第6話


 学校が昼休みに突入すると、少女は鞄から弁当のサンドイッチを掴んで、席を立ちそそくさと教室を後にした。

 雄大な自然に囲まれたこの町は、とにかく土地だけはあった。学校はとても広く、校舎の周りを移動するのに自転車を使う人もいるほどだ。

 その広い土地を活かして、部活ごとにグラウンドが作られていて、昼休みも様々な運動部がのびのびと運動をしている。日の当たる広場も幾つも作られていて、男女のグループが他愛もない話しに花を咲かせている。


 賑やかな空気だったが、人気の少ない場所を見つけるのは、そう苦労はしなかった。

 裏庭に差し掛かる校庭の端の方に、空気がしっとりと湿る広場があった。石畳で均された円形の空間の中央には、気休め程度にちょろちょろと水が出る噴水がある。

 生い茂る木が覆い被さるように伸びてきていて、広場の半分程度を日陰にしてしまっていた。綺麗な場所だったが、何となく陰鬱な雰囲気も漂っていて、人気は無かった。

 少女は日陰と日向がちょうど半分ずつになっているベンチを見つけると、日陰の方に静かに腰を下ろした。

 ハムとレタスのサンドイッチを一つ摘み、口に運ぶ。半分ほどを食べて、少女は一緒に持ってきた本を膝に載せた。

 『オカルト大全集』と題された本は、気の滅入るような暗い灰色のハードカバーをしていた。怖くもあり、胡散臭くもある。休み時間に図書館に通い心霊関係の本を漁っていたが、この本が一番詳しく載っていそうだった。

 昨日の出来事が少女の頭から抜けることはなく、いてもたってもいられなかった少女は、膝の上に載った本を睨み、ふぅと一息。


「まずは、調べることからだよね」


 むんっと気合いを入れて、陰鬱な表紙をめくる。

 『オカルト大全集』は、百科事典のようなだった。世界各国の様々な怪談・幽霊が、おどろおどろしいイラストと一緒に紹介されている。透明人間、狼男に始まり、インド辺りの聞いたこともない幽霊なども紹介されている。


「へぇ……あんまり期待してなかったけど、なんか、面白そうな本かも」


 元々本を読むのが好きなタイプなので、興味深い内容はいくつもあった。しかし、目的はあくまで調査だ。早送りでページをめくる。

 目次を見てあたりをつけていた、水に関する怪談として纏められているページにたどり着いた。しかし期待して見たそこには、未確認生物や河童といった不気味な生き物しか載っておらず、何だか奇妙な生物図鑑でも見ている気分にさせられた。

 肩すかしを食らって、少女は落胆を隠せない。

 水の中、女の子……持っているのはその程度の曖昧な情報なので、こうなっても仕方はないのだが。


「うぅん……当てはまる物は……ひっ!」


 気落ちしてめくったページの先で、凄まじい気迫の眼が睨みつけていた。射すくめられて、一瞬呼吸が止まりそうになる。


「っ……び、びっくりした……」


 ばくんっ、と跳ね上がった胸を押さえて、浅く早くなった呼吸を落ち着かせる。

 ページ一杯に、恐ろしい形相をした女性が描かれている。爛々と輝く眼は見開かれ、黒々とした血が流れ落ちている。鏡面から飛び出し、こちらに両手を突き出している。

 今にもページを飛び出し、本の中に引きずり込んでしまいそうな、異常な迫力があった。ドキドキを抑えつつ、少女は説明文に眼を落とす。


「ブラッディメアリー……鏡の中の女」


 呟くと、かちりとピースがはまったような気がした。少女は眼の色を真剣にして、女性の絵を正面から見据える。

 ブラッディメアリー。鏡の前に立ち「ブラッディメアリー」と唱えると、鏡の中に血塗れの女が現れ、その人を鏡の中に引きずり込んでしまうのだという。

 本の挿し絵は、まさに呼び出した人を引きずり込もうとする場面なのだろう。血の涙を流す眼は凶器に染まり、強い怨念を感じさせる。何度見ても、ものすごい迫力だ。


「でも、私が見たものとは違うような……呼んでもいないし、危なそうでもなかった気がする」


 見開きで描かれていたブラッディメアリーも、本自体が大百科のような物だったので、説明は概要をざっと説明する程度に留まっていた。何となく引っかかる物を感じつつ、ページを更にめくる。

 すると、今までとは違った趣向の内容になっていた。オカルトコラムと題された記事が数ページに渡り続いている。

 題目は『霊との出会い方』。少女は慌てて、コラムの内容を目で追いかける。


「霊は、生前の出来事、もしくは自らの出自となった由来にちなんだ場所に現れる。自殺者であれば崖や樹海。殺人の被害者であれば、加害者の側などだ。あるいは伝承が元となって生まれた怪物は、その噂そのものに取り憑くこともある。聞くと呪われる、唱えると現れる類の怪談だ。ブラッディメアリーもその一つである」


 記述の内容で一貫していたのは、霊には必ず何かの由来や、見えるに至った原因があるという事だった。あるいは昔生きていたという残滓が集まり形を成す。あるいは、不特定多数の「いるかもしれない」という恐怖と期待が集まり生み出すに至る。

 コラムはまだ続く。


「霊とは隔世——死者の世界、あの世とも表現される——つまり、こことは違う世界の存在である。霊本体が強い恨みを持ち触れたがっていても、あるいは生者が死んだ人間に会いたがっていたとしても、世界を跨ぐことはそう簡単にできることではない……霊に会うために必要なのは、自ら隔世に近づくことだ。隔世とは、無であり陰であり、そして死である……っ?」


 ちか、と光が瞬いて、少女は顔を上げた。本の端の方が、太陽の光を反射して、白く光っていた。

 日陰の方に座っていたのだが、いつの間にか太陽が傾き、少女の半身が日向に出ていた。

 少女の雪のように白い太股の左の方が、太陽に当たって光っている。少女は不思議そうに手を伸ばし、白い左太股と、陰に隠れたままの右側を交互になぞる。

 少女にとって、違うのは見た目だけだった。

 日向の温かさや心地よさなど、少女は想像することもできない。

 そう思うと、さっきの本の一説が頭をふっと横切った。


 ——隔世とは、無であり陰であり、そして死である。

 ……ああ、そうか。そうなのか。

 自分は、一部が死んでいるんだ。


 温度が死んでいる。その分だけ、自分は隔世に近い場所にいるのだ。

 だから、見えた。あの場所に、誰にも知られずにいた湖の幽霊に出会った。

 見えた。あるいは、向こうが姿を現した。

 どちらにせよ、それは何か理由があるはずだった。

 そして……どうしてかは分からないが、その理由が危険なものとは思わなかった。

 思案顔を作り、少女は中断していた読書を再会する。


「例えば、太陽は生命の象徴である。対極となる月の光が強いほど、霊は力を表しやすい。体を疲れさせたり、全身を水に浸したり、自らの状況を霊に近づけることも有効だ」


 思い出す。そういえば、湖畔に反射する月がとても綺麗だった。確か向こう一週間ほどは月が輝く夜が続くと、ニュースで言っていた気がする。


 本を閉じ、少女は空を仰ぎ見た。

 太陽は更に傾き、少女の顔を目一杯に照らしていた。強い光に目が眩み、少女はそっと目を閉じる。

 微かに賑やかな声がする。どこか遠くから聞こえてくる声は、深い水の中から聞いているようだった。

 ……温かいって、どんな感覚なんだろう。

 誰もが当然のように、それを知っている。

 だから、自分は異端なのだ。


 学校は、居心地が悪い。

 みんな少女を敬遠している。接するときも、まるで割れ物を触るように扱われる。

 友達と呼べる人はいなかった。誰かと気ままに話すクラスメートは、いつも透明なガラスを一枚隔てたように遠かった。

 自分は悪い意味で特別視されていて、憐憫の籠もった目で見られる度に『ここにいない方がいい』と考えてしまうのだ。


 ……また、会えるだろうか。

「……もう一度、会いたい」


 口にすると、それはより強固な願望となって、少女の胸を強く打った。

 どうしてこんなに心惹かれたのか、自分でも分からない。

 ただ、ひと目だけでも見た『あちら側』の存在を見て、思ったのだ。



 ——自分も、『あちら側』なんじゃないかと。

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