第9話

 歌は好きだ。

 美しく、透き通るようで、楽しい。歌に対して抱く感情に、温かいやら冷たいやら、少女にとってよく分からない形容詞が入り込む隙はほぼない。


 四十人ほどの生徒が並んで、一様に口を大きく開けて、先生が紡ぐピアノの伴奏に合わせてメロディを響かせる。防音処理が施された音楽室は気密性が高く、みっしりと詰まった空気が、音によってぴりぴりと震えていた。

 歌手は全て十代前半であったが、日々の練習によって磨かれた歌は洗練されていて、むしろ大人では出せ得ない伸びやかな高音が、独特の、無邪気で活発な色を与えていた。

 空間すべてが、奏でられる曲の為にある。人にはメロディという役目だけが与えられて、音楽という大きなものを構成する一つになる。

 男女や学年、性質が違っても、そこに意味はない。変わるのは役目だけ。全てが音楽を構成する部品でしかない。だから、歌っていると自分を忘れられた。自分を気にせず、歌うことの楽しさを存分に堪能できた。

 共鳴が肌を震わせて、肺から出た空気が、喉を揺らせて音に変わって、歌という大きなものの一つに溶けていく。

 力強くて、それでいて優しくて、音楽はとても好きだった。


 一曲を歌い終え、柔和は顔立ちの先生が、ピアノの前に座ったまま拍手をした。


「うん、みんなとても上手に歌えていたわね。心地いい旋律だったわ」


 誉められたことで、生徒達はようやく肩の荷を降ろして、互いを見つめて表情を綻ばせた。

 視線が交錯して、互い互いに結び付き合う。

 交差する線は、綺麗に少女を避けるように結ばれていた。少女は誰とも顔を合わせることなく、じっと前を見つめている。少女に干渉しようとするものはいない。大海原にぽつんと浮かぶ浮島のようだった。


「大丈夫? 体の調子がおかしかったりとか、ないかしら?」


 ただ先生だけが、まるで母親のような目で少女を見てくる。少女は無言ではにかみ、それを返事にした。


「そう。ヘンだと感じたらすぐに言ってね……さて、と」


 先生は一息つくとピアノから立ち上がり、ざわめく空気を手拍子で引き締めた。全員の視線が向くまで待ってから、先生は正面から皆の表情を見回す。


「はーい、みなさん今日もお疲れさま。いくつかの歌を練習してきましたが、これからは冬前のコンクールに向けて、一曲を更にいっしょうけんめい練習する事になります」


 生徒達は笑顔で頷く。期待に満ち満ちた顔だ。待ちに待っていた、という感情が透けて見える。

 豊かな自然に囲まれたこの町は牧歌的で、悪く言えば自然以外に娯楽なんてほとんどない。そんな環境は、住民の生活を自然と伸びやかなものにする。クラブ活動は特に盛んで、ファッションやカフェなどの選択肢が無いために持て余された子供達の情熱は、もっぱらこちらの方に向けられていた。

 心の底から楽しんでいる人が多いおかげで、優秀な成績を収めるクラブが沢山ある。合唱部も、この辺りではちょっとした名門だった。


「前から伝えている通り、コンクールは四〇人全員で出場する団体式と、一〇人を選出する選抜式に分かれます。そして、今までの数曲で、あなた達の誰を代表として選抜するか、決めさせてもらいました……先に言うけれど、学年成績関係なく、単純に歌の上手な人と魅力的な歌声の人を選んでいます。構成の人数比はあるけれどね」


 言わずもがな、緊張が場を引き締めた。選抜式は人数が少ない分高い能力が求められ、それだけこの合唱部の花形であった。

 全員が息を飲んで、先生を伺う。もう一度全員を一瞥してから、先生はリストに目を落とし、順番に読み上げる。



 発表はつつがなく行われ、その日はそこで解散となった。


 先生が裏の教員室に入ってからも、生徒達はグループで輪を作り、会話に花を咲かせていた。今回の選抜発表はサークルとしても一大イベントであり、喜びそれを称える声や、慰め合う声もする。和気藹々としながらも感情は両極端で、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

 そんな会話の波を避けるように、少女は脇に纏めていたカバンを手に取り、そそくさと教室を後にしようとする。

 誰も目もくれていないと思えた。しかしドアに差し掛かったところで、少女の進行を邪魔するように人影が立ちふさがった。少女が俯かせていた顔を上げると、気の強い大きな瞳と目があった。


 昔この辺りの領主を務めていたという、名家のお嬢様だった。意志を宿す力強い瞳に、三つ編みが織り込まれた丁寧なセットの金髪。

 一二歳という年齢ながら、やはり周りの生徒とは雰囲気が一つ違う。育ちが違うのだと、すぐに得心する。いかにもお嬢様然とした気品と、そこから来る不遜さと高圧さがあった。

 そのお嬢様の気の強い瞳が、こちらをじろりと舐め付ける。何か悪いことをしただろうかと不安になってしまう。細められた目は何かを催促しているようにも見えて、少女はおずおずと口を開いた。


「えっと、何?」

「……まずは、おめでとうと言っておきますわ」


 元から突っ慳貪な口調の人だったが、今日は殊更険がある。お嬢様は腕を組んで、少女の目の前に立ちふさがる。


「ですが、もう少し喜んで貰えないかしら。この私を下して代表に選ばれたんだから、飛び上がって喜んでもいいと思うのだけれど?」

「……それは、その……」

「やっぱりね、私はまだ納得がいきませんの」


 大仰に腕を広げ、少女はまるで舞台に上がったかのように体をくるりと回す。自分を大きく見せる仕草は、お嬢様によくなじんでいた。


「どうして私を差し置いて、あなたが選ばれたのかしら? 先生に聞くのはご法度だから、色々考えちゃいますの。私、本当にあなたに実力で劣っていたのかしら、とね」


 優雅な言葉遣いに、数人の生徒が、会話をやめてこちらに注目を向けていた。知ってか知らずか、お嬢様は少女に言葉を投げる。


「別に恨んでいるわけじゃありませんのよ? そりゃあ悔しいけれど、事実は事実ですもの。泣いて抗議するほど子供じゃないわ……だけどっ!」


 言葉を切って、お嬢様は少女を指差した。少女が思わず身を仰け反らす。


「思わず涙がほろりと溢れそうなぐらいには悔しいのに、それをもぎ取った貴方が、うれしいやったーともごめんねあなたの分までがんばるからねとも言わずに、いつもと変わらない顔で帰ろうとする……それがとっっっっても面白くない! 私はあなたとは違うんですって⁉︎」

「ち、違うよ。そんなつもり、ない」

「あなたはそう思っていても見えてしまうのよ! 気をつけて下さらない⁉︎」

「う……ごめん」

「昨日はこの私が直々にお茶会にお誘いしましたのに、どうして来なかったのかしら⁉︎」


 お嬢様の激に、少女は目を丸くした。全く予想外の言葉が飛んできたからだ。


「え……よ、呼ばれたっけ?」

「呼ーびーまーしーたーわよ! 毎週恒例お昼休みの親睦会! 昨日呼びかけようとしたら、あなたったら真っ先にどこかに飛んで行ってしまいますもの!」

「あ……昨日は、その。本、読みたくて」

「くぅぅ、私はたかだか本一冊に負けたと言いますの⁉︎ で、ですがお手紙! 下駄箱に入れておいたお手紙をご存知ない⁉︎ 一番高い刺繍入りのものに、捺印までしたためましたのに!」

「……あれ、名前、書いてなかった」

「嘘でしょ私大失態⁉︎ そ、それは大変失礼を致しました……ではなく!」

 話が流れているのを自覚したのか、少女は頭を振って強引に話題を引き戻す。

「私が言いたい事は、ずばり率直に言えば! このメンバーの代表に選ばれて、嬉しいとも思わないわけ⁉︎」

「そんなこと、ないよ……ちゃんと、嬉しい」

「じゃあ、笑顔の一つでも見せてくださらない?」

「……」


 実際、少女にとっても不思議だった。

 音楽は好きだ。だから、音楽を好きなだけできるこのクラブ活動も好きだった。温度を感じられない自分にとっては、何より愛おしい時間でもあった。真剣に取り組んでいたし、このコンクールの重要性も、日頃から肌にひしひしと感じていた。

 その代表に選ばれたのだ。大事な場所の、大事な大役に。

 なのに、どうして笑顔が出てこないのだろう。


「それとも……素直に喜べない理由でもあるのかしら?」


 まるで少女の心を代弁するように、少女が問う。目は更に細められ、こちらを訝しむ心境がありありと浮かんでいた。


「何かにつけて先生に心配され、声をかけられるのはいつもあなた。そのくせあなたはいつも物憂げ顏でどよ~んとしたまま、話しかけても微笑んでお茶を濁すだけ」

「……」

「あなたの体質は皆がご存知よ。さぞかし気を使われている事でしょうね……多少我儘を言っても許されるのではなくて? 例えば、代表としてステージの正面で歌いたい、とかね」

「それは……」

「それは? 『それは』って何よ、イエスかノーかはっきり言いなさいな!」


 詰め寄られ、少女は更に体を硬くする。今や生徒の大半がこちらを注目していた。胸が張るような緊張が場を満たしている。

 腕を抱いて押し黙ってしまう少女に、お嬢様はもどかしそうに口を蠢かせ、やがて大きくはぁとため息を吐き、少女を部屋の隅に連れて行った。

 二人だけの空間を強引に作り、お嬢様は少女の頭を近づけさせ、耳打ちした。


「あなたね、そんな様子だから、周りからそんな噂を言われるのよ?」

「え……?」

「私もさっき言われたの。あなたは贔屓されて選ばれたって。私は巻き込まれてかわいそうって。あなた、何も言わず、誰とも関わらないじゃない。私は別に馬鹿正直に信じているわけではないけど、あなたの様子を見てたら、正面から突っぱねる事もできないじゃないの」

「……心配、してくれているの?」

「っそ、そうよ。わざわざあなたを心配して言ってあげているのっ。もちろん本当ならただじゃおかないけれど……根も葉もない噂なのでしょう? お膳立てしてあげているのだから、今ここではっきりと言いなさい」


 そう言って、お嬢様は少女の頭を離し、正面から向き合わさせた。気の強い瞳は、改めて見れば、怒りのような攻撃的な感情は見られなかった。

 気の強い目がさあと促している。今まであまり話した事がなかったけれど、どうしてか面倒見のある女の子のようだった。

 ちょっとつっけんどんだけど、自分を心配して声をかけてくれた事が、素直に嬉しかった。


 だからこそ、少女は深く、ゆっくりと頭を下げた。


「ごめんなさい」

「そうよ、そんな風に最初からハッキリ違うとおっしゃって……え?」

 誰よりも、頭を下げられたお嬢様が面食らっていた。目をぱちくりと見開いて、下げられた少女のつむじをまじまじと見つめる。周りの生徒も、突然の謝罪に息を飲んだ。

「ちょ……う、嘘をおっしゃいなさいな。まさかそんな……」

「頼んだ訳じゃ、ない」

「は、はぁ……?」

「だけど、きっとそうだから」


 上げて見せた顔は、悲痛げに歪んでいた。純粋に、申し訳ない。そんな思いが浮かんでいた。

 断じて、お願いなんてしていない。しかし、贔屓が無かったとは言えなかった。少女の境遇は全員が知っていたし、音楽の先生はいつも、楽しそうに歌う自分を労るような目で見ていた。歌なら自分の欠陥を気にしなくて済むと公言していたし、親もそのことを知って、先生とは家族ぐるみの交流があった。

 『かわいそう』という意識は、誰の心にも根付いている。それはまさしく根のように張り巡り、少女を『欠陥品』というレッテルから逃さない。同情なんて引きたくもないのに、周囲は問答無用でそれを押し付け、またこうして、誰かを不幸にする。そう考えると、胸が痛んだ。だから「贔屓なんてない」なんて嘘を言う事はできなかった。


「きっと、あなたが選抜に選ばれなかったのも、私のせい」

「ちょ、あなた……」

「だから、ごめんなさい……迷惑かけて、ごめんなさい」

「ね、ねえ? 何も迷惑なんてそんな……」


 狼狽するお嬢様が何か言うよりも先に、少女はその脇をすり抜け、部屋を後にした。

 少女によってドアが閉められ、後に残った全員が取り残される。しばらく、耳が痛くなるような静寂が続いた。


「……わ、わたし、失敗しましたの……⁉︎ そんな。一体どこで間違えました⁉︎」


 一足早く息を吹き返したお嬢様が、わなわなと表情を歪ませる。

 そんな様子に、周りの生徒は、むしろ苦笑を返した。


「あの子、やっぱり感じ悪いなー。お嬢もちょっと嚙みつきすぎだけどさ」

「なに、マジで贔屓?」

「いや、先生結構厳しいしそれはないんじゃ……でもどうなんだろうね、実際のところ」

「まあ、特別なのはあるよね。無温症? とか、怖いし」

「そうそう。迂闊に触れないっていうかさー」


 誰もが、少女の冷淡な態度に辟易としていた。実際に顔を合わせることはしないが、話のネタにして共有する。同じ空間にいながら、生徒と少女の間には、テレビ画面を通すような壁があった。ただ一人を除いて。


「お嬢もよくやるよねー。あんなの、いかにも関わるなって感じじゃない? その上贔屓もマジなら最悪でしょ」

「温度を感じないっていうなら、人情味? そういう温かさまでないのかもよ?」

「やっぱさ、お嬢も離れた方がいいって。普通じゃないよ、絶対」

「何をおっしゃいますの皆様方!」


 後ろからかけられる声に、お嬢様は凛として異を唱えた。


「普通か異常かの判断すらも、今の私たちには早計ですわ。だって私たちは、あの子の事を何も知りませんもの!」

「そうは言うけど、向こうがあんな反応だよ?」


 生徒の反論に、お嬢様はうぐぐ、と口を噤んだ。悔しそうに口元に指を寄せる。


「そうですね、それなのですよ……お茶会にもお呼びしたいのに、ますます呼びにくく……悪い子じゃないと、思うのですけれどね」


 物憂げ顏で、いなくなってしまった少女に想いを馳せる。

 お嬢様の興味は尽きなかった。

 温度を感じないというのは、いったいどんな気持ちなんだろう。秋を呼ぶ風の心地よい冷たさを知らない? 寒さでかじかんだ肌をほぐすお風呂の幸せを知らない?


 一体、どんな生活をしているのだろう。

 一体、何があの子の暗い心境を生み出すのだろうか?

 そして、果たして自分は……あの子と仲良くなれるのだろうか?


 そんなことを思い始めた理由はと聞かれれば、『気にくわない』からだ。

 いつも神妙な顔をして、やけに人の顔を窺って、すぐに謝って自分のせいと決めつけてしまう。話した回数は多くないが、少女は決まってそういう態度を取っていた。なるべくしてなってしまう少女の体質・生活の話題に、少女はいつも謝罪を返すのだ。ただの自己紹介でも、一向に構わないというのに。それがどうにも、気に食わない。

 自慢になるが、自分はこの街では高貴な身分だ。人よりも優れた教育を受け、より立派な人になるようにと日々行動している。人を惹きつける求心力があれば、それを鼻にかけないだけの自尊心があった。

 だから、尚のこと気にくわないのだ。少女の内気な態度は融和できると自負していたし、温度を感じないことなんて障害にもならないと確信している。


「……もっと、笑ったり泣いたりする、素直な表情を見せて欲しいのですが……」


 端正な顔をしているのだ。笑ったらさぞかし可愛らしいのに違いない。声を上げて泣く姿だって、胸を打つ美しさがあるに違いない。その想像は、思った以上にお嬢様の原動力になった。


「ハッ……コーヒー派? ひょっとして紅茶が気に入りませんの⁉︎ もっとレパートリーを増やせという言外の失望……⁉︎ なんと。であれば豆から、挽くためのミルまでご用意致しませんと……!」


 努力の方向は、かなりヘンテコな方向に間違っていたが。

 『カップを交わせば皆友達』という信条を持つお嬢様を他所に、生徒達は各々の会話に戻っていく。元々少女に対して気にしないことを徹底しているのだから、切り替えも早かった。


「ところでさ、さっきあの子について言ってたじゃん?」

「え? ああ、人情とかの温かさもないんじゃ、っていう?」

「そうそう。実際さ、どうなんだろうね。そういう温度も感じなかったりするのかな?」

「慣用句でしょ? 背筋が寒くなったりもしないって?」

「もしそうならさ、ある意味心強いかもね! 肝試しとか無敵だったりして!」


 何気ないその会話を、お嬢様は聞き逃さなかった。次の瞬間には、飛びかかるようにして二人に詰め寄っていた。


「話は聞かせてもらいましたわ!」

「きゃあっ⁉︎ お、お嬢どうしたの⁉︎」

「どうもこうもありませんわ! 先ほどの耳よりなお話、是非お聞かせくださいな!」

「え、えっと……ほんと、ただの冗談みたいな話なんだけど……」


 戸惑いつつも話始める生徒の声に、お嬢様は真剣に耳を傾ける。

 全てを聞き終えたお嬢様は、ゆらりと立ち上がると、にやりと深い笑みを浮かべた。


「ふふ……使える。これは使えますわ!」


 怪しい笑みで体をくねらせ、ふふふ……と危なげな吐息をこぼす。二人の生徒はかける言葉もなく、呆然とその様子を見上げる。


「見ていなさいな……距離を縮めるためであれば、この際手段は選びませんわ……アワアワ言うあなたの顔、しかと拝んでさしあげますからね!」

 

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