆は、地の底から響くようなしゃがれた声を発した。
「……なにか、見つかったかい?」
「っ……」
こみあげる怖気を振り払い、少女は静かに首を横に振った。掠れた呼吸の音が数度耳を障る。
「そうかい……だったら、いいんだぁ」
「どういう、意味ですか?」
老婆は微笑んだのが、背後からの気配で伝わる。声音からすると穏やかなそれは、どうしようもなく不気味に感じられた。
「見たとおりのババアで、大分ボケもあってねぇ。モノを大事に取っておくくせに、ひょいと捨ててるかもしれないからさぁ……見つけたり拾ってたりしたら、教えて欲しかったのさぁ。杞憂だったみたいだがねぇ」
じっとりと舐るような視線が、少女の首筋に集まっている気がした。
ゴクリと喉を鳴らすと、えずきそうなほどに喉がカラカラに乾いている。張り裂けそうな緊張を押して、少女は乾いた喉を動かした。
「……大事な、ものって?」
その瞬間、とてつもない圧を感じた。
枯木のような両腕が、自分の首をへし折る。ぽきゃっと固く水気のある音と共に、骨が割れる。
そのイメージは、少女の妄想というにはあまりに鮮明すぎた。
恐る恐る、振り向く。老婆はずっと、目と鼻の先で自分を凝視していた。
「……昔の、思い出さぁ」
感情はすでに死んでいた。眼孔の奥底には、深い闇が確かに存在した。
少女はそれ以降一言も発することをせず、お嬢様に連れられて屋敷を後にした。老婆は玄関先まで二人を見送ると、さっさとドアを閉めて鍵をかけてしまった。古い屋敷という印象からはかけ離れた、重厚で物々しい音がした。
「全く、幽霊屋敷なんてとんだ誤解でしたね。噂っていうのは本当にアテにならないものなんですから……」
プリプリと不満を露わにしながら、お嬢様は早く屋敷を抜けようと足を動かす。
きゅっ−−弱々しく、お嬢様の袖が掴まれた。
驚いてお嬢様は振り返る。縮こまった少女の手は、静かに震えていた。
「だ、大丈夫? どうなされました?」
「……あの、ね? あの屋敷……」
蚊の泣くような声は、それ以上の意味を伝えられなかった。お嬢様は手にしていたダッフルコートを、そっと少女の肩からかける。
「寒いですわよね。確かに、あのお婆様には失礼ですが不気味なお屋敷でしたわ。早く帰りましょう」
彼女の優しさが、少女から言葉を発する機会を奪った。急ぎ足で、運転手の待つ森の外へと向かう。
「歩けますか? 囲いには棘がついてますから、触らないように気をつけて」
二人は逃げるように屋敷を後にする。
屋敷を覆う不穏な空気は、お嬢様にも伝播していた。屋敷から離れることに執心して、少女が静かに首を横に振っていることにも、「違う……違うの」と譫言を言っていたことにも、気付くことができなかった。
違う。違うのだ。
どうして、子供の為の養護施設が、有刺鉄線で囲われているのだ。
あの屋敷は、お化け屋敷なんかじゃない。もっとおぞましい、想像だにできない陰惨な何かだ。
あのリビングで、夥しい血でまみれたメアリが、ずっと自分を睨みつけていたのだから。
メアリは老婆の傍に佇み、じっと何かを叫んでいた。その喉には大きな裂け目があり、叫ぶたびにそこから滝のように血を噴き出させていた。
血にまみれた声にならない絶叫は、目を覆いたくなる痛ましさだった。得体の知れない老婆に、血を吐き出して叫ぶメアリ。板挾みの恐怖に、少女の精神は限界まで消耗していた。
精神をすり減らした少女は、同時にある使命感を胸に抱いていた。
屋敷の中で見たメアリは、湖の中よりも凄惨な状況だった。純白のワンピースは血で濡れ、ちぐはぐの体は無数の傷で目も当てられない状態だった。
あの屋敷で、血にまみれ、悲鳴を上げ、そしてメアリは生まれたのだ。
何かがある。想像だにできない、酷たらしい何かが。
突き止めなければいけない。
喉をえぐられた死者の言葉を、聴きとらなければいけない。
それができるのは、きっと、感覚を一つ殺した自分だけなのだから。
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