Epilogue
We're All Alone
数週間ぶりの街の空気は、心なしか冷たい。気温はじわりじわりと上がってきていて、そろそろマフラーもいらなくなるだろうという時期に入っている。
ファントマイルは、何一つ変わらない佇まいで今日も営業している。
「いらっしゃいませー……って、マナちゃんか」
出迎えてくれたのは、ジュリアだった。
最後に来店してから――つまりノラと一緒に帰っていったあの日から――数週間経っていた。
ふりふりした服装はそのままだが、前とは色合いが変わりつつある。黒い服ばかり着ていた彼女の影響だろうか。
「どうしたの、それ」
左目をちょいちょいと指差して訊かれる。それも当然だ、眼帯をしているのだから。四角い白のガーゼのようなあれ。なぜか中学生辺りが憧れるやつ。
「ああ、寝ぼけてタンスにぶつかって……大した事ないですよ」
と、流れるように嘘をついた。
本当は違う。兄さんが出ていったあの夜、しこたま殴られて、死にかけた夜。私は兄さんの血を舐めたことで、辛うじて生命力を分け与えられ、生き延びることが出来た。
とはいえ、ごく微量であったから、回復には少し時間がかかった。一度屋敷に戻り、一週間ほどは満足に動けなかった。
今ではもうどこも痛くはないのだが、左目だけは完治しなかった。
キャリーケースでぶん殴られたのだから、かすり傷では済まなかったが、治せないわけじゃない。一族の血の力は強大だ。
ただ、何となく「全部治してしまってはいけない」と、ベッドの中でそう考える日が続いていた。
結果、左目だけは充血が引かず、視界もぼやけて見えるようになってしまった。だが、私はそれで良かったとすら思っている。ひとまずは眼帯をしておいて、経過を見守ろう、と父は言っていた。
改めてこの街に来て、私はまず兄さんの部屋へ向かった。ぐちゃぐちゃになっていた部屋は元通りになっていて、本もテレビも冷蔵庫も、変わらずそこにあった。
しかし、そこに兄さんはいない。ファントマイルもまた、まるで最初から彼がいなかったかのように、ごくごく自然に回っている。
「ご注文は?」
オーダーを伺いにきたジュリアの手を、反射的に掴んでしまう。彼は一瞬、身体を硬直させた。
「あの、兄さんは――」
言いかけたところで、彼は口元に人差し指を立てた。しーっ。眠りかけた赤子の傍らにいる母親のように。
「いない者の話は出来ないよ」
それはつまり、未だファントマイルには帰ってきていない、ということだ。やはり、もうこの街からは去ってしまったのか。そうなると、とんだ無駄足ということになる。
荷物に手を伸ばし、立ち上がろうとした。彼らには悪いが、私は一刻も早く兄さんに会いたい。
そこへ、店長がお皿を持って立ちふさがる。
「お客様、とある方からの贈り物でございます」
テーブルに、それが置かれる。二つのおにぎり。忘れもしない、裏メニュー「店長特製・唐揚げおにぎり」。
「あの、とある方って言うのは」
それに対して、店長もまた、人差し指を立てる。
これは、兄さんの残した置き土産なのだろうか。それとも、気を遣って嘘をついてくれたのだろうか。私には分からない。
分からないが、でも正直、嬉しかった。
「いつでも、お待ちしておりますよ。貴方も、貴方のお兄さんも」
店長の言葉に、私は大きな大きなひとくちで応えた。口の中で唐揚げとお米が絶妙なハーモニーを奏でて、数週間ぶりのおにぎりに、思わず涙が出そうになった。
屋敷で何度か挑戦したのだけれど、やはり本家の味には到底叶わない。
「ありがとうございます、二人とも」
真実を知れば、彼らもこんなに優しく接してはくれないだろう。
でも私はいま、ひどく寂しい。誰でも良い、側にいてほしい。そんな気持ちでいっぱいなのだ。
ごめんなさい、ノラ。ごめんなさい、兄さん。
私はまた嘘を身にまとって、この街にやって来てしまった。
もしも、もう一度出会えるのなら。
その時は、私も。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます