VI.

 愚かな事だ。実に不愉快だ。彼女は今になって尚、僕に牙を向かない。僕に殺されるなら本望、とでも言いたいのか。理解が出来ない。

 実に身勝手で、自己中心的で、独りよがりな思考回路だ。



 でもそれは、はじめから分かっていたことじゃないか。

 彼女はそういう性格で、僕はそんな彼女のことをまるで理解できなかった。だからこれは、必然的な結果とも言える。



 力尽き、目を閉じて横たわるマナをそのままに、僕は茶色いトランクを手に取る。

 コートを羽織り、手紙をポケットに仕舞い込んで、携帯を取り出した。

 その時、背後から、


「兄さん……どうか、いかないで」


 消え入るような、か細い声が耳に入った。初めて会った時、ノラは「冷たくも儚げな声」をもって訪れた。

 その声色は、死と隣合わせになった者にのみ備わる、特別な旋律なのだろうか。


「マナ、君は死ぬかもしれないし、案外生き延びるかもしれない。どちらにせよ、僕は興味がない。父さんには自分で連絡を取る」


 血を洗い流して濡れた顔を、タオルで拭き取る。それを投げ捨てて、扉を開く。


「おやすみ、マナ」


 扉を閉めて、ひどく軽いトランクを手に、階段を降りる。

 街の景色は、何一つ変わらない。

 僕にとってはあまりに衝撃的な事がいくつも起こったけれど、世界という尺度の上では変化など無に等しい。

 誰か一人の死で、目の前の日常が崩壊することなど、そうそう無い。



 携帯から目的の番号を選び取り、発信する。

 二度ほどのコールを経て、彼は電話に出た。


「約束は、当分果たせそうにありません」


 そう切り出した僕に対して、受話器越しに、彼は不明瞭な声を漏らす。


「ウル、その……」


 歯切れの悪い言葉で返す。彼、僕の父オズは、父として今どんな言葉をかければよいのか、それが分からないでいるのだ。

 それも致し方ない。彼は想像より遥か早くに妻に先立たれ、一人ぼっちで僕らを育ててきたのだから。

 そんな彼に対して、何の親孝行も出来ないことは、申し訳なく思う。

 けれど、そんなものは「贄」として捧げられてきた者の悲しみに比べれば、それこそ無に等しい感情だ。


「父さん、頼みがあるんだ」


 僕は、僕にしか出来ない最後の役目を果たすため、彼に全てを話した。




To be continued in Chapter 7.

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