第10話
真夜中の湖は、月の光を反射して仄かに青く光っている。
風はなく、水面は凪。動くものは何もない。まるでここが絵画か何かの中で、切り取られた時間の中にいるみたいだ。静かすぎる空気が肌をピリピリとちりつかせ、それだけが時の流れを伝えていた。
全てが停止した絵の中の世界で、ただ少女だけが心を持ち、動いて、鏡のような水面に波紋を広げる。
湖に浸した手の平は、少女に奇妙な圧迫感だけを伝えていた。
あのお嬢様が同じ事をしたら、あまりの冷たさに飛び上がって、すっかり気落ちして引き返してしまう。真夜中の湖はそんな温度かもしれない。その懸念が、わずかに少女を迷わせる。
手を飲み込む水面はちゃぷちゃぷと揺れて、ぼやけた少女の顔を反射していた。
……水面に映るのは、まだ、少女の顔だ。当たり前のことなのに、今はそれがもどかしい。
荒唐無稽な話だと、今だって自嘲する。
それに二日続いたとはいえ、今日も現れてくれる保証なんて、どこにもない。
「……メアリ」
それでも、その名前を呼ぶ少女の声は、曇りなく透き通っていた。
呼べば、きっと来てくれる。少女はそう信じていたし、更に言えばそれ以外の結果なんて、脳裏をよぎることすらしなかった。
ーーこぽ。
果たしてその想いに応えるように、音が鳴る。
瞬きの間の事だった。少女が見つめていた水面が、目眩でも起こしたように、明らかに自然のものではない揺らぎを起こす。それにつられるように、一瞬くらりと意識が霞んで、指で瞼を押さえる。
次に目を開けた時、メアリは仄かに青い湖畔の底にいた。
覚悟していたから、驚きは少なかった。むしろ、変わらずに来てくれたことに安堵すら覚える。
「……会えて嬉しい、メアリ」
そう言って、少女は微笑んだ。久しく、両親にさえ見せることをしなくなった、心からの微笑みだった。
こぽ。という水音が返ってくる。たったそれだけでも、自分を認めてくれるようで嬉しい。
水面に浸けたままだった手を、もう少し深く沈めてみる。寝巻きの裾が濡れ、重く張り付く嫌な感覚が手首にまとわりつく。指先が薄暗く光を失っていくが、少女に届きそうな感覚はまるでなかった。
もう一度、底に沈むメアリを見る。白いワンピースを着た女の子は、三度現れた少女を戸惑うように見つめていた。
戸惑うような……少女は確かに、メアリの顔を見てそう確認できた。
心なしか、メアリの姿が昨日よりも明瞭になっている。
不可思議な圧力を感じる、水に浸した右手のお陰だと確信した。
「霊に会うために必要なのは、自ら隔世に近づくことだ」
本の一説にあった文章を反芻する。オカルト大全集と銘打たれていたそれは、最早事実を教える教科書になりつつある。
メアリは水の中の存在だ。
今、少女は右手の分だけ、メアリに……隔世に近い場所にいる。
これが全身を水に浸せば、更にメアリに近づく事ができるだろう。昨日カヤックが転覆した時に声が聞こえた事も、この原理に則れば、十分に納得出来る話だ。
−−こぽ、こぽ。
メアリが何かを語りかける。
ここではない隠世の存在が、自分を認識してくれる。それだけでも胸は躍った。
だけど、それでは物足りない。
あの声を、もう一度聞きたい。言葉として受け入れ、交わしたい。
もっと話したい。もっといろんな事を教えて欲しい。そして、たくさんの事を聞いて欲しい。
だから、少女は準備をしていた。カヤックの中に仕舞っていたそれを取り出す。
何の変哲もない、白のゴムチューブだ。父が好きなロードバイクのタイヤに使うそれの、新品を一つ拝借していた。悪路でも走れるように幅のあるゴムチューブは、表面が張らない程度に空気が込められている。水の中に持って行っても、浮力が邪魔にならない目測だ。
「よし……」
心を決め、ゴムチューブを手に体を持ち上げる。揺れるカヤックから立ち上がり、右のつま先を湖に浸す。
纏わりつく無温の感触は、果たして冥府に誘う悪魔の手腕か。少女には感じられない『冷たさ』は、死神の鎌のように、全く知らない内に少女の命に手をかける。
母の顔が脳裏に浮かんだ。深夜のかまくらで自分を見つけた時の、泣きそうな顔で何かを叫ぶ姿がフラッシュバックする。自分がとんでもない禁忌を犯していると思って、胸がきゅっと締まるようだった。
−−あなたは普通じゃないんだから。
何度となく、そう言われてきた。
次は命がないかもしれない。何度も繰り返された母の忠告は、少女の心を曇らせ、体を硬くする。
−−だけど、もう沢山なのだ。
異常者として扱われる事も。
異常者として、理解者もなく一人ぼっちで居続けることも。
体を滑らせて、カヤックから体が離れる。少女の体を浮遊感が掴む。
それは、居場所を得られない少女が決心した、あらん限りの勇気をふるった逃避行だった。
水が足から上体を急速に駆け上がり、少女の全身を包む。少女の長い金髪が上へと棚引き水から逃げようとするも、それすらも飲み込み……とぷん、という音を最後に、少女は鏡に飲み込まれるようにして姿を消し、湖面はボートを残して動くものを失った。
ごぼごぼと、巻き込んだ空気が耳をうるさく抜けていく。
それが終われば、少女を包むのは完全な無だった。
水が全身を包む、無温の無重力。静かすぎるそこは、現実ではない夢の中に迷い込んだようにも感じられた。長い金髪がたゆたい、空間を自由に泳ぐ。
ゆっくりと目を開ける。月の光は強く、湖面の中まで届いて揺らめいていた。オーロラのようにきれいなそれを一瞥してから、少女は下に目を向ける。遥か深みに、メアリがいた。
少女によってかき分けられて、湖がゆらゆらと揺れている。戸惑うような空気が漂っている。
視線が交わされていることが、確かに感じられる。そこにいるという実感があった。
未だうろたえているような気がするメアリを落ち着けるためにも、少女は率先して口を開く。
「がぼっ……ぼふっ、ごぼがっ⁉︎」
野太い音がして、空気ん塊が吐き出された。
そりゃあ、水の中で喋れるわけがない。少女は初めてそれに思い至ったように狼狽し、更にそこで、自分がやっと息苦しさを我慢している事に気付いた。頭がきゅうっと締め付けられるような感覚が、どんどん強くなる。
パニックに近い状態になりながら、ゴムチューブに口をつけて空気を吸う。ゴムの匂いが染み付いて甘苦い感じがしたが、息苦しさは殆ど感じなくなった。
少女は強く自分を叩きたい気分になった。なんてみっともない。恥ずかしくて、いっそ幽霊になって消えてしまいたい。
−−ふふ、きゃははっ。
水中で器用に項垂れる少女に、軽快な笑い声が届いた。やまびこのような、すごく遠い、どこから発せられているか分からない声だった。
大慌てで見下ろせば、メアリがお腹を押さえて笑っていた。白いワンピースがゆらゆらと揺らめいている。
ーーはじめ、まして。
「ぶほ、がぼっ」
少女は驚き、そしてぱぁっと表情を明るくした。その拍子に口に溜めていた空気が弾けて、再び間抜けな音が響く。
慌てて空気を補給しながら、けらけらと笑うメアリを見下ろす。なんだかからかわれているみたいでもどかしい。だけど、笑うメアリの姿は、投影される映像のようだった今までと打って変わって、活力すら感じさせた。
ふと、メアリの発言の際に、気泡が全く浮かんでいない事に気付いた。あの声は、もしかするとテレパシーのような物なのかもしれない。そう思って、伝われという願いを込めて、メッセージを思い浮かべる。
(……ねえ、聞こえる?)
−−聞こ、える。
断続的な、一語一語を組み立てるような声が返ってくる。
どこか無機質なその声を聞いて、少女の胸をたまらない充足感が埋めた。長年思い描いていた夢が叶ったみたいだ。普通の生活を送れなかった少女にとって、夢を見る事なんておこがましいことで、それが叶う事も、今までにないことだった。
(ねえ、メアリ? 私、あなたとお話がしたくて、毎日ここに来ていたの……近づいて、顔を見せてくれない?)
自覚できない、熱を込めた目で湖の底を見下ろす。
メアリは一度くるりと水の中を回り、滑るように登ってきた。水の抵抗などを感じさせない幽霊らしい挙動で少女の前に立ち、そして戦慄させた。
心臓が止まるかと思う。空気を吐き出さなかったのは奇跡だ。
メアリはやはり幽霊であり、人間ではなかった。
彼女の体は、全く異なるパーツが組み合わさって、一人の人間を形作っていた。両の目は青と黒のオッドアイであり、瞼や目尻や、睫毛の長さも違っていた。顔面の左半分は白く、右側は浅黒い。腕の右側は厚みのある黒色で、片足は明らかに赤ん坊のものだった。色が違えば、長さも太さも、きっと性別すらも違う。バラバラになった無数の人形の破片をめちゃくちゃに引っ付けたみたいで、見ている人を不安にさせるアンバランスさだった。
そして、そのあちこちにおぞましい傷があった。打撲の痣に、鞭打ちの跡のようなミミズ腫れ。雪のように白い左腕には裂け目がパックリと開き、生々しい赤色を覗かせていた。血はない。だけど痛みはリアルに連想された。傷から導かれる光景は、どれも凄惨で痛々しい。
卒倒しそうな恐ろしい姿だったが、少女は不思議と、その姿を冷静に見つめていた。
パーツはまるでちぐはぐだったが、一枚の純白のワンピースを纏ったメアリの姿は、そうあるべくして生まれたのだと納得させてしまうような、不思議な美しさがあった。
そして何より、その目。自分を見つめる目が、薄暗い無機質なものだったからだ。光のない瞳は「あるべきものがない」というイメージを与え、虚しさや寂しさを連想させた。冷たいとはひょっとしたらこんな目のことを言うのかもしれないと、そんなことを考える。
かわいそう。普通じゃない。それら言葉が持つ味は、自らが胸の内に唱えるものによく似ていた。
そんな思いが、メアリのおぞましい姿への恐怖を沈めさせる。少女は目の前のあべこべな姿に、微笑んだ。メアリは不思議そうな顔をしていた。脳裏に彼女の、透き通るような声が響く。
−−お話、したい、の?
こくんと頷く。胸がきゅうっと締まるような感覚がした。残りの空気を吐き出して、ゴムの味がする空気を吸い込む。それが終わるのを待って、メアリは聞いてきた。
−−どう、して?
(あなたが現れてくれたから、じゃ、だめかな?)
逆にそう伺ってみる。メアリはきょとんとして、首を傾げた。その仕草はなんだかあどけなくて、なんとなく彼女は自分よりも年下だと感じた。
メアリはまだ、水に潜り話しかけてくる少女の存在を受け入れきれていないみたいだった。それを感じて、少女は前から聞きたかったことを頭に思い浮かべる。
(私を見つけて、姿を見せてくれたんじゃないの?)
今でも鮮明に覚えている。二日前のあの日は、少女にとってまさしく運命の出会いだったのだ。自分でそう考えて、そういえばまだ二日しか経っていない事にちょっと衝撃を受ける。
−−わから、ない。
しかし、メアリから返ってきたのは、そんな心ない返事だった。
(分からない?)
−−うん。分から、ない。
首肯してもう一度言葉を繰り返し、少しだけ申し訳なさそうに、色の違う瞳を伏せる。
−−メアリは、メアリ。なんで、メアリかも。いつから、メアリなのかも、分からない。目を開けたら、月が、綺麗で……遠くで、あなたが、見ていた。
メアリは上を見上げ、つられて少女も顔を上げる。
鼻の中の空気が出て、つんとした。出て行った空気が湖面を目がけて上昇していく。まばゆい月明かりに、透明な水がゆらゆらと揺れている。それはとても綺麗で、無性に遠くに感じられた。
しばらく見とれた少女が顔を下ろすと、メアリが自分を見つめていた。小さく薄い、青白い唇が動いて、頭の中にぎこちない声がこだまする。
−−多分、あなた。あなたが、メアリを、メアリにした。
その言葉の意味は、よく分からなかった。だけど、少女はとても嬉しくなった。別世界に隔てられた幽霊の少女と、確かな繋がりを感じられたから。
三度、体が締め付けられる感覚。酸欠を自覚して、少女は肺の空気を入れ替えた。ゴムチューブはかなりしぼんで、上へ向かう浮力は最初よりずっと小さくなっていた。
メアリは少女から目を逸らさなかった。陰鬱で、それでいて無邪気なメアリの瞳に見つめられて、少女は困惑してしまう。
(えっと……その、私……)
頭をいろんな言葉が行き交い、渋滞を起こしていた。聞きたいことは山ほどあったはずなのに、それが一つの言葉としてまとまらない。
ひょっとしたら、その中の幾つかの言葉を拾い上げたのかもしれない。
−−さみしい、よ。
ぽつりと、メアリはそう呟いた。
(え……?)
驚いて聞き返す。メアリの顔に表情はなく、ツギハギの肌に血の気は感じられない。生気のない声には、寂しさだけが載っている。
−−暗くて。怖くて。痛くて。寂しくて……冷たくて……それで、おしまい。
ぞくりとした。冷たいという言葉。少女の全く知らないその言葉が、想像だにできない、おぞましいものを抱えているような気がした。
(メアリ……?)
−−メアリは、そうだった。みんなみんな、そうだった。メアリは、おしまい。みんな、おしまい。メアリは、水の中。メアリは水の中。みんな、水の中。みんなみんな水の中。
壊れたレコードのように、同じような言葉をうつろに繰り返す。今更のように、彼女が人でないことを思い出した。
背筋をぞわぞわとしたものが走り抜け、心臓が胸を打つ。苦しくて、ゴムチューブの中の空気を吸い込んだ。空気はもう、ほとんど残っていない。
怖かったけれど、それ以上に放っておけないという思いが強かった。頭の中で思い浮かべるだけでも、その言葉は早く、息巻いていた。
−−メアリは水の中。メアリは水の中。メアリは水の中。メアリは水の中。メアリは水の中。メアリは水の中。メアリは……
(ねえ。あなたは、一体何者なの? どこから来たの?)
−−メアリは!
心臓が跳ね上がり、大事な空気が肺から絞り出された。無数の人が同時に叫んだような、幾重にも重なった声。悲痛なそれは、紛れもなく悲鳴だった。
色の違う左右の瞳が、飛び出さんばかりに見開かれる。裂けるほどに開かれた口に、舌は無かった。
−−メアリは水の中。メアリは水の中……メアリは……メアリは……
凍りつく少女の目の前で、メアリはゆらりと体を躍らせる。少女に背を向け、ある一方向に向けてゆっくりと遠ざかっていった。薄暗い水が白いワンピースの姿を曇らせて、やがて完全に見えなくなった。
一人きりになっても、少女はしばらくの間その場から動けずにいた。
次に彼女を動かせたのは、耐え難い危険信号だ。
ぐらぐらと視界が揺れる感覚。少女はやっと、とてつもない息苦しさを感じた。視界がぼやけ、体が石のように硬くなる。
(っダメ!)
必死で、ゴムチューブを手繰り寄せ、残り僅かな空気を必死に寄せ集めて、吸い込む。頬に含めるぐらいの、余りに頼りないゴム味のそれを、肺に送る。ただ上を目指して、がむしゃらに体を動かした。体を包み込む無温のそれが、ただどうしようもないくらいに、もどかしかった。
果たしてどのくらい深く潜っていて、水面に辿り着くのに一体何秒かかったのだろう。永遠のように感じられたもがきの果てに、少女の肺は夜の空気を目一杯に吸い込んだ。
「ぶはっ! はぁーっ! はぁっー!」
大口を上げ、ごひゅうと音がするぐらいの勢いで、飲み込むように空気を吸う。ホースの口をすぼめたみたいに、細い血管の中をぎゅんぎゅんと血が巡っているのが自分でも分かった。
ひたすら空気を吸い込んで、少女はカヤックに乗り込んだ。体が石のように硬く、重い。自分のものでなくなったみたいだ。そして、どうしてか、倒れそうなほどに眠い。
「あ……違う、これ」
ぼんやりとする頭で、少女は確信した。四歳の時にかまくらで死にかけたあの時の感覚が、今もう一度、少女を襲っていた。
カヤックの中に用意していたダウンジャケットを羽織り、上から厚手の毛布を羽織る。それで、重い体はいくらか解されたように感じる。それでも(恐らく)冷たい水を吸い込んだ衣服は、少女にべったりと張り付いたままだ。くらくらと淀む視界は、幾許の猶予もないように感じられた。凄まじい眠気と倦怠感を必死で払いのけて、少女はオールを手に掴む。
去り際、少女は一度振り向いた。湖はまばゆく光る月と周囲を覆う森のシルエットを鏡のように反射させている。その底には、メアリの姿はもうない。
彼女のいた湖の底を見下ろし、そして、彼女の去っていった方向についと首を動かしていく。周囲を覆う木々はほんの少しだけ隙間を開けて、月明かりに照らされて光る細い小川が見えた。
この地域の湖は、一つ一つが独立している訳ではない。いくつかの湖が、細い小川のようなもので数珠繋ぎになっていることも多い。少女の家のある湖もそうだった。確かあの小川の向こうは、幾つかの支流に分かれて別の小さな湖に繋がっているはずだ。
メアリは、あそこから来たのだろうか?
今はその疑問を思い浮かべる以上に、何かを考えることはできない。
ただ、温度が死んだ人間として、隠世の存在と繋がれた事実を嬉しく思い、オールを動かす。
−−取り返しのつかない物に手を触れてしまったという予感に、肌をチリチリと苛まれながら。
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