第4話 猫なら
猫おじさんは胡坐をかいて本を読んでいました。太ももの上には、やはり猫がいます。私に気付いていないのか関心がないのか、顔をあげようとしません。私も腰を下ろしてから、何をするでもなく、髪や服から落ちる水滴が、ただただ石畳を濡らしていきました。そんなふうに時間は流れます。
私と猫おじさんは長方形の水盤を挟んでお互いに背を向けて座っていましたので、延々と沈黙が続きました。私は改めてお母さまの事を考えました。少々勉強が疎かになっていたのは認めます。その原因が読書であったことも認めます。それにしてもあんまりではありませんか。ほんの一時期の失敗で、人の私物を、大切な本を全て捨て去ってしまうなんて。何より許し難いのは、本を侮辱した事です。あの人は小説を侮辱しました。さらに、推理小説を侮辱しました。この世に推理小説以上の知的遊戯が存在しますでしょうか。下らない?下らないのはお母さまのほうです。あの人は小説を読んだことすらないのではと疑ってしまいます。むしろ、楽しむという概念を知らないのではないのでしょうか。いつもそうです。あの人は私に何もかもを押し付けてきました。「将来のため」が母の口癖です。母の描く将来とは、果たして何色の未来でしょうか。何もかもが合理化された、モノクロの人生。そんなのはロボットの人生です。
「……そう、言えたら良かったのに」
思考は急速に冷めていきます。
言わなければ、思っていないのと同じ。結局私はいつまでも主人に逆らえないロボット。
ぱたん。
雨が屋根を叩く音に紛れて、厚い本を勢いよく閉じる、微かな音が聞こえました。振り向くと、猫おじさんは立ち上がって私を見つめていました。
目が合います。
猫おじさんの顔をこんなに近くで見るのは初めてでした。お芋のように細長い顔。猫というよりは犬に近い、垂れた優しそうな目、そして丸眼鏡。長い髪は意外とさらさらしていました。全体として、刺々しさのない印象を受けました。
おもむろに猫おじさんが口を開きました。
「きみ……」
雨が鳴りやんだかのように、あたりは一瞬、静寂につつまれました。
「猫好き……?」
それからどれくらいか、雨音が二人を覆いました。私は質問の意味が分かりませんでした。
「まあ……好きです」
「そう」
軽くうなずいて、彼はまた胡坐をかきました。私に背を向けて。今度は私が立ち上がります。何が何だかよく分かりません。すると、猫おじさんに抱かれていた子猫が近寄ってきました。
小さな黒猫でした。満月のような瞳が、私を見つめます。
「きみ、本当に猫好き?」
背中を向けたまま、猫おじさんが言いました。黒猫が言ったような気もしました。
「実を言うと、犬の方が好きです」
私は猫を見つめながら言いました。黒猫はくるりと身を翻して猫おじさんの元に帰りました。
「そう」
「別に嫌いじゃないです」
「うん、大丈夫」
猫おじさんは純朴な青年のような透き通る声をしていました。後姿だけなら長髪の青年に見えなくもないと思いました。彼は和食料理人のような濃紺の浴衣を着ていました。
私が座ると、シーソーのようにまた猫おじさんが立ち上がりました。猫おじさんはやたらと大きい手提げを持って、手水舎の端にいきました。手提げはぱんぱんに膨らんでいて、私は少し中身が気になりました。帰るのだろうかと思って見ていたら、
「傘がないんでね」
と呟くように言って私の方に来ました。
「座っても?」
多少どぎまぎした私でしたが、猫おじさんが危ない人でない事は分かっていたので、こくりと頷きました。ゆっくりと腰を下ろす動作に、〝やっぱり、おじさんだ〟と思いました。猫おじさんは私の一メートル程横に座って、その間に手提げを置きました。黒猫がとことこ歩いて来て、猫おじさんの腰に倒れ込むように横になりました。
降りしきる雨。肌に纏わりつく不快感。車も通らないので、聞こえるのはもう雨音だけ。こんな天気では遊びまわる子供もいません。空の青さも奪われてしまいました。雨は嫌いだなと、私は思いました。
勇気を振り絞って、というのではありません。言った方が良い気がして、自然と言葉に出たのです。
「私はずっと母のいいなりでした」
落ちていた小石を弄びながら言いました。猫おじさんは外を見ていました。
「小さい頃はそれが当たり前だと思っていました。でも中学に入ってから自分の好きな事が見つかって、自分の居場所もできたと思ったのに、全て否定されました」
私の本は捨てられてしまいました。母がいつゴミ捨て場に行ったのかはわかりません。朝だとしたらもう手遅れですし、つい先ほど行って帰ってきたばかりだったとしても、この雨では本はボロボロでしょう。また別の本を借りたとしても、母のあの様子ではもはや家で読むことは叶いそうにありません。
黒猫がにゃあと鳴きました。近寄ってきたので首元を軽くなでてやるとごろんと寝転がりました。随分と人懐っこい猫です。
「私とっても嫌だったのに、反論したかったのに、何も言えませんでした。いえ反論しちゃいけないって刷り込まされていたんです。私は根っからの飼い犬だったんです。だって、もっと遠くへ逃げるつもりだったのに、こんなところまでしか走れませんでした」
雨に打たれる小路にさっきの小石を投げました。小石は雨に隠れてしまいました。
「犬の方が好き、って言ったね」
唐突に発せられたその声に、しかし驚きはしませんでした。無言でいると猫おじさんは続けました。
「それは、自分に似ているからかい」
意識したことはありませんでしたが、そうなのかもしれません。犬――飼い犬の従順な姿を私は無意識のうちに照らし合わせていたのかもしれません。そしてその自分の分身をめでる事で、自分を憐れんでいたのかもしれません。私は小さく笑いました。一四歳の少女には早すぎた仕草でした。
「飼い猫なら、自由だよ」
猫おじさんは言いました。
「猫は、言いなりじゃない。猫は、自由だ。外で好きな事をして、ごはんを食べに帰って来る。家でも好きな事をして、眠る。猫は、自由だ」
私は自分が猫になる所を想像してみました。
「なれたらいいですね」
黒猫は気の抜けたあくびをしました。
「でももう駄目なんです。手遅れです。私の本、全部捨てられちゃいました」
雨音が代わりになってくれている気がして、私はもう泣きませんでした。ただ、私の心は雨に流されたようにからっぽでした。
「あ」
猫おじさんが短く漏らしました。何かを思いついたように、地面をじっと見つめて何度も瞬きをしました。
「君、推理小説好き?」
「好き、ですけど……」
思いがけない問いだったので、多少困惑しました。
「僕もね、推理小説好きだよ。よく猫が出て来るから」
猫おじさんは大きな手提げの中をゴソゴソとさぐり、一冊の本を取り出しました。恐らく先ほど読んでいた本です。猫おじさんはゆっくりと私に差し出しました。
〝完全犯罪に猫は何匹必要か/東川篤哉〟
「これって……」
「ゴミ捨て場を通りかかった時、この本が目について全部拾ってきたんだ」
猫おじさんは手提げの口を開きました。私は鼓動が高まり、体が熱くなるのを感じました。
猫おじさんは初めて笑顔をみせました。
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