Chapter 7: Sister

I.

 喫茶店に戻り、裏口に手をかけた。鍵はかかっていない。音を立てないよう、そっと開ける。

 バックヤードに顔を覗かせ、ジュリアがまだ残っているのであろうことを確認する。が、誰もいなかった。

 コンビニにでも行っているのか、かけ忘れて帰ってしまったのか――もしくは、僕が来ることを予見していたのか。



 どれにせよ有り難い。ソファに腰掛けて、冷え切った革を撫でる。そこに、彼女の温もりはもう残っていない。

 テーブルの上には、見慣れた箱が置いてある。赤と黒の上品なデザイン。他のものよりも大きくて、平べったい形をしている。

 ジャルム・スーパー16。封が切られているから、ノラの忘れ物なのかもしれない。それはたまたまだろうか、意図的なものだろうか。



 喫煙可能な喫茶店ならよくある話だが、ファントマイルにはお店のロゴが入ったライターを常備してある。お客さんが火を忘れてしまっても、いつでも貸し出せるように。

 そのうちの一つを引っ張り出し、ジャルムに火を点ける。

 フィルターは、シロップが塗ってあるのかと思うほどに甘い味付けがされている。

 煙を吸い込み、そして吐き出す。吐き出すと言うよりは、奇妙な香りに咳き込む、と言う方が適切だが。



 ふわり、と空間に灰色の吐息が浮かび上がる。上下左右、生き生きとそれらは踊りだし、やがてすうっと消えていく。

 僅かに漂う残り香を嗅いで、出会った日のことを思い出す。薬品のような香り。でも少し違う。どこかで似たような香りを嗅いだことがある。

 ずっと思い出せずにいるけれど、何だっただろうか――。



 三本目を吸い終えて、灰皿に押し込んだ瞬間。僕はようやく思い出した。

「線香か……」

 死者に送る、何とも表現しがたいあの匂い。あれによく似ている。人によっては、「祖父母の家の香り」と表現するかもしれない。あれによく似ているのだ。



 彼女は、ここまで予期して、この銘柄を選んだのか。恐らく違うだろうけれど、その偶然を幸運に思う。

 吸うたび、彼女を思い出せる。吐き出すたび、その香りが彼女の弔いになる。

 目を閉じ、二人を結ぶその奇妙な煙を味わいながら、六日目の陽が落ちていく。携帯に着信が来たのは、もうすっかり暗くなってからだった。



「ウル、手はずは整った」


 父の声は、いつもと殆ど変わらなかった。本当はあらん限りの罵倒をしたがっているかもしれない。もしくは泣き叫び慰めの言葉をかけたいのかもしれない。それでも彼は、何も変わらず、僕を支えてくれている。


「要望どおり、明日の朝、八時頃には入り口を開放する。指定された部屋と、屋上への階段のみ入ることが出来る」


「ありがとうございます」


「とは言え、悪気はないんだが、急な話だったのでな。自由に出来るのは一時間から長くとも二時間程度だ。退出時間になれば、こちらの者が迎えに行く」


 父に頼んだ事は、とても単純で、かつかなりの無理難題だった。



 一つ目に、ノラの投身自殺により、報道陣がやって来る場合、それを追い払うこと。

 二つ目に、捜査や現場検証のために彼女の部屋や屋上への階段が封鎖されている場合、それを開放すること。

 三つ目に、これらの事を明日の早朝に行ってほしいということ。

 


 一言でまとめるなら、「彼女の足跡を追えるよう、根回しをしてくれ」という事だ。

 警察だとかマスコミだとか、どういう立場のものがあの事件現場に集うかは知らないが、僕の意図は伝わっているだろう。



 つくづく、一族のコネクションは強大だ。長命という特徴が、それほどまでに権力に直結するのだろうか。それとも、円滑に生きながらえるよう、程よく「不老不死」という単語を使って誘惑しているのか。



 もしそうならば、例えばどこかのお偉いさんは、僕らに口利きをしてくれる見返りとして、一族の血肉を食べるようなことをしているのだろうか。

 同じ人間の肉を喰らってまで、死にたくないのだろうか。

 僕には、今ひとつその感情が理解できない。

 何にせよ、これで最大の障害は突破できる。あとは――。


「何から何まで、ありがとうございます」


「ウル、ひとつだけ言わせてくれ」


 少しくぐもった声で、父はそっと息を吐いた。


「何です」


 少しの沈黙の後、彼は、


「……お前の顔が見たい」


 ようやく、本音を漏らした。

 帰ってこいと、まだ間に合うと、手を差し伸べた。

 僕は、彼の老練とした顔つきを思い出す。大きな背中を思い出す。ごつごつとしていて、すっぽり包み込まれそうな掌を思い出す。その掌を、僕は、


「里帰りは、もう少し先にさせてください」


 優しく、振りほどいた。

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