第8話


 ゴウン、ゴウン——。

 ドラム式の乾燥機が、唸りを上げて回っている。

 服を巻き込み回転するそれを、少女は棒立ちのままじっと眺めていた。

 ランドリー室の上部には採光用の小さな天窓があり、朝の白い空が見える。濡れた体を温め、証拠隠滅の為に服を洗濯していたら、結局朝までかかってしまった。

 洗濯機の前で何度か船を漕いだりしたが、どうしても寝不足だ。頭が働いていないのが自分でも分かる。

 霞む目を瞬かせながら、乾燥機をじっと眺める。


 ——うずまき。


 心の中で呟く。ぐるぐると回っていて、見ていると吸い込まれそうだった。

 母が言うには、乾燥の終わった洋服は、ぽかぽかとしてとても気持ちがいいらしい。外に干して太陽の光を吸わせれば、じんわりと温かい日向の心地よさを感じられるそうだ。

 乾燥したての服は、触るとふわふわで確かに気持ちいい。だけど、ぽかぽかというのが一体どういう感覚なのかは、見当もつかない。おそらく少女は、その心地よさを知ることなく生涯を終えるのだろう。


 やっぱり、損してる。少女は長い睫毛を数回パシパシと動かし、ピントを合わせる。

 熱という少女の知らないものを操って、乾燥機はゴウンゴウンと仕事をこなす。分厚いガラスの奥の渦巻きを、少女は自分よりよほど優秀であるように感じた。

 きっと、寝ぼけているせいだろう。思考がうまくまとまっていない。


「……メアリ」


 何度となく呟いた名前が、再び口をつく。あの一瞬を、あの声を、忘れないように頭と鼓膜に刻む。

 伝承のブラッディメアリは、名前を呼んだ人間を鏡の中に引きずりこんでしまうらしい。

 名乗った彼女の声は、とても寂しそうだった。名前を呼ぶと、自分も湖に引きずり込まれるのだろうか。

 ……分からない。

 だけど、呼べば来てくれるような気がした。

 そういう、奇妙な繋がり——親近感に似たものを、少女は感じていた。


「メアリ、メアリ……待っててね。また、会いに行くから」


 僅かに頬を赤らめて、口を緩める。かけがえのない友に向けるような、想いを馳せる笑顔だった。

 窓の外では、数匹の鳩の気の抜けるような囀りが聞こえる。その音に混じって、トントンと階段を降りる音がした。

 表情を僅かに強張らせて、ランドリー室の入り口を見つめる。足音は近づいてきて、やがて不思議そうな顔がひょっこりと出てきた。


「あら?」

「おはよう、お母さん」

「ええ、おはよう……こんな朝早くに、どうしたの?」


 母はランドリー室に足を踏み入れ、乱れた髪に手櫛を通しながら近寄ってきた。乾燥機内で回っている服をちらりと一瞥して、首をかしげる。


「家事手伝い……という訳でもないのかしら? 寝巻きだけ洗っているなんて、何かあったの?」

「あ、えっと……そのぅ」


 質問されて、少女は狼狽えてしまう。母はまだ無邪気な好奇心で聞いているだけのようで、少女の狼狽に、ますます不思議そうに首を傾げている。

 まかり間違えても、夜中こっそり湖に行っていたなんて気づかれてはいけない。バレてしまえば、湖に行くことさえ許してもらえなくなる事だってありえる。行かせない為だったら、その日のうちにカヤックを処分することだってするだろう。


「えっと……が、学校にね? どうしても着ていきたい服があってね? その……ちょっと汚れていたから、洗ってるの」

「あなた、寝巻きで学校に行く気なの?」

「ぁ。その、ぅ……」

「タオルも乾かしているし……シャワーも浴びたのかしら? 一人でやるのは危ないって、いつも言っているのに」


 神妙な母の言葉が、どんどん少女を追い詰めていく。それに合わせて、自分が昨夜した事が『とてもいけないこと』であるという意識が、ふつふつと湧き上がってきた。もしもの時の言い訳を考えていた言い訳を崩され、曇りなく力強い母の眼に頭が真っ白になってしまう。

 少女が感じる母の威圧感は、まるで巨人を相手にしているようだった。体がすくんでしまい、体をもじもじと揺らす事しかできない。

 言葉を発せられない少女の様子に、母の目がスッと細められる。


「あなた、もしかして……」

「っ——」


 ビクンと体が跳ね上がった。今に頬を張られるか、頭に拳骨が飛んでくるかと、恐怖で凍りついたように動かなくなる。

 母の肩がふるふると震える。まるで噴火数秒前の火山だった。たまった感情が爆発を待ちわびている。


「そっか。あなた……まさか」

「っ……!」


 来る! 身構えて、少女はぎゅっと目を瞑った。


「まさかあなた……っぷ。あははははは!」


 突然、母は腹を抱えて笑いだした。

 いきなりの豹変に、少女は瞑っていた目を、今度は皿のように丸くした。


「……え? え?」

「あっははは! おかしいわ! ふふ……いえ、ごめんなさい。失礼よね。でも……ふふっ!」


 ひとしきり笑った母は、目尻の涙を拭って、少女の頭を優しく撫でた。

 少女はなぜ急に頭を撫でられたか理解できず、にこやかな母の笑顔を呆然と見返すだけだ。


「ごめんなさい。きっと私の責任もあるわね。慎重になりすぎて、少し温かくさせ過ぎたかしら?」

「温かく……? えっと、お母さん? その……」

「いいのいいの。恥ずかしいんでしょう? 説明なんてしなくていいわ。見なかった事にしてあげる」


 頭から手を離した母は、それからランドリールームを弾むような足取りで歩きながら、微笑みをこぼす。


「ふふっ。ああ、でもいつぶりかしら? 数年前まで、ずっと泣いていたものね」

「えっと、ぉ……?」

「温度変化が分からないから、体の調子にもなかなか気づけなくて……涙ぐみながら、こっそり隠れてシーツを洗っているあなた、もう本当にかわいくてかわいくて……!」

「シーツ……? ……あっ」


 合点がいった瞬間、カァァァーーッ! と少女の頬に火が付いた。茹で上がったように真っ赤になって、唇があわあわと震えだす。

 そうなのだ。少女には昔、どうしても治らない癖が一つあったのだ。

 気づいた瞬間、フラッシュバックする。狭い室内に怒涛のように水が押し寄せる夢。滝のような轟音。そして目覚めたときの、嫌な湿り気と、張り付くシーツの感触。


「わっ、わーわー⁉︎ ちっ違うの! 違っ……! や、でも違くない方が……うぅ……?」

「わかってる。私はわかっているわ。ふふっ、久しぶりにあなたの可愛いところを見れた気がするわ! あなたには申し訳ないけど、いい一日になりそう!」

「うぅ……違うの。違うのにぃ……」


 顔を真っ赤に染め、眼に涙を溜めて、聞こえないようにポソポソとぼやく。

 少女は、誰にも知られたく無い秘密を隠すために、誰にも言えないような恥ずかしい思いをすることを選択した。

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