第3話
気づかない方が幸せだということは、いくらだってある。
自分の体質に気づいてからというもの、少女の心には深い溝が生まれてしまった。自分が人とは違うという、劣等感に似た摩擦だ。
その溝はは家族や友人だけでなく、自分の住んでいる場所にも向けられた。
町は自然に恵まれている。湖の他にも、少女が豊かな自然と触れ合う場所は多かった。
少女の住んでいる土地には、ひとつの国立公園があった。
世界の有名な自然公園と比べれば小規模だが、それでも世界地図でも名前が示されるくらいには広い土地を持っている。
小高い丘が集まったようななだらかな起伏が続く場所で、あるいは背の低い草原があり、あるいは一面のコーン畑になっていたり、あるいは馬や羊を放牧していたりと、様々な景色が密集した牧歌的な場所だった。また土地の特徴である湖も大小様々に存在して、他の自然公園にはない涼やかさも持っている。
人の手はほとんど入っていない公園は、自然の宝庫だった。住民はある時は草原にテントを張りキャンプをして、ある時は馬に跨がり、ある時は湖で釣りに興じた。
中でも定番のレジャーは、サイクリングだ。自然そのものの景色の中にほとんど獣道のような土の道が一本だけ通っていて、そこを自転車で駆け、自然公園を走り回るのだ。
車一台がやっと通るかという道には、何百という自転車によってつけられた、一本か二本の深く細い轍がある。それに石礫や新たに生えた草が加わって、道は非常に荒い。更にそこに丘陵の起伏が加わり、走行はかなりスリリングでアクロバティックになる。
特に春から夏にかけては涼しく過ごしやすい気候になるため、自転車乗りの間では結構有名なオフロードだった。
家族の中では特に父がこの自然公園を気に入っていて、週末になると、少女を連れて自転車を漕ぎに出かけていた。
「せっかく、こんなに綺麗な自然の中に生まれたんだ。船だって自転車だって、あらゆる手段で自然を楽しむことは、もはや義務だよ、義務」
父はよくおちゃらけてそう言ったけれど、それは実際本当の事で、ここに住む誰もが、そういう穏やかな生活を心がけていた。
自然公園の景色は素晴らしく美しかった。一生懸命ペダルを漕いだ丘の上からは、地平の先まで伸びるコーン畑や、のんびりと草をはむ馬や、鏡のように澄んだまん丸の湖で魚が跳ねる光景を見ることができた。雄大な景色からは、地球という大地に立っているという実感を感じることができた。
「……きれい」
静かな碧色の瞳の奥にある網膜のフィルムに焼き付けるように、じっとその景色を眺める。
一言も発さず、何分もそうやっている。
一緒にやってきた父は、邪魔することなく、少女の金髪のお下げが揺れるのを眺める。
風が強く吹いて、父の頬に浮かんだ汗を乾かしていった。火照った身体を洗い流してくれるような、とても心地いい風だった。父は思わず両手を広げて、風を全身で享受する。
少女はその様子をチラリと見て、視線を正面に戻し……再び吹いた風に、顔をぐしゃっと歪めた。
少女は自転車が嫌いだった。だけど、それを父に言うことはできずにいた。
速度を上げて走ることは、どうしようもなく不快だ。風が嫌いなのだ。吹き付ける風は、少女にとって、まるで透明な薄い膜を顔に押しつけられているような、不気味な圧迫感と息苦しさを感じさせた。
自然は綺麗で好きだったけど、心地いいという感覚だけは、どうしても理解できなかった。
そして少女のその感覚は、父や母は決して理解できない感覚だった。
理解できない事を分かっていたから、少女は父に、自転車が嫌だと伝えられずにいた。温度を感じないことで出来ないことが増えるのは、あまり嬉しいことではなかったから。
そして同時に、少女は羨ましくもあった。この綺麗な景色を、身体一杯で、全部の感覚で受け入れられることが。
それが悔しくて、少女は見る。ただ見つめ、息を吸う。
こんなに美しいのに、少女の皮膚は、それを受け入れる事を拒否し続ける。
もう二ヶ月もすれば雪が降り、人々はまた、冬という自然を楽しみ始めるのだろう。
それもまた、少女の白い肌は拒否するだろう。
少女の住む町は、自然と、寒さに恵まれた町だった。
それを見て、少女はいつも思う。
自分は、本当にここにいるんだろうか?
ちゃんと、この町で生きているんだろうか?
「……よし、そろそろ戻ろう。日が暮れる前に帰らないと、凍えてしまう」
「……うん。」
まるで夢の中。想像だけの、嘘の世界。
自分は、本当に生きているんだろうか?
少女はその言葉を胸に秘め、誰にも問えず、答えを見つけられずにいる。
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