V.

 彼女もちょうど通話を終えたようだった。駆け寄ってくるなり、目元に涙を浮かべたまま、


「言いたいこと、全部言えました」


 と言った。悲痛な目の色と、後悔の見えない肩が、彼女の苦しみをよく表している。


「最後の方は、『ありがとう』と『ごめんなさい』しか……」


 ぐっと目を閉じ、その場にうずくまる。その肩をゆっくりと叩きながら、


「そう」


 とだけ、返した。

 それ以上は何も言いようがない――彼女もまた、こういう気持ちでいっぱいだったのだろう。何を言えばいいのか、分からない。

 ノラは恐らく、ありふれた一人の女性に過ぎなかった。

 臆病なだけの、僕らと変わらない人間だった。



 フェンスを乗り越え、続いて降りてくる彼女を受け止める。屋上の縁は、靴を縦に二足分並べられるかどうか、という程に細い。

 小刻みに震える彼女の手を、そっと握る。大丈夫、と声をかける。



 たった一晩で、彼女は見つかった。「自殺志願者」。探せば案外すぐに見つかるものだ。

 問題は、一人で死ぬ勇気がない事にある。殺意と違って、自殺には未来なんてない。

 盲目的な衝動というよりも、閉鎖的な衝動がなければ踏み出せない。これしかないんだ、と他の選択肢を全て否定するだけの覚悟がいる。



 だから僕は、彼女にこう提案した。


「僕と一緒に死のう」


 二人で飛んで、二人で死のう。そう言うと、彼女はようやく決心がついた。

 その際、僕は思わず彼女を「ノラ」と呼んでしまった。当然、彼女はノラではなく、違う名前を持っている。

 しかし、野良猫みたいで可愛い、というよく分からない理由で気に入ってくれて、僕は随分救われた。



 僕は、ノラとともに飛べる。ノラとともに死ねる。それが何よりも嬉しい。

 それでもやはり、見下ろした風景に足がすくむのは仕方のないことだ。彼女も、この景色に恐怖を感じただろうか。それとも、あっさりと踏み出してしまっただろうか。

 こういう時、もしもノラが本当に隣にいたら、僕は何をしてあげようと思うだろう。



 ぴゅう、と口笛を吹く。洋楽だと知らないかもしれないから、ぱっと頭に浮かんだ邦楽を口ずさむ。

 彼女はその旋律を頭の中でなぞり、やがて何の曲か気づいたのだろう。歌詞を添えて歌い始めた。ひたすらに暗い曲のはずなのに、お互い、笑顔に変わった。



 ノラはかつて、この歌、ポルノグラフィティの『シスター』に出て来る白い花を、レウィシアだと言った。

 それを波に預けて、「熱い想い」を届けるのだと。

 でも、貴方は当然知っているはずだ。

 レウィシアは雨に弱い。梅雨になるとたちまち枯れてしまうんだ。

 数え切れない涙で、海は今日も青に染まる。なら、そこへこの気持ちを預けても、すぐに枯れ果て、決して届かない。


 

 ノラ、貴方は僕に、これまでの事を全て忘れろと言うのか。



「永遠に寄り添って、僕達は生きていく」


 最後の一節を歌い終えて、しばし、沈黙が生まれる。


「大丈夫、会えるよ」


 それは、目の前のノラへ、そして本当のノラへの答えであった。

 彼女が笑う。僕も笑う。手を取り、そっと抱きしめあって、生と死の縁から、身を投げる。ふわり、と一瞬、僕は天使になったのかと錯覚した。



 手紙の続きが、ふと思い浮かぶ。彼女が遺した、最初で最後の悲鳴が、頭の中で鳴り響く。

 僅かに白く染まった地面が、冷たく無慈悲な大地が、もう目前に迫っている。

 今、まさに、僕は彼女と共に――。

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