第3話 遠くへは行けない

 中学二年の夏。


「花村さん」

呼ばれて私は振り返りました。声の主は工藤さんです。読書という共通趣味を通じて仲良くなった彼女は、中学で初めての友達でした。

「貸した本読んだ?アガサ・クリスティー」

私と対照的に明るく活発な彼女は、意外なことに推理小説が大好きでした。後にも先にも彼女を超える推理小説狂ミステリマニアに出会ったことは無いぐらいです。私はといえば、工藤さんの好みの、おどろおどろしい事件を扱ったものや、恐怖や狂気といったものを楽しむ類のミステリはあまり受け付けませんでしたが、海外の名作――所謂〝古典ミステリ〟やユーモラスな作品なんかは好んで読みました。

「ごめんなさい、テストが重なっていたからまだ読めてないの」

工藤さんはよく本を貸してくれました。いつも「これ貸すから読んでみて」と唐突に渡されるのですが、自分の趣味を押し付けている訳では無く、相手の好みや長さを考慮に入れ、これなら気に入るだろうという一冊を貸してくれました。いうなれば小説ソムリエです。

「そうだよねー、ごめんごめん。また時間がある時に読んで。ほんとに面白いよ、なんたって歴史を変えた一冊なんだから」

 この時借りていた本は、クリスティーの「アクロイド殺し」でした。工藤さん曰く〝クリスティー屈指の名作で、世界最初の叙述トリックで、大論争を巻き起こして、歴史を変えた!〟そうです。

 彼女が言うならそうなのでしょう。

 早いうちに読む、いや今日中に読むよ。そういって手を振り、私は教室を出ました。

 真っ青な空の下、坂道を歩いていきます。日差しは強いけれど、空気はからっとしていました。時折吹く風にふわりと髪が揺れます。

 最近は毎日が楽しいです。本に囲まれる生活。友達もできたし、図書室という居場所も出来ました。司書の先生とも仲良しです。家に帰れば田辺さんと本のお話ができます。お母さまも最近煩い事を言わなくなりました。この一ヶ月で読んだ本は一体何冊でしょう。学校のお勉強は多少おろそかになってしまいましたが、微塵の後悔も感じていません。小説の数は世界の数です。読んだ本の数だけ世界が増えるのです。

 工藤さんに借りた本を読めていないのは単純に他の本に浮気してしまったからでした。私に嘘を吐かせたのは、やはり小さな罪悪感だったので、家についたら真っ先にアクロイド殺しを開けようと決めました。

 しばらく電車に揺られてから、最寄りの駅に着きます。

 この辺りは静かな場所です。家までの道のりにあるのは、民家の他に郵便局、油絵教室、小さな工場――というより工房、そしてあの神社ぐらいです。彩も刺激もない平凡な道でしたがここを歩くと何となく落ち着きます。

 神社の手水舎に、今日も猫おじさんはいました。あぐらをかいた両膝の上に黒猫と三毛猫を載せて、やはり本を読んでいます。穏やかな顔のまま猫の首をなでると、猫はふぬけた顔で鳴きました。

 漫然と、今日は良い日だと思いました。

 

「あれ」

 ありません、アクロイド殺しがありません、ブラウン神父がありません、乱れからくりがありません、向日葵の咲かない夏がありません、皇帝のかぎ煙草入れがありません。

 今朝部屋を出る間際、机の上に並べられた数冊の本を、その一番端にあったアクロイド殺しを、確かにこの目で見たはずでした。しかしながら、それらは全く見当たりません。本棚にあった本もなくなっています。ベッドの下にも引き出しの中にもありません。リビングやキッチンも見ましたが、やはりありません。家はいつも田辺さんが綺麗に整頓していましたのでどこかに紛れ込んでいるはずもありません。

 私の本が、消えました。

 その時、私は初めて気が付きました。机の上に、本の代わりに残されていたものを。

 それは、なんのことはない、積み上げられた紙の束でした。しかし私にはそれが、全く違った意味合いを持って目に映るのでした。

「ただいま」

 お母さまの声です。珍しく、伸びた声でした。上機嫌な、声でした。

 最悪の光景が頭をよぎりました。

 走って、階段を駆け下りて、言いました。

「お母さん!私の、私の本は――」

「捨てましたよ」

 落ち着いた、しかし加虐的サディスティックな含みを持った言い方でした。

「どうして……なんで捨てたんですか⁉私のものだって分かっているのに」

「だって――」

 最近貴方全然勉強していないじゃない

 勝ち誇ったような表情。

「鞄の中を探ってみたらたくさん出てきましたよ、小テストの解答用紙が。なんですかあの点数は。中学に入学する時、私言いましたよね。多少自由な時間は与えますが勉強をなおざりにするのは許さないって」

 しまった、と私は思いました。最近お母さまが私のやる事に口出ししてこなかったのは、この時を待ち構えていたからです。私の失敗をどんどん積み上げて、私に口答えできなくさせるだめだったのです。私の読書を、粉々にするためだったのです。

「それは、数学が特別難しくて……」

「嘘おっしゃい。下らない小説ばかり読んで全然勉強に身が入っていないじゃないの。だからね、捨てたんです。雑多なものを取り除いて、集中できるように。少しは身に染みたでしょう」

「くだらない……って」

「ええ下らないですよ。幻想に浸っても何も得られはしません。特に、あの推理小説。何なのですかあの数は。いもしない探偵が出鱈目な仕掛けを解くだけの、人殺しを楽しむ小説ですよあんなもの。高尚な芸術作品ならともかく、あんな低俗な娯楽に割くべき時間など、貴方にはありません」

「……友達に借りた本もあったのに。それに図書室の本も──」

「あらそれは気がつかなかったわ。でも、本の一冊や二冊どうとでもなるでしょう。学校には私から直接説明しても良いのですよ。お友達にもね、教えてあげなさい──」


〝あんなものは時間の無駄だって〟


 静寂。

 言葉の銃撃は鳴りやみ、お母さまはやっと靴を脱いで廊下を歩いて行きました。

 しばらく茫然としていた私。氷が解けるように、強張った足が自由になっていきました。涙が溢れるところもまた、氷が解けているようでした。

 

 家を飛び出しました。遠くへ行こう、ただそれだけが頭の中を支配していました。突き動かされるように脚が前へ前へと進もうとします。視界を通り過ぎて行く景色。目の前の景色が変化していくこと自体に安堵がありました。けれども普段走り慣れていない中学二年生が制服のまま、しかも革靴で全力疾走することは容易ではなく、砂利の多い道に入ってすぐに、私は転んでしまいました。

 声を挙げる間もなく地面に倒れ込みます。たくさんの砂利が音を立てます。ゆっくりと立ち上がるとブラウスが汚れているのが分かりました。ひざと掌の皮を擦り剝いていましたが痛みは感じません。全身が熱いのです。制服についた土を掃う手に、冷たいものが当たりました。雨です。泣きっ面に蜂というのでしょうか、少し前までにはあんなに良い天気だったのに、一瞬でこの激しい雨――夕立。つられるようにして私はまた泣きました。

 冷たさと、服が肌につく不快感から、少しだけ冷静になって辺りを見渡すと、そこは家から駅までの道でした。一心不乱にずっと走っていたと思ったのに、家からの距離はせいぜい五百メートルでした。

〝私は遠くまで走ることすらできない〟

 とぼとぼと歩きだしました。母を恨めしく思いました。私を雁字搦めにする母。どうして、どうして。歩く方向を気にしていませんでしたが、気が付けば神社のすぐそばでした。ひとまず雨をしのごう、そう思って手水舎に向かうと、

 猫おじさんが座っていました。

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