第2話 神社の猫おじさん

 通学路のお話をしましょう。

 私立A学園は私の住むS市ではなく、その北側に接するT市に建っていました。市をまたぐわけですから、当然何らかの交通手段が必要なのですが、生徒の多数にもれず私は電車通学でした。お菓子の瓶詰のように人で溢れた電車は、ガタゴトガタゴト毎日揺れました。最初の頃はあまりの窮屈さや唐突に大きく揺れる車体に戸惑ったものでしたが、やはりすぐに慣れるもので、むしろ通学電車の中は私にとって大変興味深いものへと変わっていきました。車内で周囲を見渡せば様々な人間が様々な事をやっております。談笑する高校生、無表情に携帯電話をいじくる背広姿、穏やかに朝の会話を楽しむ老夫婦などなど、「外」に触れてこなかった私にとって、電車内というのは素敵な「外」を覗き見る小窓のようでもありました。

 学園前駅で降りると、長い坂道を歩くことになります。私も、私の友人も「学園前」という駅名は不適切であると冗談交じりの愚痴を零しました。しかしながら、アーチを作るように道の両側に植えられた桜やケヤキや銀杏――その他にもたくさんの木々が植えられていましたが、それらの眺め、香り、風に葉が揺れる音に、私はいつも心の奥の花瓶が綺麗な水で満たされていくような気分になったのでした。冒険のよう、と言えば大袈裟ですが、少なくとも入学当初通学路は私にとってそれに似た意味合いを持っていました。

 さて、通学路を語る上でどうしてもはずせないもの、いえ〝人〟がおります。

 私の家と最寄り駅とを結ぶ道に、古い神社がありました。神社にはよく猫が集まっておりました。私は特段そうではないのですが、この年頃の友人は――幸いなことに中学では仲の良い友人ができたのです――猫を見ると皆一様に「可愛い可愛い」と言ったもので、彼女らを神社に連れて行くと喜ばれたものでした。後で知ったことですが、京都祇園祭の八坂神社を総本社とする神社の一つだそうです。もっとも、祭られた神様が素戔嗚尊スサノオノミコトであろうとなかろうと、幼い私には関心の外ではありましたが。そしてその関心は──

 猫おじさんに向けられていました。

 最初に彼を見たのは中学最初の夏だったでしょうか。その日私は少し急ぎ足で駅へと向かっていました。朝から日差しが強い。昨日の数学の授業は難しかった。いま読んでいる小説の続きはどうなるのだろう。きっとそんなことを考えていたのでしょう。神社の横を通るとき、その姿を見かけましたがとりたてて気とめませんでした。

 ただ、彼は下校時にもいました。

「手水舎」というのだそうです。屋根のついた、参拝者が柄杓で水をすくい手を清めるあの小さな空間。通常の神社がどうなっているかは存じませんが、その手水舎は鳥居の外、本殿から離れた位置に建っていて、駅に続く小路に面していました。

さてその手水屋に、石畳の上にあぐらを掻いて、お腹に猫を抱きながら、本を読んでいるおじさんがいます。髪は女性のように肩まで伸びて、細い顔に丸眼鏡。何故だか着物をきています。具体的な年齢は分かりませんでしたが、なんとなく感じがしましたので、〝おじさん〟であるとみなしていました。

猫おじさんは週に三、四日ほどのペースで現れました。「いる日」ならば、猫おじさんは朝早くから居座っていました。私が神社を通り過ぎるのが大抵七時過ぎでしたので、彼はそれより早くから来ていたことになります。冷え込む冬の朝晩は、流石にあまり見かけませんでしたが、ある雪の日に彼が猫と戯れていたことなど、記憶に鮮明に残っております。    

 猫おじさんが猫おじさんたる所以は、単純に猫です。彼の周りにはいつも猫がいました。三、四匹あるいはそれ以上が、猫おじさんの腕の中や膝の上など、とにかくひっついているのです。優しい顔で猫を撫でながら、大抵猫おじさんは本を読んでいました。

 猫おじさんは所謂不審者の類ではありませんでした。神主さんが猫おじさんと談笑しているところを何度か見かけましたし、近隣の方々とも笑顔で挨拶を交わしていました。何より彼が手水舎でくつろいでいる姿は、とても自然だったのです。特別に意識しない限り、その光景に違和感というものはございませんでした。和装のおじさんが神社で猫を撫でている。なんとも趣のある景色ではありませんか。それが特異な光景であることは、意識して初めて気づくのです。

 しかしながら、当時は彼の素性は全く知れませんでした。年齢不詳、本名不詳、住所不詳。神社以外で猫おじさんを見かけることはただの一度もありませんでした。もっとも私が彼を見かけるのは基本的に登校時と下校時だけだったので、彼が昼間何をしているかは与り知らぬことでしたが、それにしても謎のような人です。

「――そのおじさんはいつも猫と戯れているんです」

 一度、田辺さんに猫おじさんの話をしたことがありました。

「危ない人ではないんです。神主さんと楽しそうに喋っていましたし」

「猫と戯れる……猫おじさんですか。変わった人がいるんですねえ」

 猫おじさん。命名は田辺さんでした。

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