怒り

 帰宅しようとした私に、蜷川が声を掛けて止める。まさかとは思うが、一応尋ねてみた。


「もしかして、今日も?」

「当然だ。今日もしっかり録音させてもらう」


 何が嬉しいのか、微笑みながらレコーダーと台詞の書かれた紙束を机の上に出す。気のせいだろうか、いつもより紙の量が多い気がする。


「いや、今日はもう勘弁して。さすがに疲れたわ」

「ダメだ。条件を忘れたのか? 依頼を受ける代わりに、お前の声をもらうという」

「忘れてないわ。別にもうやらないと言っているわけじゃない……まあ、本当はやりたくないけど。でも、今日はもうそこまでの体力が残ってない」

「そんなもん、気合いで乗りきれ」


 なに体育会系みたいな事言ってるのよ。どう見ても文化系のナリをしているくせに。


「ごめん、本当に今日は勘弁して。色々あって疲れたのよ」


 嘘ではない。日々の聞き込み、そして声の録音。慣れない数々の行動にストレスが溜まり、身体も悲鳴をあげそうになっているのだ。


 だが、蜷川はそれを許さない。


「ダメだ。今日やらないと後悔することになるかもしれん」

「なんの後悔よ。明日やればいいだけじゃない」

「バカ野郎。今日と明日とじゃ質が違うかもしれないだろ。明日の方ができがいいならともかく、今日の方が上なら今日やらないと意味がないだろ」


 私に質とか求めないでよ。私は声優じゃないし、ただ声が似てるだけの一般人よ?


「祐一、今日は止めてあげたら? 私から見ても由衣ちゃん、疲れが溜まってるわ。休みにしたら?」

「ダメだ」


 蜷川に一蹴され、深い溜め息をつくと伊賀先輩はそれ以上何も言わなかった。


 伊賀先輩の要求も否定し、蜷川は頑なに録音させようとする。ここまでの熱意はさすがオタクとも言えるかもしれないが、ストレスが溜まった私には怒りの助長のなにものでもない。


 しかし、伊賀先輩も伊賀先輩だ。なぜそんな簡単に引き下がるのか。疲れていると言っている者に強制的にやらせようとしている。明らかに蜷川の言動は度が過ぎているのではないか? 先輩であり、幼馴染みの先輩がもっときつく注意するべきでは?


 考え始めるとイライラがどんどん募っていった。まだ始まったばかりとはいえ、犯人とされる人物の特定ができていない現状、そして蜷川によるストレス。それらが相乗効果を発揮しているかのように、私の怒りは増える一方だった。


 そしてついに……。


「さあ、今日はこの台詞を――」

「嫌よ」


 せっせと準備を始めた蜷川に私ははっきり言った。


「……何?」

「聞こえなかった? 嫌、と言ったのよ」


 完全なる拒否の声に一瞬、教室に静まり返る。空気がピリピリ張り詰めていくのが感じられ、視界の隅では驚く明里と、オロオロするりっちゃんが見えた。


「嫌だと? お前にそんなこと言える権限があると思ってるのか?」

「権限? たしかに依頼したのは私だけど、たかが部活動にそこまで従う必要ないんじゃない?」


 もう止まらない。普段溜まりに溜まった鬱憤をぶつけるように、私は次々と蜷川に言葉を発した。


「今までは我慢してたけど、これ以上はお断りよ。あんたの一つ一つのくだらなく細かい要求に心底ムカついてたわ。何が泣きそうな感じよ、跳び跳ねる子供のように、よ。もっとイメージしろ、この台詞は仲間のピンチを救うシーンだって? 知らないわよ、そんなこと。アニメなんて見たことないんだから。堀江由衣はもっと楽しそうな声を出している? 楽しいわけないでしょ、私はこの声が嫌いなんだから。その声を無理矢理出されて……私はもう限界よ!」


 大きく響かせるように私は言い放つ。蜷川はそれを黙って聞いていた。


「何かと言えば堀江由衣、堀江由衣……そんなに好きならその声優に会ってきたらどうなのよ。それで、その声優に頼んできなさいよ。録音させてほしい、って。何で私なのよ。似てるからなによ。私は堀田由衣! 堀江由衣じゃない!」


 興奮して喋ったことで、声は堀江由衣のものになっていただろう。余計にこの男を喜ばせることになったかもしれない。しかし、怒鳴らずにはいられなかった。声を抑えるよりも、気持ちをぶつける方が今の私には重要だったのだ。


「言いたいことはそれだけか?」


 しばらくして蜷川が私に聞く。言いたいことなどまだ腐るほどある。今のはホンの一部だが、少なからず吐き捨てたお陰で冷静さが備わり、いくらか落ち着くことができた。


 あれだけ怒りをぶつけたんだ。さすがにこの蜷川もいくらか反省、引き下がるだろう、と。しかし、次に発せられた蜷川の台詞に耳を疑った。


「は? 始める?」


 始めるって何をよ? まさか、また今から事件について話し合うのか?


「決まってるだろ。お前の声を録音するんだ。ほら、早くしろ」

「んなっ!」


 信じられなかった。あれだけ怒りながら主張したにも関わらず、蜷川は何もなかったかのようにレコーダーと台詞の紙束を掴んだ。


「……どういうこと?」

「どういうこと? お前の意見は聞いた。その後『言いたいことはそれだけか?』と尋ね、お前は何も言わなかった。つまり、すべて言い切ったということだろ? だったら始めよう」

「……っ!」


 治まりかけた怒りが再沸騰する。頭に血が登り、握りこぶしを作りながら歯を食い縛る。


 この男は本当に……本当に……! 


「よし、まずはどれからいくか……」

「……しろ」

「あっ? 何か言ったか?」

「いい加減に……しろ!」


 バシッ!


 差し出された台詞の紙束を手ではらった。ぶわっ、と空に広がり、ひらひらとゆっくりと床に落ちていく。


「あぁぁ! 大事な台詞が!」


 蜷川が慌てて床に伏せ、丁寧に紙を一枚一枚拾っていく。その上から私は再び思いをぶつける。


「嫌だと何度言えば分かるのよ! もううんざりよ! 声優など知るか! 声なんか知るか! そんな声のどこがいいのよ!」


 決壊したダムのように、勢いよく口から言葉の奔流が溢れ出す。


「一体声の何がいいのよ? 感情だの質だの、バカじゃないの? 声優なんかただ台本なり文字を読んでいるだけ。そんなもんに感情なんかあるものか。それっぽく声を出して、たまたま映像に当て嵌まって人気が出て、そういう運良く人気が出てきた人がそのまま続けているんでしょ? 宝くじと一緒ね。何人もいる中で当たりを引いた。所詮は運なんでしょ? 本気で声優をやってる人なんていない。声優なんか、?」


 すると、紙を回収していた蜷川の動きがピタッ、と止まった。まだ散らばっている台詞の紙があるが、それを拾おうとはせずゆっくりと立ち上がり、私に近付く。そして――。


「……てめぇ、今なんて言った?」


 ガシッ、と右手で私の襟元を掴む。低く籠ったような声で、そしてその表情は今までに見たことがない憤怒のものであった。


「ちょ、離して――」

「今なんて言ったかって聞いてんだよ!」


 今度は蜷川が吠えた。ぐいっ、と握る手にさらに力を込め、私の襟を締め付ける。


「由衣!」

「ちょっと祐一!」


 明里と伊賀先輩が仲裁に入ってきた。二人がかりでどうにか蜷川を引き離し、私との距離を取らせる。


「由衣、大丈夫?」

「けほっ、けほっ。へ、平気。ありがとう、明里」


 心配そうに声を掛けてきた明里に手を振って無事なことを伝える。首元の圧迫から解放され呼吸が整ってきたので、その原因を起こした本人へ目線を向けた。


「祐一、やりすぎよ。落ち着きなさい」

「落ち着いていられるか! こいつは……こいつは……!」

「分かってる。でも、違うよ。由衣ちゃんはそんなつもりじゃない」

「声優が……声優がお遊びだと? ふざけるな!」


 怒り狂った蜷川を伊賀先輩が必死に抑えている。先輩がいなければ殴りかかって来る勢いだ。


「声優を……声優を……!」

「祐一!」


 呼び掛けた後、パシーン、と伊賀先輩が蜷川に平手打ちを浴びせた。攻撃を受けた蜷川はそれでようやく動きが落ち着く。


「……くそぉ!」


 悔しさの一言を吐くと、蜷川は教室を出ていく。伊賀先輩はその後をずっと見ていた。


 はっ、ざまあみろ。伊賀先輩に殴られてやんの。


「ったく。これだからオタクは嫌なのよ」


 パシーン!


 教室にまた先程と同じ音が響いた。なんだ? と思ったが、私の左頬にヒリヒリと痛みが生じている。目の前には右手を振りきったような姿勢の伊賀先輩。そこでようやく、私が伊賀先輩に殴られたことを理解した。


「伊賀、先輩?」

「由衣ちゃん、あなた……

「えっ?」


 最低? 何を言うんだ。最低なのは蜷川の方ではないのか?


「あなたの一言が祐一を傷付けた」

「傷付けた? 何を言ってるんですか? 被害者は私の方じゃないですか?」

「……もういいわ。みんな帰りましょう。それから、明日から二日間捜査を中止にしましょ」


 捜査を中止?


「いや、待ってください。何でですか?」

「気持ちの整理が必要だからよ。明日では無理でしょうから、二日後にまた集まりましょ」

「気持ちの整理、って。蜷川の事ですか? もう要らないでしょ、あんなやつ。あとは私達で――」

「違うわ。祐一もそうだけど、気持ちの整理が欲しいのは私よ」

「伊賀先輩が?」

「悪いけど、今私は由衣ちゃに対して怒ってるのよ。この気持ちのままじゃ、あなたの依頼をこなせない」

「わ、私? 何で……」

「女の子に掴み掛かるなんて祐一も悪いかもしれないけど、はっきり言わせてもらえば、あなたの発言の方が許せない内容よ」

「何でですか? 私は何も悪くない!」

「あなたはそう思っているでしょうが、私もあなたを擁護できない。どちらかに付くなら、私は祐一の方に付かせてもらう」


 すると、自分も同じだというようにりっちゃんが伊賀先輩の元へ寄り添う。そして、彼女も私を睨んでいた。


「今日はもう帰りましょう。明日一日使えばお互い落ち着くだろうし、二日後にまた話し合いましょう」


 そう言って、伊賀先輩はりっちゃんを連れて教室を出ていった。


「な、何よ……私の何が悪いの?」


 私は途方に暮れ、教室で立ち尽くす。窓から差し込む夕焼けが、徐々に夜の暗さを帯びていく。明るい色から暗い色へ……それはまるで、わけが分からず混乱する今の私の心を表しているかのようだった。

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