III.

  その腕は棒切れのように頼りなく、最後の一葉を残した枯れ木のように僕を惹き込む。

 その脚は歩く以上の機能を備えていないように見え、座して折りたたんだ様こそ相応しい、と思わせる。



 彼女はあまりに多くのものを持っていなかった。失っていったのか、手にすること無く今に至ったのか、それは定かではない。他の雑多な人間に比べ、満たされる事なく、萎れていくばかりの喉元に、僕は恋をした。



 病的な顔色と、沈みきった目の形が特徴的で、恐らく健康的な日々を過ごしていたならば、きっと誰もが振り返るほどの美人に成り得ただろう。

 でも、それはただの想像、いや客観的な意見であって、僕個人の感性とは異なる。

 とびきり渇いているからこそ、彼女を美しいのだと思う。



 彼女が、もしも普通の生活を過ごしていたら。

 あの店に来ていなかったら。

 僕はきっと、こうはならなかった。



「遥か彼方から、遥か彼方から……」


 静かに雪の降り出した空模様を見ながら、ジョーン・バエズの『500 Miles』が頭に浮かぶ。


「決して誰も、故郷に帰れない」


 それはまさしく、始まりの日から七日ほど経た今の僕には、ぴったりの歌詞だった。


「決して誰も、『昨日』には戻れない」


 それはまさしく、今の僕が叫ぶ悲鳴そのものだった。


「私は戻りたい。あの日に、戻りたい……」


 七日目の僕は、あのマンションの下に立っていた。



「あの……」


 肩に白い綿のようなものをのっけた少女が、僕に声をかける。ああ、雪だな、とそれを払ってあげると、照れくさそうに目を伏せられた。


「ごめんね、少しだけ寄り道をしたいんだ」


 彼女の手を引いて、僕は中へと引き連れる。たった一度目にしただけなのに、その番号は我が家の郵便番号や携帯番号よりもくっきりと、この脳に焼き付いている。

 エントランスへの扉が開かれ、彼女の腕を優しく引っ張る。


「おいで、



 彼女の部屋は、父の手回しがあったとおり、誰も入っていなかった。立入禁止キープアウトのテープだけが、申し訳程度に貼られているだけだ。



 ちょい、とそれをくぐり抜け、二日ぶりの部屋を目の当たりにする。本棚には、これまでに彼女が持ち込んでいたものも収まっている。



 ある青年が、身に覚えのない罪により拘束され、明らかに怪しい法廷へと連れて行かれる。そして一切の事情を知ることのないままに裁かれる――カフカの『審判』。



 目を覚ますと、そこは地下牢だった。隣の独房からは、しきりに自分を呼ぶ女の声がする。聴取にやってきた刑事に真相を問いただし、明かされていく自身と世界の狂気――夢野久作の『ドグラ・マグラ』。



 未来ある青年が、薬物によって堕落と醜態へと堕ちていく――太宰治の『人間失格』。



 そして、死の結末から唯一開放されている、これまでと毛色の異なる作品――よしもとばななの『TUGUMI』。



 手に取れば、もしかしたら彼女の温もりがまだ感じられるかもしれない。しかし、そうはしなかった。

 この部屋に、彼女の香りなど残されていないし、また彼女の体温もとうに失われている。



 それに今、僕の隣にはちゃんと「ノラ」がいる。

 部屋を眺め、小さく笑う僕に、彼女は何も言わない。変な人、と思ったかもしれないけれど、別にどうだっていい。所詮、誰だってそれぞれに変な部分を抱いているものだ。


「おまたせ。さあ、登ろう」

 


 屋上の扉を開けると、思ったほど風は吹いていなかった。少し肌寒い程度で、今日は天候に恵まれている。



 これが雨でなくてよかった、と心から思う。雨に濡らされていくのは、誰だって嬉しくはないだろうから。不思議なもので、雪だって似たようなものなのに、そちらは幻想的で美しいものだと認識している人が殆どなのだ。


「あの、ウルさん」


 彼女は携帯を両手に抱きしめたまま、申し訳なさそうに目をそらす。


「最後に、電話したい人がいるんです」


 僕は彼女の内情を知らない。知る必要はなかったし、訊くこともしなかった。

 だからそれがどんな意味を含んでいるか分かり得ない。だから僕も、


「気にしないで。僕もそのつもりだったから」


 同じように携帯を取り出し、お互いに反対方向のフェンスへと歩き出す。時刻は八時少し前。



 二回ほどのコールで、いつも通り彼は電話に出た。はじめは彼からかかってくるばかりだったのに、いつの間にやら僕からかける方が多くなりつつある。あんなに長電話を嫌っていたというのに。


「父さん、言い忘れていたことがありました」

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