第4話
「三十六度四分」
体温計に浮かぶ数字を、淡々と読み上げる。自分の身体が持つ熱の数字。平熱とは言うけれど、三十六度とは一体どのくらいなんだろう。
寝室のベッドにくるまった状態で、少女はそんなことを思いながら、体温計を側に座る母親に渡した。母は自分でも数値を確認して頷くと、毛布を肩まですっぽりとかける。
「じゃあ、静かに休みなさい。夜は冷えるから、毛布は外しちゃ駄目よ」
母は毎晩そう注意する。どんなに言っても決して止めなかった。少女は苦笑する。
「大丈夫よ、お母さん。この毛布、今日干してくれていたんでしょう?」
「あら、分かるの?」
「うん。柔らかくて、お日さまの匂いがするもの。とっても素敵。心配しなくても、手放したりしないわ」
そう言って、少女は毛布に顔をすりすりとすり付ける。
これで温もりを感じられたら、もっと……それこそずっと包まれていたいぐらい、幸せなのだろうけれど。
そう思ったけれど、言葉にはしない。笑顔の少女に母も笑って、額に優しく口づけした。
電気を消し、母がドアを閉める。視界は暗闇に包まれた。
一瞬、完全な無になったような感覚がする。ふわふわの毛布に包まれて、宇宙空間に放り出されたような、不思議で寂しい感覚に包まれた。
毛布や衣服に「触られている」という感覚だけが、嫌に明瞭になる。それは心地いいものではあったが、何かが欠けているという自覚があった。
しばらくじっとしていると、目が慣れて、暗闇に部屋の様子が鮮明に映るようになってきた。首を傾けて、カーテンを開けている窓を見る。月が明るい夜だった。ほぅほぅと梟の鳴く声がする。秋を目前にして、虫の鳴き声も聞こえ始めていた。
少女は目を閉じずに、じっと耳を澄ませていた。閉じたドアの向こうから、両親がまだ起きている気配。意識を向けて、それを聞く。
『——ないで。ちゃんと寝てるわ。しっかり毛布もかけているし』
『そうか、良かったよ……ふう。もう慣れたけれど、緊張は解れないな』
『あなたは一際心配性なのよ。出来ることをやる。危ないことは駄目。そうやってハッキリさせれば大丈夫よ』
母の声には活気があった。身を押さえつける重石を外されたような開放感を感じられた。
『特に、変わった様子はなかったかい』
『ええ、いつも通り、素直でいい子だったわ』
『最近、あの子が遠い目をしているのをよく見るような気がしてね。どこか上の空というか、自失気味というか……何を考えているのかまでは、分からないけれど』
『普通の人と違うんだもの。悩みがあってもおかしくないし、原因を取り除くことは、私たちにはできないわ。できるのは、受け入れて一緒に暮らすことだけ』
『……そうだな。それが、あの子を産んだ僕たちの責任だ』
ドア越しの籠もった声が、そう締めくくられる。しばらくして、足音と食器を片付ける音に切り替わった。
少女は布団にくるまったまま、くるりと身体を横に回す。窓の外の月の光を、じっと見つめる。
——普通の人と違うんだもの。
「……ごめんなさい」
ぽそりと呟いて、口元にかかる布団をぎゅっと握りしめた。
三十分もすると、両親の気配はなくなり、家はしんと静まりかえる。
寝静まった事を確認して、少女はゆっくりと布団から這い出た。タンスを開けて、普段より少し厚めに上着を着込む。
明かりは一度も点けない。廊下に出ても、窓から差し込む月明かりが部屋の輪郭を映し出していた。
母の寝室は、玄関に通じる廊下の右手にあった。一瞬躊躇ってから、少女は寝室のドアを開けた。
「おかあさん……?」
おそるおそる呼びかける。返事は無かった。ホッとしてドアを締めると、玄関から外に出た。
風はなく、空気はひっそりとしていた。涼しいか、冷たいか、その判別はつかない。吸い込んだ空気は気道を無感覚に通り抜ける。しっとりと湿っていて、夜の香りがした。
森の中に一本引かれた道路には、街灯はほとんどない。近隣の家の明かりがぽつぽつと灯っている程度で、それも夜の暗闇を打ち消すにはほど遠い。
月明かりによって照らされた森は、色を持たない。覆い被さるような木々のシルエットは、不気味でありながらも、不思議と少女の目を引きつけた。
少女は数度深呼吸をして、森の香りを吸い込んだ。それから踵を返し、裏手の湖に足を運ぶ。
湖にはもう一つの夜空があった。眩しいほどの月、無数の星。それが上下対象にきっかり二つ。
静かな湖面は、まさしく鏡のように空に浮かぶ全てを反射していた。まん丸な月は、潜り続ければ触れられそうにも思えた。
少女はしばらく眺めていると、桟橋にあった一つのカヤックに向かった。固定していた縄を外し、ゆっくりと滑らせる。
少女が乗り込むと、小さなカヤックは不安定にぐらりと揺れて、ギィギィと音を立ててから静止した。少女はオールを手に取り、ゆっくりとこぎ出す。
カヤックは夜空を滑るように進んだ。
空の夜と、水に浮かぶ夜。夜に包まれた空間を、船だけが動いている。
誰もいない。自分だけの世界。その開放感が、心地よかった。
オールを離しても、カヤックは湖の中央を目指してゆっくりと前進した。下を見下ろすと、星が散らばる夜の景色が、波紋によってゆらゆらと揺れている。
透明な湖に、少女はゆっくりと手を浸した。温度は感じず、不思議な圧力だけがあった。
絹のようなすべすべのものに包まれているような感触に、浮遊感。
少女だけが感じられる、少女の感覚。それは決して虚しいとは感じず、嫌いではなかった。
けれど、それは誰も知らない感覚で、理解されることはない。
もとより自分は、理解される事などあり得ないのだ。
深夜、ひっそりと抜け出して湖に浮かぶ自分を見たら。両親は卒倒するほど驚き、そして自分をひどく叱るだろう。死んだらどうするのと、怒りながら涙を流すのだろう。
それは、確かに愛情なのかもしれない。
だけど少女は、その愛情らしいものを受ける度に、自分が申し訳なくて情けなくて、惨めに感じられた。
温度を感じられないせいで、少女は普通よりも大事にされ、心配された。
それらは全て、少女が普通の女の子だったら必要のない『余計なお世話』に他ならない。
普通の人とは違うんだから。母は、よく自分にこう言い聞かせる。
(それは……私が『異常者』ってことだよね)
自分がこんな風に生まれてしまったからこそ二人に与えた気苦労を、少女は自分の責任と感じていた。
気づけば、頭の中で謝ってばかりいる。
服を選ばせる苦労を増やしてすいません。ご飯を作る度に火傷の心配をさせてごめんなさい。自転車も船も、人並みに楽しめなくてごめんなさい。
「……普通の女の子の方が、よかったよね」
ゆらゆら揺れるカヤックの上で、少女は膝を抱え、湖面の月を見つめた。
こんな事を言ってもしょうがない。いたずらに両親を悲しませるだけだ。そんなことは分かり切っていた。
でも、結局両親だって、普通の子供の方が良かった筈なのだ。好き好んで温度を感じない子供を生むことも、ましてや育てたいと思うことも無いはずだ。だから少女は異常者で、普通と違う欠陥品なのだ。
愛を感じるから言い出せない。だけど愛される度に、自分が欠陥品であることを意識する。申し訳なさだけが積もっていった。独りよがりな苦悩のせいで、親しみも愛もあるのに、両親はまるで他人のようだった。
何でこういう風に生まれたのだろう、と疑問に思ってしまう。
そして、考えてもしょうがない堂々巡りを繰り返して、少女はどんどん、自分の中に閉じこもり、殻を分厚くしてしまう。
両親の優しさを素直に受け入れるには、少女は不器用で子供すぎた。
「世界が自分一人だったら、どんなに楽なんだろう」
呟き、すぐに呟いたことを後悔した。寂しさと無責任さに、頭を抱える。
この苦悩を解決する答えはない。逃げられないなら、せめて何も考えたくなかった。何もかもが煩わしくて、一人になりたかった。
こうして一人だけでいる間だけ、重責から解放されるような気がする。
心配をかけたくなくて束縛されているのに、その束縛から逃れたくて、心配させるような事を自ら進んで行っている。余りにも矛盾した自分の行動が苦しかった。
カヤックはゆっくり前進し、湖面の中央に近づいていた。中央にはちょうど空に浮かぶ月が反射して、一際明るく輝いて見えた。
ふうと息を吐き、静かな空気を胸一杯に吸い込む。
その時。ぽこ、と少女の右手で音がした。
泡の破裂する、小さく軽い音。魚か何かがいるのだろうか。そう思って、少女は俯いていた顔を上げる。
しかし、音に反して、湖面は鏡のような凪を保っていた。波紋は少女のボートから流れるもののみ。不思議に思って、少女は身を持ち上げてそちらを見る。
静かな夜の世界には、何も動く物がない。光は僅かで、音はなく、少女には温度もなかった。神聖な、魔力が満ちているような無だった。
「……気のせいかな」
背筋を少し寒くして、少女は顔を下げる。
見下ろすと、自分の姿も湖に反射していた。輪郭をゆらゆらと揺らめかせて、こちらを見つめ返している。
「……誰?」
少女は、それが自分でないことに気づいた。
月明かりが明るかったから、その髪が金髪でなく、色の薄い茶色であることが見えたのだ。
身を乗り出して、カヤックが大きく揺れた。湖に大きな波紋が広がり、湖面の人影の輪郭を揺らがせる。
注視して、それが自分でないことを確信する。人影はゆらぎのせいでかなりぼやけてしまっている。長く揺らめく茶色の髪以外は、表情も分からない。
揺れる人影は、なんだかずっと遠くにいるように感じられた。湖の深い、遙か深い所から、自分をじっと見つめているように見えた。
「っ……」
息を呑む。怖さよりも、好奇心の方がずっと強く押し寄せた。
「ねえ……ねえっ。あなたは誰なの……きゃっ」
息巻いて、透明な湖面に映る人影に呼びかける。その拍子にカヤックが大きく傾いて、少女がバランスを失って倒れてしまう。
カヤックの両端を掴んで、何とか転覆を避けた。突然の事態に、心臓がバクバクと跳ねる。
体勢を落ち着かせてから、もう一度、恐る恐る湖をのぞき込む。
再び見下ろした湖面は仄かに青く、すぐそこに金髪の少女の顔を映すだけだった。
ちゃぷちゃぷとカヤックが揺れ、小さな波紋が広がっていく。明らかに変わった空気に、少女は息を呑んだ。
——湖の底に、誰かがいる。
やがて寒さが押し寄せる、秋を目前にしたある日の夜の事だった。
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