第7話
宵闇に浮かんだカヤックは、まるで冥府に運ぶ橋渡しのように見えた。ちゃぷちゃぷと揺れて、鏡のような湖に波紋を広げている。
真夜中静かに揺れる一人乗りのカヤックは、自分の居場所のようにも感じられた。吸い寄せられるように乗り込むと、少女の体はすっぽりと収まった。
オールを漕ぐと、ぎぃと音を立てて、船が夜色の湖へ泳ぎ出す。
真夜中湖に出ることは、多くはなくとも今までやってきた事だった。
それなのに、今見ている光景は、今までとは全然違う。まるで出口の見えない真っ暗なトンネルを進むような、異様な圧迫感だった。オールを動かすぎぃ、ぎぃという音が、不気味に耳を震わせる。
いつにも増して、耳が痛いほどの静寂だった。森すらも息を潜めているようだ。
月の光だけが力強く辺りを照らしていた。月は鏡のような湖面に反射し、水を銀色に照らしている。
ただ自分の見方が変わっただけとは考えにくい。今夜の湖は、今までとは違った顔を少女に見せていた。
船はオールを上げても水面を滑るように進み、やがて湖の真ん中にたどり着く。
「……」
辺りをざっと見回す。夜に色を奪われた森は不可思議なシルエットとなって、陸地を覆い隠している。
その時、森の一角がざわめいた。振り向いた少女の顔に、ひゅうと強い風が吹き付ける。
「わっ、ぷ」
涼しいかも冷たいかも分からず、見えない薄いビニールを顔に押しつけられたような不快感に顔をしかめる。
思わず腕で顔を覆う。その時だった。
——こぽ。
あの時と同じ、泡の弾ける音。振り向いた先は、鏡のような水面を保っている。
「っ……」
恐る恐る、カヤックから顔を出し、水面をのぞき込んだ。
「わ——っ——ぅ」
少女とは異なる女の子が映っていた。息を飲み、体が硬直する。ぐらりとカヤックが傾きそうになるのを懸命に抑える。
(っいけない。慌てたら、たぶん消えちゃう……)
深呼吸をして、もう一度のぞき込む。謎の女の子は、まだ湖のゆらぎの中にいてくれた。
「……」
少女は彼女の姿にじっと見入る。
水の中にいるために、その姿は仄かに青く色みがかって見える。どうやら純白のワンピースを着ているようだった。ウェーブがかった茶色の髪が揺らめくのが、辛うじて見える。
しかしそれ以上は判然としなかった。表情も輪郭も、まるで水と一緒に体自体が揺らめいているようでハッキリとしない。
幻のようで、現実味がまるでない。しかし、確かに彼女はそこにいた。
(やっぱり、夢じゃなかった……本当に、水の中にいるのかな?)
息を飲み、少女は水面を見つめたまま、カヤックの中を手で探る。
小指の爪ぐらいの小石を見つけると、それを摘み、ポトンと落としてみた。小さな泡と一緒に、石がゆらゆらと落ちていく。
揺らめく水面を、じっと見つめる。
数秒後、水面に映った女の子が、頭を大きく仰け反らせた。
どうやら石がぶつかったらしい。女の子の手が動き、額を抑える。
……なんだか、こちらを睨んでいるような気配がした。
「あ……ご、ごめんなさい」
——こぽ。こぽ——。
小声で謝ると、まるで返事のように泡の弾ける音がした。
改めて聞くとその音は、水中で気泡を吐き出した音のように聞こえた。水の中で口を動かして、それで空気が登ってくる……そんなイメージが、不思議と鮮明に湧いてくる。
何か、喋ろうとしているのかもしれない。
「あの……あなたは、誰? お名前は、なんて言うの?」
女の子は、仄かに青い水の底で揺らめき続けている。
こぽ、とあの音がして、何か反応をしようとしているのは分かった。
少女のいる場所があまりに深いのか。それとも別の世界にいるからなのか。少女と女の子の距離は、気の遠くなるほど離れているように感じられた。
——霊とは隔世。つまり、こことは違う世界の存在である。
——世界を跨ぐことはそう簡単にできることではない。
本の一節が思い出される。二人の間には確かに、魔法のような、異次元の隔たりがあった。
それでも……今、こうして見つめ合っている。
何かを、伝えようとしている。
「っ……!」
何を伝えたいのだろう。
何を語ってくれるのだろう。
一体どんな人なんだろう。
何故、こうして自分の目の前に”現れてくれた”のだろう。
息を飲む。カヤックのへりを握る手に、ぐっと力が籠もった。身を乗り出し、少女をよく見ようとする。
そして、それがいけなかった。重心が動き、一人乗りのカヤックが大きくよろめく。
「わ、わっ!?」
普段なら何とか持ち直す事もできただろうが、少女の体は緊張で固まってしまっていた。酷く動揺し、それがカヤックを悪い方向に傾かせる。
(っダメ——あの子が消えちゃう!)
着水の寸前。自分の事よりも、脳裏をよぎったのはそんな言葉だった。
世界が傾き、水が押し寄せる。
温度のない、無感動の奔流に飲み込まれる。
少女は泡と共に沈み、ごぼごぼと喧しい音が耳を叩く。
目を開けると、白銀に光る水面が見えた。巻き込んだ空気が泡になって登っていき、少女を取り残す。
無感動の静寂に包まれる。その時だった。
——メアリ。
「っ……!?」
慌てて振り返る。しかし視線の先には、何も映すことのない暗闇だけが広がっていた。
しばらくその暗闇を見つめていたが、すぐに少女は息苦しさを感じ、水面を見上げて泳ぎ出す。
「ぷはっ! はっ、はぁ……!」
無温の水を吐き出し、代わりに無温の空気を吸い込む。
カヤックはすぐ隣に揺れていた。上下逆さになっていたが、復帰の方法を学んでいたので、何とか元の状態に持ち直す事ができた。
ずぶ濡れの体をカヤックに持ち上げ、少女はようやく、胸に詰まっていた空気を吐き出した。
呆然と辺りを見回す。まだ鼓動は荒く、どきどきと鼓膜を打っていた。その音が、自失した少女の中で何十回と鳴る。
「……いけない。シャワー、浴びないと」
水を吸った服は体に張り付き、ずっしりと重くなっていた。秋口とはいえ真夜中だ。普通の人なら、凍えて動けなくなる温度かも知れない。その判断基準を持ち得ないからこそ、塗れた服は少女にとって恐ろしいものだった。
両親の怒る顔が脳裏に浮かんで、慌ててオールを手に取り、漕ぎ出した。水滴を浮かべるカヤックは、何事も無かったかのように水面を滑り出す。
最後に一度、視線を落とす。湖の底には、夜より暗い闇だけがあった。
「……メアリ」
忘れないように口ずさむ。
それはきっと、彼女の名前。奇しくも、鏡の中に引きずる血塗れの女と、同じ名前。
偶然なのか、それとも違うのか、それは分からない。
でも、決して聞き間違いではなかった。清らかに澄んだ、美しい声だった。転覆で気が動転していても、彼女の声は強烈に頭の中に木霊した。
彼女の声は、水の中で切なく響いた。名前を呼ばれる事がないのを、嘆いているかのような残響だった。
その切なげな声は、より一層少女を惹き付けた。
「……大丈夫だよ、メアリ」
誰にともなく、呟く。
初めて、かけがえのないものに出会えた気がした。
誰よりも彼女の事を分かり、そして分かってもらえるような気がした。
「あなたの名前は、私が呼んであげるから」
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