II.

「ウル」


 誰かの声で目を覚ます。アラームを設定しないまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 身体を起こすと、目の前にはジュリアが座っていた。まだ八時にもなっていない。


「珍しいね、こんなに早く着くなんて」


 遅刻ギリギリでやって来る彼が、開店より遥か早く到着するなんて、それだけでただ事じゃないと分かる。それに僕は、なぜ彼がこんな時間に起きられたのか――はたまた眠れなかったのか――をとっくに察知していた。


「まだ、渡していないものがあるよね」


 手を差し伸べて、彼の懐に目をやる。テーブルには、昨日もらった手紙が封筒ごと置いてある。彼の覚悟を尊重し、あの時は追求しなかった。

 しかし、あまりに見え透いた嘘であるのは、彼だって分かりきっていた事だろう。


「ウル……俺は、俺はな」


「いいよ、分かっているから」


「分かってねえよ、何も」


「どちらにせよ、君はそれを渡さなきゃいけないんだ」


 彼は震える腕を必死に押さえつけながら、四つ折りになった紙を差し出した。

 封筒を手に取り、二つ折りの便箋とくっつける。昨日の手紙の下辺と、この切れ端の上辺がぴったり当てはまり、これが本来三つ折りであった事が明らかとなる。



 一般的な封筒なのだから、横幅はかなり小さい。大抵の紙は三つ折りにしないとすっぽり入らない。手紙を開いた時、縦がひどく寸詰まりだったから、何かしら手が加えられているのであろうことは明白だった。



 それに、便箋には罫線が引いてある。彼が手紙の後半を切り取った際、その線を綺麗に分けられていなかったのだ。昨日の手紙の右端に、微かに罫線の一端が残っている。


「ジュリアは相変わらず不器用だね。そんなんじゃ、ラテアートも上手くなれないよ」


 下を向くジュリアを見て、それ以上は言わず、手紙の続きに目を通した。



 前半部分に対して、後半は短い文章の羅列、という印象だった。すぐに読み終えてしまった。そしてその内容は、何となく予想していたものと殆ど変わりなかった。

 しかし、変わりなかったからこそ、僕の中でぼんやりと浮かんでいた感情が、より鮮明なものへと輝き出す。


「お前を止めたかったんだ」


 顔を伏せたまま、彼はぽつりと呟いた。灰皿をそっと彼の手元へ寄せてやったが、彼は微かに首を振って拒絶した。


「本当にいくのか」


「さあ、どうだろうね。ただ、お店はしばらく休ませてもらうよ」


「なあ、ウル」


 彼はソファに腰掛けた僕の胸元に、勢い良く体当たりをかましてきた。いや、思わず飛び込んでしまった、と言うべきか。

 僕の身体をきつく抱きしめて、それはもう息も苦しいくらいの強さで巻き付いてきて、そういえば彼は、体付きだけはしっかりしているのだった、と今更実感する。


「いかないでくれ……」


 それは、誰としての言葉なのだろう。同じ従業員の好として? 友人として? それとも。

 彼の顔はよく見えない。泣いているのか、怒っているのか。

 ノラ以上に感情豊かな人間なのに、こういう時に限って真意が見えづらい。だから人間というものが、愛おしくも哀しい。


「ジュリア、僕はね」


 彼の短く揃った髪を撫でる。何となく、その温もりを味わいたくなった。

 気の抜けた優男なのに、気合を入れて短髪にしてきたあの日を思い出す。結局彼は、ずっとこの髪の長さで働き続けている。何だかんだ言って、この空間が好きなのかもしれない。


「当分、死なないよ。ある意味では残念でならないけど」


「嫌だ、ウル、行くな」


「行くよ。そろそろ時間だ」


 彼を押しのけ、立ち上がる。シャツにサスペンダーを通し、ベストとコートを羽織る。ワトソン君、と声をかけられそうな、ちょっと古風な装い。

 彼ももう引き止めはしない。椅子にうなだれて、僕の名前を繰り返し呟いている。

 このまま出ていったほうが、お互いのためだと思う。

 けれど、僕はやっぱり彼のことが嫌いじゃないし、数少ない――今ではもう、唯一の友人だと思っている。だから、


「そこの煙草、一本だけ残っちゃったんだ。良ければ、ジュリアに使ってほしい」


 テーブルの上を指差す。赤と黒の上品なパッケージ。一晩、吸い続けたジャルム。線香と彼女の香り。


「それじゃあね、ジュリア」


 背を向けて、扉に手をかける。その背中に向けて、


「またな、ウル」


 彼が返事をする。彼の前では、どうしても嘘がつけない。けれど僕は、小さくそれに頷いて、日常ファントマイルを後にした。

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