第5話


 少女は、温度を感じないということを除けば普通の人間だ。

 果たしてそれを普通と呼んでいいかは分からないが……ともかく、少女の目や、それを感受する脳神経系に異常はない。

 内気な性格ではあって、悩むことは多いけれど……特別な何かを見てしまうほどに追いつめられてはいなかった。


 なのに、昨夜のあれは一体何だったんだろう。

 湖の底に見えていた人影は、明らかに少女のものとは異なっていた。

 今までにない事だった。

 ……この世の物ですら、ないのかもしれない。


「大丈夫かい?」


 そう聞く父の声で我に返る。手から滑り落ちたスプーンが皿に辺り、カチャンと大きな音を上げた。

 その音にお互いびっくりして、目を丸くした父と数秒間見つめ合う。


「……ぷっ、ははは」


 先に父が破顔した。仰天顔で見つめ合う状況がおかしくて、娘の未だ驚いた顔に苦笑する。


「そんなに驚かなくてもいいじゃないか。なんだい、寝不足かい?」

「う、うん。ちょっと、変な物を見て」

「変なもの?」

「あ、えと……ゆ、夢。変な夢だったの。ちょっと不思議で、現実味が凄い物」

「そうか……紅茶でも入れようか。落ち着くと思うよ」


 そう言うと、父はポットに水を入れて火を入れた。

 朝と言うには少し早い、ようやく空が白みだした時間だった。少女の学校まで距離があるため、早起きして、父が車で送る必要があるのだ。

 母はまだ起きない。朝食は自分で済ませるのが日課だった。台所に立つのは何となく敬遠してしまい、少女の朝食はもっぱらシリアルだった。

 牛乳に浸したシリアルをいたずらにかき回しながら、少女は戸棚を漁る父の背中をぼんやりと眺める。


「……ねえ、お父さん」

「えーっと、茶葉はどこにしまっていたかな……ん? どうしたんだい?」

「すぐそこの、湖の事なんだけどね……何か、変な噂とかあったりする?」

「変な?」


 不思議そうな顔がこちらを見た。少女は慌てて取り繕う。


「怪談話とか、そういうもの。友達がそういう話が好きでね? ネタを探してるって言われて……」

「怪談話ねぇ」

「例えば、あの湖で誰かが溺れちゃったとか」

「物騒だなぁ……でも、ごめんね。詳しくは分からないよ」


 父は笑みを作ると、ティーポットに茶葉を入れ、自分のマグにインスタントコーヒーの粉を入れた。それらを持って、少女の対面に座る。


「ここは湖の町で、住民は夏になると湖で泳ぎ、冬になると氷の張った湖を滑って遊ぶ。そんな感じだから、そりゃあ過去を遡れば、過去に悲しい出来事があったかもしれない。でも結局それは事故で、皆の中に長く残るような話じゃないんじゃないかな」

「そっか……」

「怪談って言われると尚更だね。ウチの湖で人が沢山死んでいるとか、お化けが現れるとか、そんな話は聞いたことがないなぁ」


 役に立てなくてごめんね、と父ははにかんだ。気にしないでと少女がほほえむと、父もまた笑みを深めた。


「でも、ウチの湖で実は人が死んでましたなんて話はぞっとしないなぁ……結構、真剣に掘り下げる気でいるの?」

「ううん、どうだろ……ちょっと気になってる、ぐらいかな」


 今はまだ、と声に出さずに含ませる。納得した父は、娘の頭を優しく撫でて、言う。


「誰かの不幸っていうのは、本来軽々しく、面白がって扱っていいものじゃあないよ。それは誰にとっても、気分のいいものではないだろうからね」

「うん……気をつける」


 ピィィ、とポットが鳴った。それが会話の区切りとなって、少女はシリアルを一口食べる。

 頭の中では、昨夜湖で見た光景が繰り返し繰り返し再生されていた。あの湖の光景は確かなリアリティを持っていて、夢でも見間違いでもなかった。不思議なほどに、そう確信していた。

 思案する少女の前に、湯気の立つポットが置かれた。父がガラス製のティーポットにお湯を注ぐと、茶葉がふわふわと浮かんで、お湯が瞬く間に茶色に染まってゆく。


「触っちゃだめだからね」

「分かってる」


 父も母も、そう言う事をやめてくれない。耳にタコができるのもお構いなしだ。

 少女はじっと、茶葉が踊るティーポットを眺める。目に付く何でもを、じっと眺めるのが好きだった。温度を感じられない分の情報の不足を、過剰に見ることによって補おうとしているのかもしれない。

 しばらく見てから少女は立ち上がり、マグカップの準備をする。戸棚から出したマグを持ったまま冷蔵庫に向かい、氷を一掴み取ると、マグの中に放り込んだ。

 冷えた蒸気の出るマグの中に、熱い紅茶が注がれる。パキパキと氷が割れる音がして、みるみる小さくなっていく。

 音が収まる頃には、湯気はすっかりなくなっていた。最後に父がマグを触り、温度を確かめる。


「……うん、飲んでいいよ」


 そう言われて、初めて少女はカップを持つことが出来る。



 温度を感じるのは、生物が生きるための防衛本能でもある。

 熱いのも寒いのも、度を超えれば火傷や凍傷など、体を痛める害になる。

 そして人間は害を起こすほどの温度——例えば火やドライアイスなど———に触れれば、反射的に手を離す機能が備わっている。

 しかし、少女にはその反射すらもない。少女という全てが、温度に関する知識を持ち合わせていないのだ。

 火や氷水などは、見ただけで危険だと分かるからまだいい。しかし『熱い紅茶を口の中で転がして冷ます』といったごく普通の事も、少女は分からないのだ。子供の頃は、幾度と無く喉の火傷に苦しまされた。

 自分は、一人で生きていけるのだろうか……どうしても、そんなことを考えてしまう。それはとても情けないことで、恥ずかしいことのように思われた。


 熱い紅茶が、目の前でぬるく冷えていく。

 あやふやだなぁ、と、何とはなしに思う。

 この紅茶も……自分自身という存在も。

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