第11話


 空を覆った曇り空は、今日という日に起こる出来事を予感しているようだった。



 どんよりと重たい雲が、世界を灰色に包み込んでいる。雨の予報はなかったが空気は湿り気を含んでいる。水源が豊かな土地柄なので、こういった天気になることは多い。吸い込むと森の香りが強く感じられるが、運動でもすれば途端に肌がじっとりと濡れてうんざりしてしまう。好きな人はあまりいないだろう。少女も、服が重く感じられるので、こんな日はいつも以上に動かないように心がけていた。

 昼休み。外れの方の校庭のベンチに座り、少女はじっと薄眼を開けていた。宝石みたいな蒼い目は、その周囲をじわりと赤くする充血のせいで濁って見えてしまう。


「……ねむ、い……くぁ」


 くしくしとかゆい目を擦って、可愛らしい声であくびを一つ。ちょろちょろと気休め程度に溢れる噴水の脇を、二匹のリスが駆け抜けていった。

 とにかく、今日は眠すぎた。

 元々が早寝早起きの健康的な生活習慣なのだ。それが三日連続で夜中に湖に繰り出し、その度にカヤックや濡れた服などの証拠隠滅まで行っているから、このところ三時間くらいしか寝れていない。体のあちこちがぶぅぶぅ文句を垂れて、眠気や気だるさを押し付けて休め寝ろとけしかけてくる。


 敷地外れの校庭には今日も人の姿は見られなかった。周囲を鬱蒼と包む森は、曇り模様の今日は特に威勢良く枝を伸ばしているようだ。不気味ではあったが、人に見られずうとうとできるのが、今は何よりありがたい。

 充血した目を閉じて、顔を上げる。雲は隙間なく空を灰色にしていたが、その向こうから、太陽がささやかに大地に光を届けていた。

 眠気に気だるさ。タールみたいにドロドロと体に溜まっているそれが、お日様の光で少しでも溶けていかないだろうか。そう思いながら、ささやかな太陽の光を全身で受け止める。少女は太陽の温かみはまったく感じないのに、体の方は太陽のありがたみを多少知っているらしかった。陽光を受ければどことなく頭がスッキリして、今みたいな寝不足の時は、まるで羽毛布団にくるまれているみたいに、ふわふわとした多幸感に陥らせる。

 夜型になりつつあるなぁ、と、ここ数日の自分を思い出す。思って、すぐにそうではないと感じた。夜型どころではない。自分は夜になる度に、現実ではない存在に会いに言っているのだ。


 日増しにメアリとの距離は狭まり、昨夜は会話までしてしまった。自分は日増しに『異質型』の人間に近づいている。

 曇り空の下で、異質な少女はうとうとと船を漕ぐ。幽霊と話せるのに、体は眠気を訴えて太陽の下の生活を望もうとする。心臓は紛れもなく自分の胸を打つのに、魂は肝心の血潮の熱さを忘れている。


 ちぐはぐで、あべこべで、どっちつかず。それが今の自分だ。生きるという熱を知らない。自分には、死者の手と生者の手の区別がつけられない。親の温もりを知らず、心は自分の居場所を探せずに右往左往している。そんなので、果たして生きていると呼べるのだろうか。

 水の中は息苦しくて、体がきゅうっと締め付けられる。それでも自分を包み込む無温の水の滑らかな感触は、新しい世界への脱皮を望む繭になったみたいにも感じられた。


 ここにいるべき人間じゃない。ずっとずっと、そう思っていた。

 それは、今まではずっと、自分の非力で不遇な境遇を嘆くしかできない、哀れな少女の現実逃避だった。

 だけど、幽霊はいるのだ。ここにいるべきでない自分が、『ここではない場所』を見つけられたのだ。



 では。それなら、だ。

 ……選べるとしたら、自分はどちらにいたいのだろう。



 姿をハッキリと見たメアリはやっぱり寂しげで、光の少ない虚しい瞳をしていた。

 そして、その目はやっぱり、鏡の向こうに見る自分の眼とよく似ていた。

 見つめ合うと、共感のような、今までにないシンパシーを感じることができたのだ。

 今までを振り返っても、少女と話をする人間は、誰だってよそよそしく、『自分とは違う』という明確な線を引いていた。皆と同じ温かい食事は食べられなかったし、湖で泳ぐことも碌に許可されることはなかった。

 湖に漂う、魂のない幽霊。校庭で一人ぼっちの、温度のない少女。そこにどれほどの違いがあると言うのだろう。



 ずっと、あの湖に入られたら。同じ眼をしたあの女の子と一緒にいられたら。

 互いを理解できて、笑いあって、二人で幸せになれるのではないだろうか。



「メアリは水の中……みんな水の中……」


 まどろみの中で、気がつけば昨夜のつぎはぎの幽霊が言った言葉を反芻していた。

 自分が誰かも、いつからいたのかも分からない、ちぐはぐなパーツの集合体。

 気づくとただそこにいて、少女と言葉を交わした幽霊。

 間違いなく人間ではなくて、とても寂しそうに湖を漂っていた、湖畔の化物。


「……みんなって、誰のことなんだろう」


 自分の事さえ分からないと首を振ったのに、あの言葉にはどんな意味があるのだろう。


 −−メアリは!


 唐突に、あのおぞましい表情がフラッシュバックした。

 しかし、微睡みを続けるメアリの表情は、穏やかなままだ。


「……大丈夫。怖くないよ」


 やっぱり、もっと知りたかった。怖がるよりも、その表情の奥にある物を理解したかった。

 母親の愛とは、このようなものなのだろうか。であれば、少女が受けていた母親の寵愛は、本物ではなかったに違いない。お腹の下から、優しさがふつふつと湧き上がってくるようだった。

 暗くて。怖くて。痛くて。寂しくて。涙を落とすように、メアリは言葉を零した。

 メアリは水の中にいる。暗がりで、怖がって、寂しがっている。

 救えるのは、多分、自分だけなのだ。


「怖くない。怖くなんてないよ……だから、もっと」

「聞かせてもらいましたわぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」

「きゃあああああああああああああああああ⁉︎」


 背後からの声に、少女は心臓を吐き出すほどの絶叫を上げた。

 発射されたように飛び上がり、そのまま足をもつれさせてすっ転ぶ。

 腰を抜かしたまま後ろを振り向けば、ベンチの後ろで仁王立ちになるお嬢様の姿があった。


「あっはははは! 鷹に見つかった兎の如き飛び上がりよう!」

「ど、ど、どう、どうしたの……⁉︎」

「何やら一人で黄昏ていらして、それを見ると邪な思いがふつふつと……うふふっ、お可愛いお姿でしたわ!」


 お嬢様は高笑いを一つ、金色のウェーブ髪をたなびかせて、さっきまで少女が座っていたベンチに腰掛ける。陰鬱な森を背景にしているのに、お嬢様が座った途端空気が透き通るようだから、不思議だ。


「さ。お話しがあってきましたのよ。お隣に座りなさいな」


 自分の隣をぽんぽんと叩いて、それからはて、と首をかしげる。


「……大地の力を、感じていらっしゃる?」

「こ、腰が抜けて立てないんだよ……!」

「あらあら、それは申し訳ありませんわ。立てます?」


 少女がふるふると首を横に振ったので、お嬢様は立ち上がり、少女に手を差し出した。胴にも手を添えて、丁寧に抱えてくれる。


「あ、ありがとう……」

「んふふ、どういたしまして」


 綺麗な微笑みだった。彼女はいつも、こんな魅力的に笑っているのだろうか。意識したことがないから、分からない。

 お嬢様は少女をベンチに座らせると、自分はその隣に腰掛けた。


「……なんだか、嬉しそう?」


 そう聞くと、お嬢様は優雅に髪をかき上げた。ふわふわの髪が宙を踊る。


「うふふっ、成り行きですが、あなたの体に触ってしまいました。ちゃんと温かかったですよ?」

「……?」


 首を傾げる少女に、お嬢様は悪戯っぽく笑って見せた。


「あなた、幽霊なんて言われていますのよ? 冗談と分かりきってはいても、何だか安心してしまいました」


 何だか、すごい皮肉を言われた気がした。不思議と悪い感じはしない。

 神妙にその言葉を飲み込んでいると、お嬢様はその白魚のような指を所在なさげに絡ませて、少女の顔色を伺う。


「あの……先日はすみませんでした」

「え?」

「合唱部での事。やっぱり、気分は良くありませんでしたでしょう? 贔屓を詰問して、私自身もつい高圧的になってしまって。そもそも貴方がどうであれ、わざわざ皆さんの前でするべきことではありませんでした」

「や……あれは別に、謝られることなんて」

「でも! でもですね? 私、このままではいけないと思うんですの!」

「このままって?」

「誤解を起こすような私も、誤解されるようなあなたも、です!」


 いまいち要領が得なくて、少女は小首を傾げる。

 その顔色を伺ってから、お嬢様は自分の胸に手を添えた。


「私ね、かわいいでしょう?」

「え? ……うん」

「お家も大きいし、ご両親もこの辺りの有名な企業の社長ですわ」

「そう、みたいだね……急にどうしたの?」

「自己紹介&所信表明ですわ! 私は、私自身がお父様やお母様のようなリーダーとなれるよう、この学校でも皆様とつつがなく賑やかなコミュニティを築きたいと考えておりますの」


 ぴんと尖った鼻が上を向いている。自信満々な態度は、とっても眩しく見えた。

 思わずほうと見惚れてしまう。自分とは、明らかに住んでいる世界が違う。そう感じさせる活力があった。


「コミュニティを築くのには、互いの理解が必要不可欠……そこで私、イベントを設ける事にしました!」

「……へ?」

「肝試しですわ! この町の奥まったところにある小さな湖のほとりに、ボロボロの廃屋があるそうですわ。なんでも誰がどうして建てたかも不明で、夜になると子供の泣き声がしたり、家の中を彷徨う人魂が現れるとか……!」

「あの、ちょ、待って。話が読めない……」


 一人白熱するお嬢様に説明を要求する。


「関係を築く最も重要なことは、共に過ごすこと! 同じ場所でご飯を食べる。同じ食器でお茶を楽しむ。そして同じ廃屋で幽霊に呪われる! 原理は全く同じですわ」

「違うと思う。最後はなんか違うと思うんだけど」


 お嬢様は拳を振り上げて熱弁し、そして少女の瞳をまっすぐに覗き込んだ。


「同じ時間を過ごせば、もう友達ですわ。違いません?」


 屈託の無い笑顔に、胸が詰まった。

 その動揺を知ってか知らずか、お嬢様は顔をぐいっと突き出す。


「私、あなたが冷血漢ではないと信じています。お友達になれるとも思っています」

「ぁ……う……?」

「ですから。今日の放課後。お暇でしたら、是非是非っ」


 活き活きとした青色の目が、少女の瞳を覗く。

 少女の事を理解したいと思う、純粋な思い。

 そこに邪な好奇が含まれていないのは、知る限りこれが初めてだったから。気がつくと少女の首は、勝手に縦に振れていた。


「うん……あの、よろし−−ぐぇ」


 言い終わる前に、少女に抱きつかれた。高級そうなシャンプーの香りがする。


「ありがとうございます! どんなに怖くても二人一緒なら大丈夫! 例え失禁してもお側におりますから!」

「や、あの……さすがにそれは、やめてほし……ぐぇ」

「それでは放課後! 正門にお車を停めてお待ちしております!」


 流れるようにそう告げて、お嬢様はひらひらと手を振ってその場から去っていった。

 ひらひらと揺れるウェーブ髪を、見送っても、少女は開いた目を閉じれなかった。

 あんなに明るくて快活な女の子だとは、思いもしなかった。

 お嬢様は目立つから、自分もある程度は知っている。いつでもどこでも、大勢の人と楽しそうに談笑している姿を見ることができた。

 それは少女とはまるで正反対の生き方で、少女はいつも、水底から空を眺めるような、すごく遠いものとして見ていた。

 それがまさか、自分に興味を持っているなんて。しかも、珍獣を見るような好奇心ではなく、純粋な目で。


 何だか、眠気も一緒に持って行かれたような気がする。それとも、自分は夢でも見ているのだろうか。

 自分の頬をぺちぺちと叩く。見上げた曇り空は、思い出したようにどんよりとした雰囲気を醸し出していた。


「……でも、なんで肝試し……? 変なの」


 それこそ、自分はもう本物を知っているというのに。

 そもそも、自分が幽霊みたいなものだし。

 肝試しなんてやったことないが、姿の見えない幽霊を怖がったりとか、今更するだろうか。


「幽霊に、冷血漢……かぁ」



 勝手に言わせておけ、と思う。

 それと同時に、彼女の期待を裏切らなければいいのだけれど、と、自分自身が少し不安になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る