第2話


 少女の家は、鏡のように透き通る湖のほとりにあった。

 国の北の方にあるその地区は、豊かな自然と水源を持っている、水と緑の町だった。空から見ると、大小さまざまな湖が、深く繁る木々の中に水玉模様のように浮かんで見える。小さく質素な街で、人口は少なく、観光客を呼び込むようなものは無かったが、それでも静かで過ごしやすく、幸せな土地だった。

 湖沿いの家は、一様に湖畔に小さな桟橋を持っていて、そこに自分のボートを停泊させていた。外周をぐるりと取り囲むようにして、一人乗りのカヤックから家族用のモーターボートまで、大きくはないが様々な船がある。

 住民は各々の船で、ある日は釣りをしたり、ある日ジェットスキーを楽しんだりと、湖の恩恵を満喫した。時には皆の船を集めて、船上パーティーを開いたりもする。湖を通した和やかなコミュニティが、ここにはあった。


 少女の家も例外でなく、小型の船を持っていた。簡単なキッチンセットのある船で、二週間に一回ほど、家族三人で湖の上でのバーベキューを楽しんだ。

 皮がパリパリに焦げた鶏肉に、油の滴る大きな鮭。炭の匂いが香ばしい野菜。父が焼いたそれらに舌鼓を打ち、少女は朱色に染まる湖を眺めていた。

 船は湖の中央に停泊し、左右にちゃぷちゃぷと揺れていた。穏やかな風が吹き、金髪の三つ編みを緩やかに揺らしている。

 宝石をはめこんだような碧い瞳は、どこか物憂げで、ここではないどこかを見通しているようだ。


「……どうかしたかい?」


 父に呼びかけられて、少女はハッと我に返った。手すりにもたれ掛かっていた身体を起こし、湖面を眺めていた顔を動かすと、炭用のハサミを持った父が優しい目をして少女を見つめている。

 夕餉が終わってしばらく経ち、消えかけの炭がパチパチとはじけている。ほとんど灰になったそれを父がハサミでつつくと、カシャ、カシャと軽い音がして、白い灰が夕焼けの空に狼煙のように舞った。

 その煙を目で追いながら、少女は聞き返す。


「どうかしたかって、どういうこと?」

「何か、考え事をしているように見えたからさ。学校の事かい? 友達か、それとも合唱のことかな?」


 そうして気を揉む父の眉は、綺麗なハの字を作っている。

 あの日から、父は自分に対して過保護なところがある。悩みは少しでも減らしておきたいという優しい心がありありと見えた。少女はその様子に苦笑を返す。


「違うわよ……何も。何も考えてなかったわ。この景色が好きだから、ずっと眺めていたの」


 父は一瞬、少し考え込むようにしたが、すぐにホッと胸をなで下ろした。母は二人の会話を、ただ静かに聞いている。

 湖は穏やかで透き通り、周囲の木々を映し出していた。湖面は燃えるような夕焼け色に、輪郭をうっすら藍色に染める雲が浮いて見える。上下対照に、空が二つ広がっているようだ。そんな鏡のように静かな湖面を、ボートが動くことで生まれる波紋が揺らしていた。

 北に位置するここは、夜は駆け足で訪れる。夕焼けが作る景色は、日が落ちるのに合わせて次々と色を変えていく。再びぼんやりと眺める少女の前で、空はまた一段色を落とし、深い藍色になった。光が少なくなり、輪郭がぼんやりと透けていく。


 ぴゅうっと風が吹き、母が小さくくしゃみをした。

 それを見た少女の身体が小さく、誰にも気づかれないぐらいに跳ねた。肘まで捲っていたシャツの袖を、慌てて元に戻す。


「ふぅ……まだ夏のはずだけど、夜が近づくと冷えるわね」


 少女の行動には気づかず、母が呟く。その言葉は、まるで他人事のように少女に響いた。

 その言葉へどう返事をすればいいかを、少女は知らない。


「そろそろ戻ろうよ。景色も、これ以上は暗くなるばかりだもの」


 いつも通り、そんな当たり障りのない返事をした。父が頷くと、運転席に移動してエンジンを起こす。

 一度ぐわんっと船が揺れ、速度を上げた。強い風が少女の顔に吹き付け、髪を揺らす。たまらず後ろを振り向いた。

 湖は大きいと言うほどではない。この中央付近から少女の家まで、一分もあれば事足りる。

 しかしその僅かな時間でも、少女は自分の顔に風が吹き付けるのを我慢できない。

 風は嫌いだ。進行方向に背を向けて、船の脇の手すりを掴む。

 透明な湖を船が滑り、少女が見下ろす湖面はまるで生き物のように波打っていた。力を受けて不定形に動くその様子は、手を伸ばせばゼリーのように掴めそうに見えた。


 少女は屈んで手を伸ばそうとして……はっと我に返って、顔を上げる。

 深く淀んだ母の目が、じっと少女を見つめていた。

 澱の沈殿した湖の底を思い起こさせるような、暗い瞳だった。

 少女は身震いして、口を開く。


「……おかあさん。触ってもいい?」


 聞こえるか不安になるほどの小さな声。

 母は応えずに、しばらく少女の目をじっと見つめる。

 答えに悩むのではない。言外に言い聞かせているのだ。馬鹿なことを言わないで、と。


「冷たいわ。止めておきなさい」


 母は静かに首を横に振って、言葉だけは優しく、娘の提案を拒否した。


「……ごめんなさい」


 少女は静かに謝ると、ゆっくりと椅子に座り直した。

 少女の不用意な言葉が、母の琴線に触れたようだった。目元を静かにつり上げると、引き結ばれていた唇が言葉を吐き出した。


「分かってるでしょう? 危ないことはしちゃダメ」

「うん」

「湖も冷たいし、実はあなたの体は冷え込んでいるかもしれないわ自分の体の事も分からないんだから、勝手な行動はやめて」

「ごめんなさい」

「……な、なあ。そんなに言うこともないだろう。この子もちゃんと分かっているだろうし」

「分かってるなら、そもそもあんな事聞いたりしないわ。……ねえ、あなたの安全のために言ってるのよ。分かるわね?」


 宥めようとする父にも厳しい目を向けて、母は蕩々と少女に言い聞かせる。少女は俯き、ただ粛々と、母の言葉に頷いた。


「あなたは普通とは違うんだから」


 最後に言われた母の言葉が、少女の耳に強く残る。波打つ水面は、見た目よりずっと遠くに感じられた。



 温度は、今でも感じたことがない。

 それが危ない事だという認識は、全て父と母から教わった。

 あの一件から、両親はまるで人が変わったかのように、少女に気を揉んだ。

 一人で行動することは極力禁じられた。夏でも、湖で泳ぐ時間はぐっと減った。着る服は全て母が選んだ。

 お風呂に一人で入ることを許されたのは、十歳になってから。十二歳の今でも、湯船は自分でいれることはできないでいる。

 少女に関する全てに、毎日細心の注意が払われた。


 火傷するほど熱くても、凍えるほど寒くても、少女はそれを知覚する事ができないのだ。誰にも、自分にすら気づかれる事もなく死ぬことだってあり得る。

 だから、少女は囲い込まれた。

 父と母は、少女の身近にある死の恐怖に怯え……少女は、恐怖する両親に怯えた。

 差し迫る温度という危険は、自分にとって『無』だった。死はまるで本の中の事のように、遠く遠くのことにしか感じられない。

 それよりも、少女の行動を気にし、心配し、ある時は咎める両親が、よほど少女の心を苛んでいた。

 少女は両親の顔色を伺って過ごすようになった。

 湖畔をぼんやりと眺める顔には、十二歳とは思えないほどに陰りが差している。


 決して、不幸ではなかった。

 温度が感じられなくても、少女は充分に幸せを感じられていた。湖の景色は何度見ても感嘆のため息が出るし、母は厳しいときはあっても、毎日自分を抱き締めてくれた。

 人と全く同じ生活は送れなかったが、それでも皆はその事を理解してくれたし、友達もちゃんといた。


 愛も友情も受けていた。

 人並み以上に恵まれていると、自分でも思う。

 そんな中で少女を苛むのは、申し訳なさからくる劣等感と、どうしようもない疎外感だった。



 あなたは普通じゃないんだから——そう言った母の言葉が、耳の奥で反響を続けている。

 自分がここにいるべきでないという感覚を、少女はいつも感じていた。

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