仄かに蒼い湖畔の底に

brava

第1話

 少女の世界には、生まれつき温度というものが存在しなかった。


 母がそれに気がついたのは、少女が四歳の時だ。

 十二月に入り、連日降り続いた真っ白な雪が少女のくるぶしの高さまで積もっていた。少女は母からはかせてもらった紫陽花色の長靴を雪にすっぽりと埋めて庭に出ると、不思議そうに目を丸くして、平らな雪面を小さな手のひらでぺちぺちと叩いていた。

 母は当時から、少女を不思議に思う所があった。今のように、何かを不思議そうに見つめ、ぺたぺたと延々触っていることが多かったのだ。幼児なら誰でも持つ好奇心の現れにも思えたが、ふとした一瞬機械人形のように見えるそれが、そんな単純なものでないようにも感じていた。


 温度を感じない事が少女の行動の遠因になっているとは、当時の母には思いつきもしなかった。

 なぜならその不思議な行動を除けば、少女は至って普通な、母の事が大好きな女の子だったからだ。

 降り積もった雪と、それをたたき続ける少女を見て、母はかまくらを作る事を提案した。すると少女は飛び上がって喜び、長靴とお揃いの紫陽花色の毛糸の手袋を身につけた。

 父も参加して家族三人で作り上げたかまくらは、とても大きなものになった。三人が横になっても十分に余裕があって、風が当たらない内部はとても居心地が良かった。

 完成の証として、入り口に手形をつけた。父と母。それに挟まれるようにして、娘の小さな手。毛糸の手袋は溶けた雪を吸って冷たく重くなり、少女の手はすっかり赤くなっていた。父が心配して少女の手を包むと、案の定氷のように冷たくなっていた。

 それでも少女はまるで気にした様子もなく、父と母に負けないように深い跡を付けると、身長より大きなかまくらに目を輝かせて、白銀のドームの周りをぴょんぴょんと跳ね回った。その日はかまくらの中で食事を取り、今年の冬は何をしようかという話題でひとしきり盛り上がった。


 少女を取り巻く世界が変わったのは、その日の夜の事だった。

 ふと目を覚ました母が娘の様子を見に行くと、少女のベッドは空だった。不思議に思い、娘の名前を呼びながら家の中を探す。

 しかし、深夜の静まりかえった家から、少女の小さな姿が現れることはなかった。

 その頃には父も異変を察して起きあがり、二人で家中の灯りを付けて回った。しかし、少女はどこにもいない。途方にくれる両親の目に、家の明かりに照らされてうっすらと浮かび上がる、真っ白のかまくらが見えた。

 駆け上がる怖気のままに外に飛び出した二人は、十秒後に甲高い悲鳴を上げた。


 少女はかまくらの中で、息を潜めるように横になっていた。上着も着ることもせず、寝間着一枚きりで、身の切れるような寒さの中にいた。金色の髪や長い睫毛には霜が降り、目に見える肌は痛々しい青紫色に変色し、血の気がすっかり失せていた。

 そんな凍えきった状態で、ただ少女の青い眼は、大慌てで駆け寄る両親を、不思議な物を眺めるように見つめていた。痛いほどの寒さも、死の恐怖も、無邪気な瞳の中には、一欠片もないようだった。

 父は氷のように冷たい少女の身体を抱きかかえ、母は目に涙を溜めながら、大慌てで救急車を呼ぶ。

 ぐったりと垂れ下がる身体のまま、少女は不思議そうな眼で父を見つめ、平坦な声で言った。


「お父さん、どうしてかしら。不思議だわ。身体が全然言うことをきかないの。ほんとう、どうしちゃったのかしら」


 その後の医師の診断で、少女の全身は凍傷寸前であり、もう数分発見が遅れていたら、良くても手足の切断は免れなかったという。

 そうまでなった少女は、その後の医師の診察で理由を聞かれたとき、家族で作ったかまくらが好きで、そこで寝てみたかったのと、淡々と言ってみせた。

 少女が異端であることが、誰の目から見ても明らかに、ハッキリと理解された瞬間だった。



 あれから月日が流れ、少女は十二歳になる。

 母の羊水にいた頃から、少女は温かさも、冷たさも知らないでいる。

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